第5話 話せる

「ここの人、だよね?」


 少女はこくりと頷いた。


 聞けば、一緒に来ていた父母とはぐれたところに僕らが出くわして、唸り声のように聞こえたものは、悲しさ寂しさから来るうめき声のようなものだったらしい。

 まったく紛らわしい、と呆れる僕の前に桐島さんより先に出て少女の肩に手をやったのは、意外にも葵の方だった。


 そのまましばしの思考。

 やがてすぐに何かの整理がついた様子で、


「手伝う。どこで別れたか、教えて」


 初対面、且つまだ得体の知れない少女に向け放たれる言葉は、確かな強みを持っていた。

 その鋭い眼光で見つめられた少女は、静かに頷き、あっちと言いながら通りの奥を指さす。

 少女の隣に葵、後ろに桐島さん、その更に後ろに僕と並んで、少女が指さした方を目指して歩き出す。と、コミュニケーションをとる際に不自由があってはいけないからと、葵は少女に名前を尋ねる。


 少しばかり妙な間が見受けられたけれど、すぐに少女は自身を”ジブリール”だと名乗った。

 ジブリール・ベニーニ、それがこの少女の名前だ。

 名前ジブリールで呼ぶのも、かといって苗字ベニーニで呼ぶのも長かったりしっくりこないということで、呼びやすい名前、葵の希望であだ名の一つでも考えてみようという運びになり、結局、


「リル……リル、うん」


 桐島さんが出した”リル”という呼び方が、本人的には一番好評で、すぐにそれに決まってしまった。

 少女は、何度か小さく口の中で「リル、リル」と繰り返し、その度に幸せそうな表情を浮かべる。

 普段はどう呼ばれているのか、あるいはあだ名というもの自体が初めてなのか、ただひたすらに頬を緩めていた。


 少し歩いて見えた”アル・マスカロン”という店を指さして、あそこで別れたのだと少女改めリルが駆けていく。

 しかし慌てて後を追うも、すぐにリルは「いない」と肩を落とした。


「待っていれば来るかも分からないから、窓際の席から外を見ていましょうか」


「うん」


「ごめん、藍子さん」


 すぐに見つかるかと思っていたようで、予想と違い存外に時間がかかってしまいそうな展開に、葵はしゅんとして謝った。

 それを見上げていたリルも、バツが悪そうに眉根を下げている。


 見た目には随分と不気味なマスカロンが出迎えてくれる扉をくぐって店内へ入ると、中はその限りではなく意外と落ち着いた雰囲気で、子どもにも居心地は悪くなさそうなものだった。


「Preferisco a stare vicino alla finestra.」


 窓際の席が良いのですが、といった意味のこの決まり文句は、普通は景色や夜景の綺麗な店で言うものだけれど、今回は事情が事情だからと、周りの目を気にすることは捨てて桐島さんが店員に言った。

 店員はやはりと少し訝しげに眉をひそめるが、すぐに「Si prega di cliccare qui.」と僕らを手招く。


 外が見えるようにリルを窓と向かい合わせに座らせ、僕らもそれぞれ席に着く。

 つい先ほど朝食を食べた手前あまりお腹が空いていなかった我々三人。しかし店内に入ったからには何か頼まなければいけないと、多少無理はあったが三人で食べるということでロブスターのパスタを注文した。


 やがて運ばれてきたそれは良い香りが鼻を突いて美味しそうで、しかし空腹感のあまりない状態で食べきれるのだろうかと不安を抱かせる。


 とりあえず頼んでおいた飲み物をリルに渡し、ちまちま食しながら窓の外を観察する。


「通りました?」


「ううん」


 リルは首を横に振り、またじっと外を見つめる。


「あの…ごめん、なさい。私が勝手に…」


 ふと、葵が頭を下げて謝った。

 厄介に巻き込んだ上、大事なお金まで払わせてしまって、と。

 桐島さんは「気にしないで」と諭しているけれど、それでも重ねて迷惑をかけたことに納得いかないようで、葵は頭を上げようとはしない。


 本人の前で、と思うも、窓の外に噛り付いてリアクションを起こさないことは幸いだった。


「そも、誘ったのは私の方なのですよ? 葵さんが気を遣う必要なんてありませんよ」


「でも…」


「貴女自身の境遇もありました。親と別れたのだと話す少女が、放っておけなかったのでしょう?」


「……はい」


「なら、何も不利益はなかった。寧ろ、自分の為ではなく人の為にと名乗りを上げた貴女自身のことを、誇ってもいいものだと思います。私からすれば、それすらも今回の旅の資料となりますから。優しい女の子の優しい心、と」


 えらく詩的な言葉を持ち出してくるものだが、桐島さんならそれが違和感なく見えてしまうのが不思議だ。


 それを聞いた途端、葵はやっと顔を上げて桐島さんの目を見た。

 向かいで微笑む小説家の表情には、一切の迷惑気もなく、ただ慈しむように葵を見つめる。


「人の為に動けて、それで周りに迷惑をかけてしまっているのではないかとちゃんと謝って。そういうところは、葵さんの美点だと思いますよ」


「美点…?」


「ええ。だってそうでしょう? 直ぐ目の前で困っている人がいても無関心な者だって大勢いる中で、貴女はそれに手を差し伸べたのです。それって、人としては普通なようで、存外と難しいものなのです。わざわざ厄介事に首を突っ込んで――と、そう思う人は多い」


「で、でも、それじゃあ…!」


「だから、美点なのです。そうやって、それが当たり前だと、放っておけないと思える心は、それだけで既に尊いものなのです。だから、迷惑なことなんて何もない。前向きに、見つかることを願って待ちましょう。ね?」


 最後の明るい笑顔を以って、頬を染めて薄っすらと目に涙を浮かべた。

 聖母のようなこの人から放たれる言葉に、葵はすっかり虜だ。


「ありがとう…ございます」


 照れきって、染めきって、真っ赤になって葵は俯いた。


 しかし、この店に入ってから実に三十分が立とうとしているが、一向にに誰かが現れる気配がしない。

 外を眺めるリルの目も、段々と力を失ってきている。

 そろそろロブスターもなくなってしまう。早いところ、来てはくれないものだろうか。

 仕事ではない故に時間は多少あるのだけれど、ずっとこのままというわけにもいくまい。


 葵の提案で、簡単なゲームでもしながら時間を潰そうということになった。

 ゲームと言っても何も物がない以上、国の背景を考えた言葉遊びの方がいいのではとも思ったけれど、多少なりとも日本語が話せるのであれば、知っている単語を言うだけで済む”しりとり”が良いだろうという結論に至り、決まると早速リルから開始された。


「好きな言葉――神様?」


「随分と信仰が厚いようだ。えっと、神様、ま……マルドゥーク」


「神様しばりなの? まぁいいけど…」


 別に縛ってはいないのだけれど、葵もその筋には強いのだろうか。

 やや思考し、すぐに解答を出す。


「クベーラ」


「マイナーですね、インド神話における財宝の神ですね。では、オーソドックスにラー神を出しましょう」


「今度はえらくメジャーだ。それは”ら”か伸ばしの”あ”かどちらにしましょう?」


「同じになってしまいますから”あ”の方で。リルちゃん、どうぞ」


「アグニ」


 インドはヒンドゥー教から即答とは。

 それ程までに神様シリーズが好きなのだろうか。

 今度じっくり、話してみたいかもしれない。



 奇妙なしりとりは続き、やれヒンドゥーだの、やれキリストだのと盛り上がっている内に、気が付けば時間は昼食時になっていた。

 そんな時間帯に至っても、しりとりをしながらもずっと外に目をやっていたリルが微塵も反応しないとなると、まだ両親はここを通ってはいないとういうことだ。


「どうしよう…」


 葵が弱気に呟くと、桐島さんは「大丈夫です」と、気楽に待つよう促す。

 しかし確実に時間が進んでいることも事実。いい加減、現れてもいいものだと思うのだけれど。

 そも、娘と別れたとなれば、その日歩いたところを洗うのがセオリーではなかろうか。我武者羅に走って探しているのだとしたら、見当違い――いや、勘違いもいいところだ。


「昼間だというのに、少し冷えてきましたね。リルちゃん、大丈夫ですか?」


 言われて気が付くのは、店内の温度がやや下がってきているということ。通常、どんなところでも店というやつの室温は、大体一定値になるよう調整されている筈であるから、あくまで体感、主観の話ではある。

 とはいえそれも確かなもので、尋ねられてたリルも左右の手で反対側の腕を摩って熱を作っていた。

 そも、どうしてここまで薄着なのか。

 外国人女性に対する勝手なイメージだと、この子のように極度の薄着で胸元が大きく空いたキャミソール的な服といった装いなのだけれど、しかしそれは普通女の子には当てはまらず――周りは何もないように過ごしているし、冷房が効きすぎているという風でもなさそうだ。


 分からない。

 日本の平均的な夏の気温に比べ、ここは低い方に五度以上の差があるというのに、それが上着を羽織るという結論には至らなくとも、袖付きの服を着てもいいのではないだろうか。


 桐島さんにしてもそうだ。

 薄手とはいえ一枚羽織を着ているのに、それで寒さを感じるのも逆に異常だ。


 そうと分かっていながらも寒さを感じる僕も、異常だ。


「あ!」


 不意にリルが叫んだ。

 窓の外に目をやったままということは、両親の姿でも見つけたのだろう。


 そうして弾かれたように席を立つリルを、桐島さんが呼び止めた。


「私のこれを貸してあげます。子どもが風邪をひいては、大人として心苦しいものがありますので」


 と、手渡したのは自分が着こんでいた薄いカーディガン。

 でも、と口籠るリルに無言で笑顔を向け続けていると、ありがとうとそれを受け取って羽織り、店を飛び出していった。


 せめて挨拶をと思い、僕は咄嗟に通りに出るのだが――



 閑散とした狭い路地裏に、その軽い足取りから成る足音は響いていなかった。

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