第6話 真実と後悔、何かの足音

 仕方がなく宿に戻って、少し落ち着いて話をすることに。

 桐島さんに限っては取材を優先してくれてもいいところなのだけれど、しかし「もう終わりましたから」と僕と葵に着いて帰って来た。


 リルが両親に合流出来たらしいことは幸いだ。元より、それを目的としてわざわざ店に入り、神話しりとりに花を咲かせていたのだから。

 しかし、その去り際というか、消え方というか――いや、そも出会いから少し不自然ではあった。

 と主張できるのは僕だけだ。あの突風も、リルの行動も、二人は知らない僕だけの出来事なのだから。


 僕だけでなく三人で考えるべきは、他のところにある。

 一つ、リルは本当に両親と再会できたのか。

 一つ、”貸す”と言ったカーディガンはどうするのか。


 前者は、咄嗟に確認を取ろうと僕が駆けだしたというのに、その尻尾は掴めず。

 狭い狭い、複雑に入り組んだ路地だから、きっと角を曲がっていった背中を追っていったのだろうという結論に至った。


 後者は、一応の対処だけしか浮かばない。

 あげたことにしてしまって触れないようにしようとも、リルが律儀で正直だった場合、再びそれを返さんと店に現れるかも分からないからと、明日またマスカロンに行ってみて、店主にでも尋ねてみようかという結論に。


 そして僕だけが抱いた疑問がもう一つあったが――それは今はいい話だ。


「何といいますか……神前さん、今からお酒に付き合ってはくれませんか?」


「昼間からですか。何か思うことが?」


「ええ。どういったものか迷うのですが――私、どうもあの子を見ていると、落ち着かないんです」


 そう桐島さんが言った瞬間、葵が立ち上がって乗り出した。


「そ、それ、詳しく…!」


「え、ええ…そうですね…」


 葵の圧に押されるも、胸に手をあてて深呼吸をして気持ちを切り替え、桐島さんはそのままで続ける。


「落ち着かないというのは、うーん……マイナス、といったところでしょうか。中々ご両親が見つからないことに対する焦りを受け取ったわけではなく、こう、もっと抽象的と言いますか…言葉にするのは難しいです」


「不安?」


「そう、それです…!」


 と、桐島さんも葵のように立ち上がって鼻を突き合わせた。


 やっぱり、と葵は桐島さんと共通であろう感覚を話していく。

 きっぱりと単語で言い張った葵にも分からないことだとは言うのだけれど、それは”不安”や”悲しみ”といった気持ちに酷似しているらしい。どうしてそんなことを思うのか、どうしてそうまで気になってしまうのか、どうしてはっきりとしないのか、何も分からないけれど、胸の奥が少し締め付けられるような気持ちがするのだそうだ。


「そ、れは――」


 僕にも僅かだが感じることはある。しかしそれは、悲しみではなく”寂しさ”だ。

 何かがあって悲しい、何かが起こるだろうと不安になっているのではなく、何も起こらない故の寂しさといった感じなのだが――。

 何もはっきりとしないのは二人同様なので主張は出来ないけれど、どこか違う気がしてならない。


「会えば、これが何だか分かるでしょうか…」


 と、桐島さんは寂し気に呟いた。

 そう、寂し気に。


「分かるという保証はありませんが、会わないことには分からないままな気はします」


「そう、ですよね…では――」


「ですが、それが正しいかどうかは分かりません」


「……どういうことですか?」


 これもどう言葉にしたものか分かったものではないけれど、リルは何かが違うと言うか、本能的にあまり関わってはいけないような気がするのだ。

 しかしそれをはっきりと伝えたところで――とも思うが、感情を見通す”眼”を持っている彼女に嘘は通じない。

 ここは正直に――


「あまり、関わらない方が良い…ということです」


「それは……いえ、嘘の色は見えません」


 やはり。

 詰まって黙る僕を、桐島さんはその眼で見ていたのだな。


「嫌いだとか苦手だとかって話ではなく、少し怪しいと言いますか」


「怪しい?」


「はい。何の証拠もなく、また予想すら出来ないのですけれど、何故だか関わった方が良くない気が――」


 既に結論まで言いかけた所に。


 突如として、机を叩く音が鳴り響いた。

 自分でも意図せぬレベルだったのか、はっと我に返った出した主――葵は、ひりひりと痛む両手を互いに労わりながら背中を向け、


「散歩、行ってくる」


 それだけ言い残して、逃げるように部屋から出ていった。


 しまった。

 自分と重ね――と、桐島さんが言っていたばかりではないか。

 境遇も立場も違えど、親というキーワードが関連しているだけで身体が動いた葵には、今の話をそのまま伝えるべきではなかった。

 悲しい、不安だといったものを感じたのは嘘ではない。それを感じられてしまったから、放っておけなかったのだ。


 後悔先に立たずとは、本当にその通りだ。

 リルのことに気を取られてばかりで――少しでも葵のことを考えていれば、桐島さんだけ呼び出して後から話すなどしていれば、こういった事態にはならずに済んだものを。


 一呼吸置く間に、思いつくようなものだ。


「焦りの色が視えます」


「ええ、まあ。あいつ、迷わず帰れるのかな」


 と、それも嘘ではなかったが。

 それを聞いた桐島さんは、意外そうな顔をして笑った。


「何ですか?」


「それ、本心のほんのひと欠片ではありませんか?」


「……………………」


「肯定と受け取ります」


「割と性格悪いですよね」


「気遣いと捉えて欲しいものですね。それより、早く追ってはどうですか? この時期、ヴェネツィアの日没は遅いですけれど、それは同時に、微妙で曖昧な暗さが長いということです」


 桐島さんは窓の外、空を見上げて、


「透明なままで葵さんと話せば、きっと分かり合える筈ですよ」


 柔らかな声でそう言った。


 まったく、この人には敵わない。


「……ちょっと夜食を買ってきます」


「ふふ。どうぞ遠回りを」


 意地の悪い見送り文句を背に、僕は再び外に出ていった。


 つい数刻前の店内が嘘だと思う程、清々しく冴えわたる青空からは柔らかな光が温かく降り注ぎ、ぎこちなく動く四肢を解きほぐす。まるでこれから成さんとすることを応援するかのように――と思うのは、いつも通り僕の妄想、都合のいい解釈だ。


――勝手に仕切ったその中で自分を認めるくらいが、人間らしい――


 いつか葵が僕に向けた言葉だ。

 こういう時だけそれを持ってくることこそ、まさに都合のいい話だ。が、それは皆等しく無意識の内に行っていることだと分かっている今、引け目を感じることはない。

 寧ろそうあれとすら言われたのだ。大いに乗っかってやろうじゃないか。


 葵のことだ。僕の配慮が足りていなかったことは明白だけれど、それだけに押し込むようなことはせず、自分にも、とどこかで肩を落としていることだろう。

 やや興奮気味に出ていった時とは打って変わって、少し落ち込むようにして。


 どこか、とは。


「あそこだろうな」


 右も左も分からない、初めての海外。

 言語の理解は出来るようだけれど、それがそのまま自信になっている筈はない。

 不用意に歩いて、彷徨って、迷ってしまってはいけないと自覚はしていないわけはない。

 そんな、マイペースでしっかりものの高校三年の女の子が、僕や桐島さんと行動を共にすることで知っている場所と言えば――


「……いた」


 不思議と観光客の少ない今のヴェネツィアで、溜息橋を見にやって来た離れ橋で、その小さい背中を見つけることは容易かった。

 頬杖をついた腕に体重を預けて背中を丸めて、溜息橋の方に目を向けて溜息を吐いている。


 ショートパンツにレースアップブーツ、ノースリーブの上に薄いロングのカーディガン。

 いくら夏とは言え、流石に通気性の良過ぎるそんな装いで外にずっと居ては風邪をひきかねない。

 歳は一つしか変わらないけれど、どこか幼い妹のような危うさを覚える年下に風邪なんかひいてもらうのは、桐島さんの言葉を借りるようであれだが、やはり釈然としない。


「まぁ、悪いのは僕だよな。おーい、あお――」


 言いかけて、やめた。


 溜息を吐いているからと黄昏ているようにも見えたその横顔には、しかし暗さの色が聊かもなかったのだ。

 どころか、一人寂し気にそこにいるのかと思いきや、しきりに口を動かして――そう、誰かと会話をしている様子である。


 むすっとして、何かに怒って、笑って、また頬杖をついて丸まって。

 そんなことを何度か繰り返して、ひと際大きな溜息を吐いた葵は、柵についた手を伸ばして上体を勢いよく伸ばして、


「な、んで……!」


 その姿の向こうに、桐島さんのカーディガンを着ていないで、代わりに”ある”ヴェネツィアンマスクをかぶり明るく笑う、リルの姿があった。

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