第11話 床に就いて
葵をベッドに横たわらせてはみたものの。
パジャマに着替えて床に就いて十分が立とうとしているけれど、特に変わったことは起きない。
僕が寝させたままでじっと固まって、葵は動かない。
今日は色々とあり過ぎた。盛りだくさんの一日だった。
葵が一人で外に出て、僕らは僕らで取材を――と思ったら桐島さんの気遣い兼強がりだったり、それを慰めて前向きになっていざ現場に行ってみると、見事に予想が的中したり。
何だか、僕もどっと疲れてしまった。
答え合わせに対する葵のリアクションは語るまでもない。
自分が助けようと奮起していた相手が、既に幽世の存在だとは、ヒントなしに誰が予想出来ただろうか。
「はぁ……っと、ダメだ。眠くなってきた…まだ、夜じゃ…」
急激に、重い瞼が下がって来る。
今日はその日だ、なんて桐島さんの言が気になって仕方がないと言うのに――という抵抗虚しく僕の意識はすぐ夢の中へと落ちていった。
――……きて――
何だか懐かしい声がする。
都会の外れの公園の…って、随分と具体的だ。
――起き…――
よく聞く声だな。
あれからずっと、記憶堂にもやってきていて。
気が付けば、もう何ヶ月もの付き合いになるのか。
えらく感慨深いものだ。
――……けて――
もうそろそろ寝かせてくれ。
放っておいて、心地の良い夢の中に。
――助けて――
何を。
今僕は寝――
――助けて…!――
「……っ……!?」
目が覚めた。覚めさせられた。
背中にはじんわりと汗が滲んでいる。
見慣れない壁――からぐるりと視線を変えると、ここ数日で見慣れた天井と香りがした。
「ホテルか……変な夢だ。それに、あの声――」
ふと、小さく動く感触が背中に伝わった。指先だろうか。
それはもぞもぞと布団を掻き分け、中へと侵入してきているようだ。
やがて僕の背中に密着する形で落ち着くも、その息遣いは荒く、伝わる鼓動も速い。そして、
「う、うぅ…」
泣いていた。
聞き覚えのある嗚咽と声から察するに――本当に、よく泣く子だな。
「背中が濡れて寝られないんだけど?」
「うぅ……」
「自分の所に戻る気はない?」
「ぅ、ひっく…」
「そっか。じゃあ、そこにいればいいよ」
背中に伝わる感触は縦に動く。
頭をそのように振ったのだろう。
葵はなかなか泣き止まない。
部屋にはただ、空調と遠くから響くシャワーの音だけがする。
桐島さんまだ風呂に入っているということは、まだそう時間は経っていないということ。意識が落ちてから、ほんの数秒か長くて数分の出来事だったらしい。
葵がこうして触れてきたのは、通潤橋で膝を貸した時以降だな。
あの時も、感情の波に耐えられずに頭を預けて来たっけ。
おじいちゃんにも同じように――と言っていたが、その当時の葵は、一体何を思って、何を感じて、祖父の膝を借りていたのだろう。
幼心に、いつか別れることが怖くて泣いたのだろうか。
あるいは、それを前向きに捉えて甘えたのだろうか。
大好きな祖父の膝の上で写真を撮りたかった――という理由もあるかもしれない。
そう思うと、何だろう。
また一人で気負って、抱えて、そうして知った真実に打ちひしがれて、葵の心は今、どんな状態なのだろうと気になってしまう。
この速い鼓動は、焦りか、苛立ちか。
この溢れる涙は、自責か、悲しみか。
葵は今――どんな気持ちで、僕の背中にしがみついているんだ?
「ね、ねえ…」
気が付けば、葵の嗚咽は止まっていて、代わりに投げかけられる言葉があった。
言葉は音としての響きと、さらに強く掴まれる感触と共に心へと届き、僕は自然な「なに?」を口にしていた。
葵は少し黙って考えて、一瞬間だけ加えられた力を緩めて言う。
「まことは、いつから知ってた?」
リルの正体についてだ。
確証を得られたのは、桐島さんの言葉とカーディガンの件があってからだけれど、予想が付いたのは――
「初対面、かな。僕がリルを見つけた時、横には窓ガラスがあった。と、ここまで言えば分かる?」
「うん。映ってなかったんだね」
そう。
僕の姿は鮮明に、鏡のような鮮やかさで映し出していたというのに、そのすぐ目の前にいた筈のリルの姿は、本体も衣服も、何も映ってはいなかったのだ。
加えて、唐突な突風の後での移動、それに気が付かない二人のこともあったが――これは話しでも意味のないことだ。
「一目で分かったよ。彼女がいるのは”こっち”じゃないって」
恐らくは中途半端な存在か、完全に向こうにいるはずの存在だろうと。
葵はそれ以上何も話さず、ただ背中にしがみついている。
動く様子のない葵に、僕も身動ぎ一つしないでただ身を任せていた。
そこで、そういえばと思い出したことが一つだけあった。
桐島さんとした仮面の話。そこで聞いた、僕の知らなかったヴォルトの意味。
葵はまだ知らない話だ。
「ねえ、葵」
葵は口では答えない。が、掴む手にきゅっと力が入ったのは感じた。
まだ寝てはいないらしいからと、僕はそのままで続ける。
「リルが持っていた仮面だけど。あの種類の名前は”ヴォルト”って言ってね、ここの人にも観光客にも、一番手が出しやすくて広く人気のものなんだ」
「仮面…」
「うん。他にも種類がいっぱいあって――って、葵は色々本も読んでたし知ってるよね」
葵は無言で頷いた。頷く動作の感触だけ伝わった。
桐島さんとの会話の通り、マスクには大きく分けて五つの種類がある。そのどれもに起源があって、使われた意味もちゃんとしている。
その中で。
ヴォルト。これだけは、具体的な起源がない。本来ならあるのかも分からないけれど、少なくとも記憶堂にあった本、ネットにすら載っていなかった。
起源はないけれど、何を意味するのかだけは載っていた。
「”幽霊”。それが、あの仮面の言葉だ」
「ゆうれい…」
そう。
桐島さんからそんな話を聞かされた時、僕も葵と同じような反応を示した。と同時に、一番人気のものにそんな名前をつけるのはどうなのだろうと、皮肉すら感じてしまったのだが。
そんな僕の疑問に対して桐島さんは、マスク自体の起源と自分の考察を交えて、こんなことを言っていた。
『一番多く出回っているものだからこそ、それが幽霊なのかと。知っての通り、ヴェネツィアのマスクは身分を始めとしたあらゆるものの垣根を無くす存在です。そこに、既に幽世に至った者たちを招いて、一緒になって騒いで――マスクがなければ、知人たちはまた悲しみ、二度目三度目の別れを味わってしまう。だから、広く多く使われているものが”幽霊”で、だから、サン・ミケーレ島に運ばれて、少しでも長くこのヴェネツィアの地に居させてあげているのだと、私は思うのです』
悲しい話ですけれど。
そう括った切れの表情は、忘れられない程の複雑さを孕んだ、何とも言えないものだった。
「乗り場からはすぐだ。リルがそれを望むって言うなら、それを叶えてあげるのが良いって、僕は思うけど」
そう、葵に投げかけたつもりだったのだけれど。
背中を掴む手に力を籠めるでも緩めるでもなく、首を横に振るでも頷くでもなく、更なる嗚咽で以って応えるでもなく、
「そんな、こと…」
弱り切った声で、
「私、分かんない」
弱り切った言葉を漏らした。
「とっても、良い子。私の長い話、ずっと聞いてくれて、それで元気づけてくれて……初対面なのに、何だか仲良くなれそうで…友達、私いないから。やっと、出来るのかなって、そう思ってたのに…」
「岸姉妹を忘れてやるな」
「あの二人は――いい人だけど、友達っていうのとはちょっと違う感じで…」
「まぁ、分からんでもないけど」
きっと、それは本音だったのだろう。
年は離れていようと、波長の合ったものが友人だ。
確かにあの二人は、僕も良い人だとは思うけれど、友達として付き合うといった感覚ではなさそうだ。
ならば尚更のことだ。
友人とも思えるくらいの存在であるリルがそれを望んでいるのなら、やはり叶えてあげてこそ友人だと僕は思う。
ただ、それは葵も分かっているようで――心の整理がついていないだけだ。
「まあ、まだ日にちは半分ある。ゆっくりとはいかないまでも、その間に決められたらいいかな」
「……うん、そうする」
そう言うと、葵の手に強い力が加わった。頭は下へ、足は上へと、身体が全体的に丸くなっていく。
ついには背中から手を離し、膝を抱えるように動いた。
やっぱり自惚れもいいところだとは思うのだけれど、葵といると、どうしても妹のように思えてしまってダメだ。どうにかして力に、出来ないことの助けに――と、つい考えてしまう。
自分から動き出したことだから、そんなことを本人に言ったら怒られてしまうだろうけれど。
何か、葵がリルを見送る自信に繋がる材料はないものかと、探してしまう自分がいる。
祖父の件の時とはまた違った温かさを含んだ涙を流す顔を想像しただけで、妙にそれが頭から離れない。
優しい葵のことだから、友人はいなくとも人を思いやる心を持った葵を知っているから、それが容易に想像出来てしまう。
「う、ぅ……」
再び聞こえ始めたその音は、聞こえないふりをして布団を頭までかぶった。
程なくして桐島さんがバスルームから戻ると、開口一番、
「私から誘導しておいて何ですけれど、少し淫猥な状況ではありますね」
「それこいつに言ってみてください。きっと怒られるだけじゃ済みませんから」
「勿論言いませんとも」
どうして、桐島さんは夜になると小さな大人スイッチが入るのだろう。
そんなどうでもいい返しにどうでもいいことを考えていると、顔だけ出した僕を桐島さんが手招いた。
寝付いた葵を動かさないようにベッドから降りて、桐島さんの待つテーブルの方へ行くと、僕が辿り着くタイミングでこれ見よがしに今日の戦利品をドンを置いた。
「リアルト橋で買ってたやつですね。またお酌してくれってことですか」
「デート、まだ終わりとは言ってませんよ?」
また、なんてことを言い出すのか。
「……そっちの方が淫猥だ」
スイッチは振り切れているらしい。
桐島さんはボトルの蓋を開けながら、
「女性にそんなことを言うのは、ちょっとデリカシーに欠けますね」
と、むっとした表情。
そちらの方が先に言い出したくせに、と軽く流して、僕は桐島さんからボトルを受け取った。
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