第8話 仮面

「なるほどです」


 半ば一息に話し終えたところで、桐島さんはワインの二口目を飲んだ。

 少しも楽しむ余裕なくそれを飲み込むと「マスクですか」と漏らし、


「種類はご存知ですか?」


「マスクの種類ですか。いくつかは」


 十一世紀ごろまで遡る程の歴史を持つヴェネツィアンマスクには数多くの種類があり、それぞれに全く異なる意味と用途がある。

 大衆的に好まれてよく使われているヴォルト、貴族が顔を覆い街へと繰り出す為だけに使われたいるバウト、舞台女優が着けるアイマスクタイプのコロンビナ、ペスト医師という名を持つ鳥型、女性用のモレッタ。

 日頃溜まっている欲求を開放することが許されたとして、古くからヴェネツィアカーニバル等で多くの人が愛用している。

 無機質で無表情なヴェネツィアンマスクは、それを着けている間は人々から人格を取り払い、何者でもなく何者でもある存在へと変え、身分、階級、性別に年齢といったものの垣根を無くし、誰もが等しく楽しめるようになっているのだ。


 その便利さに、当時は総督までもがそれを着用して人込みに紛れ込み、政治や統治に関係のある話に耳を欹そばだてていたという話もある。


 その五つで基本は全てだったようで、桐島さんは「十分です」といつも通り流し、ワインをもう一口。


「コロンビナは有名ですね。そのほとんどが顔全体を覆う造りをしている中で鼻と口元を出しているのは、美しすぎるコロンビナという名前の喜劇役者に、顔を敢えて隠し過ぎないようなデザインにして、その美貌を少しは晒してやろうという配慮がされたのだと言われています」


「隠した姿が特徴的な街で、隠すのが勿体ないくらいだと言われた程の女性の話ですね」


「その通りです。鳥型も有名でしょうね。意味や用途は全く異なりますが、日本のアニメーションにもしばしば使われる、とても変わったデザインをしています。嘴くちばしの部分は空洞になっていて、その昔ペストが流行った時代、医師たちがペスト菌から保護すると同時に、そこに薬草を詰めていたという話です」


「そういった背景から、今では悪病から身を護る象徴として、カーニバルではとてもよく見られるものですね」


 改めて考えると、それはもうとてもよく考えられた話だ。

 それぞれに意味があり、その独特な形に全てちゃんと意味がある。


「モレッタ。”黒”を意味する仮面で、まあ見た目はヴォルトと同じですね。しかしヴォルトとは全く異なり女性限定とされ、また紐も取り付けられておらず、仮面の内側にある突起物を口で咥えて装着する為、飲食の一切が出来ず、無論話すことも不可能だったようです」


「一九七九年のカーニバル復活と同時に人が増えると、その不自由さから使われなくなったと聞いたことがあります」


「ええ。気楽に誰とでもコミュニケーションを取れるようにしたのに、それでは意味がないとされたようですね」


 もう一つ、と桐島さん。バウトを挙げて、政府が重要な会議をする際には装着することが義務付けられていたものだ、と括った。


 ここまではただ、ヴェネツィアンマスクの種類と用途について挙げただけで、中身は何もない。同じだけの知識を出し合い、共有しただけに過ぎない。

 僕が知っているのはここまでなのだけれど、しかしだ。

 まだあと一つ、大衆に一番好まれて使われている”ヴォルト”が残っている。

 全体的に白く、モレッタ紹介時に言った通り、目元以外には穴が空いていない。


 それについて考えたことはなかったけれど――よくよく考えれば、違和感だらけだ。


 疑問符を浮かべる僕を見て口を開く桐島藍子という人間が、僕なんかが知っているだけの知識に収まる筈はなかった。


「最後に一つ、ヴォルトです。見た目はモレッタ同様と、これは先ほど申した通りですね。ではその”意味”についてはご存知ですか?」


「意味?」


「はい。起源といった方が正しいでしょうか。コロンビナは女優の為に。メディコ・デッラ・ペスト、プラグ・ドクターと呼ばれた鳥型は医学特化。バウトは政治家用で、モレットは女性用。では、ヴォルトは?」


「大衆に好まれるように――ではなさそうですね。それなら、わざわざ後続的にモレットを出す必要はなくなる。であれば、男性用とか?」


「ブー、です」


 どうしてそこだけ子供のように――とは突っ込まなかった。


「ジブリール・ベニーニ。リルちゃんが持っていた仮面の種類は?」


「ヴォルトです。オーソドックスな白に帽子の」 


「なるほど。これも因果、なのでしょうね」


 と言った瞬間、残ったワインを飲み干して一息つくと、桐島さんはその意味を口にする。


「――――――――」


「……え?」


 彼女が発した言葉に、僕は一瞬間というには随分と長い時間、思考が停止してしまっていた。

 僕が桐島さんに披露した話と、あまりに合致し過ぎていたからだ。


 それがもし本当なら、何か、悪いことが起こるかも知れないという僕の予想が、下手をすると下手な状況になってしまうという危惧が、現実になってしまうかもしれない。


「様々な噂の通り、このヴェネツィアにまつわるそういった類の話に、あまり良いものはありませんから、神前さんの言ったように、下手な状況になりかねません」


 私の感じた”悲しみ”は、貴方の言う”寂しさ”だったのですね、と。


「リルと話している時の葵の顔……いつもは見せない色んな表情をしていました。凄く立腹して、凄く明るくて、凄く落ち込んで」


「あるいは、既に魅せられてしまっているのでしょうね」


「魅せられて? 何に?」


 桐島さんは少し溜めて一言。


「この街の不思議に」


「それって――」


 僕の話と繋がっていることか、はたまたそれを包み込む全てか――と尋ねようとした矢先。


 バスルームの扉が開かれ、中からバスタオル一枚だけを巻いた葵が顔を出した。

 僕は慌てて目を合わせないようにと咄嗟にワインボトルの文字に目を落とし、読めもしない活字に集中した。


「こっち、向かないで」


「逸らしてるだろう。なんでそんな格好して出てきたんだよ?」


 問うや、着替え一式を持たぬまま風呂に入っていたとのことだ。


「じゃあ早く取ってくれ」


「……何でそんなに怒ってるの? ドキドキ、しないの?」


「するし興奮もする」


「嘘、してないし怒ってる。昼間のこと?」


「気にしてない。気にしてないからさっさと服を着てよ」


「……分かった。直ぐに取って、戻る」


 やや低いトーンでそう言った直ぐ後で、ペタペタとこちらへ向かってくる足音が聞こえる。

 キャリーのチャックを開ける音、衣服の擦れる音が、三人とも喋らない静かな空間に小さく響く。

 服を、ズボンを、更には下着を選んでいるのであろうその音に、言葉通り、一切の気持ちの高鳴りも起きない。


 僕は、それほどまでに――


「取った。戻るね」


「実況しなくていいから」


「……まことのバカ」


 それだけ言い残して、視界の裏でまたバスルームの扉が閉まる音がした。


 言いようのない空気と緊張感がなくなると、思わず溜息。

 傍から眺めていた桐島さんは、それまでの真剣な表情から一転して、いつものように笑った。


 グラスを持ち上げて僕に見せて、


「お話は、またの機会に。お酒もなくなってしまいました」


 そうは言うが、ワイン自体ならボトルの中にまだ半分以上残っている。

 話し合いをする時間だって、葵が眠った後ならいくらでも――いや、それも違うな。


 こんな話、そうそう頻繁に隙を見てするものではない。


 納得すると、僕は桐島さんからグラスを受け取って軽く濯ゆすいで返し、その日の話し合いを終了した。

 そのすぐ後で葵が部屋に入ってきて「何か話してた?」と聞かれたが、何でもないと適当に流した。


「むー。怒ってるから、教えてくれないの?」


「しつこいよ。怒ってないし興奮もしたし、もう何も思っちゃいないってば」


「嘘の色が――」


「葵には分からないでしょ」


「……藍子さん?」


 何を聞いても答えを得られない僕からシフトして、ベッドに座って文庫本を捲る桐島さんの方へと歩いていく。

 が、しかしそこも流石は大人。演技力の無い僕の誤魔化しと違って、事情を知らなければそれが素だと思えるくらい、普通に当たり前に「お酒の銘柄について解説を」と誤魔化した。


 それにはなぜか疑いの目を持たず、藍子さんが言うなら嘘じゃないね、と自分のベッドにダイブ。


 本当は嘘塗れなのだけれど。

 ワインなんて、語られても分からないし。


 そうして、ようやくといつも通りの空気が戻ったかと思いきや。


「明日、昼間はちょっと一人で行動する」


 と、葵が言った。


 驚きに、僕は目を見開いて、桐島さんは文庫本を捲る手を止めて顔を見合わせた。

 枕に顔を埋めていた葵に見えなかったのは幸いだ。


 葵のそんな言葉に、さしもの桐島さんも「気を付けてくださいね」としか言えなかった。


 ダメだと引き止めたら、どうしてと尋ねたら、やっぱり気にして怒っているのだろうと疑われ、果てには僕らが何を話していたのか詮索されかねない。

 早急さっきゅうに解決したいというのに、迂闊に手が出せないのがもどかしい。

 下手に動けば、葵を傷つけ、リルには――


 しかし、今はどうしても見守ることしか出来ない。


 確実な瞬間が訪れるまで、葵にはそれを知られてはならないから。

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