第2話 水の都

 さてこちら、イタリアはヴェネツィアまでの道のり――実に十四時間。

 もう三ヶ月以上も前のことになる通潤橋への遠征でも十二時間だったというのに、今回は更に二時間も増えていた。

 途中、何々が見えた、綺麗ですねという葵と桐島さんの会話、ヴェネツィア名物”アクア・アルタ”は冬らしいですね、といった桐島さんの観光解説が耳に届いたけれど、僕はほとんど夢現に聞き流していた。


 というのも、この歳になって情けのない話ではあるのだけれど、昨夜は興奮で全く寝られなかったのだ。

 写真では飽きる以上眺めた理想の都市をこの目で見た時、どのように映るのか。マスクをかぶった人には会えるだろうか。ヴェネツィアングラスは幾らだろうか。と、あれやこれやと思いを馳せている内に、気が付けば小鳥の囀さえずりが聞こえて来ていた。


 だからと静かに眠っていたのだが、リアクションをしない僕に、また子供のように膨れて見せた桐島さんの横顔は、しっかりと捉えていた。


 飛行機で約十二時間、イタリア・ミラノまで直行便で渡り、鉄道にてヴェネツィア都市内は”サンタルチア駅”まで約二時間かけて赴く。 


 と、それだけの過程を経て今立っているのは――


「到着しました、ヴェネツィアです!」


 声高らかに両手を掲げ、天を仰いで胸いっぱいに異国の空気を吸い込みながら、桐島さんが言い放つ。

 倣ってスーハーと繰り返す葵も置いて、僕はただ、冷静にその風景を眺めた。


 行き交う人々、肌に触れる空気の温度、日差しの強さ、どれをとっても日本とは明らかに異なる、遠く離れた手の届かないと思っていた場所に――今、こうして足をつけている。

 不思議だ。

 ただただ、不思議だ。

 眠っていた時間を抜くと、わずか二時間と少しでここに辿り着けるとは。


「桐島さん…」


「はい、何でしょう?」


「何と言うか……感謝しかありません。大好きです」


「あらあら。それはヴェネツィアの街並みに対する感想でしょうか?」


「え…!? あ、いや、それはその……」


「ふふ。冗談ですよ」


 と笑う顔は、いつもの悪戯顔。

 と、僕と隣で未だ空気を吸って吐いてを繰り返している葵の手を同時に取ると、


「行きましょう。ヴァポレットに乗り遅れてしまいますよ」


「え、あ、はい…!」


 サンタルチア駅広場を抜けた先すぐのところにある、水上バス”ヴァポレット”の乗り場を目指し、ぐんぐん手を引いて歩く桐島さん。

 一番はしゃいでいるのは、一体どこの誰やら。

 隣で一緒になって手を引かれる葵と目が合うと、互いに苦笑い。

 すると、やや呆れて溜息を吐く僕らの手を離し、そこでストップと伝えると自分だけ十歩分くらい進んで、


「せっかくですので、ヴェネツィア旅行初の写真を撮りましょう!」


 振り返り様に見せた笑顔の無邪気さは子供のそれだった。


 そこでまた、顔を見合わせて笑う僕と葵。

 幾つも年上なのに、どうしてこうも楽しめるのか。


「取材旅行じゃなかったんですか、桐島さん?」


「それはそうですけれど、楽しめる時には楽しまないと。損じゃありませんか?」


 高説ごもっともなのだけれど、ついさっきというかたった今、ヴァポレットに乗り遅れるからと引っ張っていったのは何処の誰だったろうか。

 楽しいなら、いがみ合っているより幾分も気が楽なことに変わりはないけれど。


 桐島さんは、近くを通った中年の男性をつかまえて「Excuse me.」と声を掛けた。


「Could you take our picture with this camera?」


「Yeah,please. Should I take you together?」


「You're right! Thank you for taking time for us.」


「I don't mind. then I take it.」


 凄い。

 本当に会話をしている。


 えっと――うん、速すぎてよく聞き取れなかったな。


「葵」


 隣で何のことはない様子で会話をする二人を見ている葵に声を掛ける。

 仕方ないなぁと溜息を吐きながらも、丁寧に翻訳をして今の会話内容を説明してくれた。


「えっと……順にいく。『すいません、このカメラで私たちの写真を撮ってくれませんか?』『あぁ。貸してごらん。あんたらを撮ればいいんだね?』『はい。お時間をいただいてありがとうございます』『構わんよ。それじゃあ、撮るよ』って感じかな」


「な、なるほど……」


 話せる方も話せる方だが、会話に参加していない立場でそれを聞き取れる方も聞き取れる方だ。

 流石は全国一位。といっても、そのレベルならこのくらい、実力の何割も占めてはいないのだろうけれど。


 男性に簡単な使い方を説明し終えると、パタパタと駆けてくる桐島さんを中央に、右に僕、左に葵と並ぶ。単純なピースのポーズを取って静止、男性の掛け声でシャッターが切られる。

 一枚、二枚、三枚と撮ったところで、桐島さんが「サンキュー」と列を離れた。


 フィーリングで理解した限りだと、ありがとう、何の何のといった内容の会話が聞こえてくる。

 男性の撮った写真を確認し、これで良しと「うんうん」と頷くと、二人ともが片手を上げて歩き別れる。話しが終わったらしい。


 と、男性が振り返って「The lady of the camera?」カメラのお嬢さん、と呼び止める。

 何でしょうと振り返った桐島さんに、


「We're speak Italian in this town. I am an exception. Have a nice trip.」


 とだけ伝えると、再び前を向いて歩き始めた。

 隣では桐島さんが「おーまいが」と、今まで英語を話していた人とは思えないカタコトで顔を押さえている。


「えっと…」


「『この街ではイタリア語で話すんだよ。僕は特別だ。良い旅を』だね」


「あー」


 そういえば。

 会話が成り立っていたから疑問を抱かなかったけれど、ヴェネツィアはイタリア国内にある都市だ。自然、ここに居る人たちはイタリア語を話す筈だ。

 軽くコミュニケーションの取り方でも見ていれば、桐島さんならあっさりと話せるようになっていたものを。

 なるほど、念のためにと買っておいた”イタリア旅行入門”なる本が役に立つらしい。


 しかしいつまでもしょげているのも桐島さんらしくなかった。

 存外あっさりと立ち直ると、前向きに「これからです、これから!」と頬を叩いて、


「とりあえずヴァポレットです。早いところ、ホテルに入っておきましょう」


 そんなことを言う桐島さんに、またまた僕らは苦笑い。

 今度は見られていたようで、頬を膨らませて怒られた。




 サン・マルコ広場。

 世界で最も美しい広場と称されるものだけれど、実際にこの目で見た時、その程度のものではなかった。

 美しい、という言葉には収まりきらない程の存在感は、写真で見た時の興奮を優に超えた感動を与えて止まらない。ただ眺めているだけでこれだけの夢見心地を味わえようとは、思いもよらなかったことだ。


 広場に立って正面に見えるはサン・マルコ寺院。

 東ローマ帝国の勢力下で興った建築様式”ビザンティン建築”を代表する記念建築物であるとされている。

 それに隣接して荘厳な姿を大衆に晒しているのは、元総督邸兼政庁ドゥカーレ宮殿。

 運河を隔て、対岸にある牢獄の跡と溜息橋で結ばれている、現在ヴェネツィア市民美術館財団が抱える見術間の一つ。一般公開されているが、入館料として十九ユーロは約二千と五百円。そこまで高額というわけでもない。


 そんな中で、僕が一番見たかったのは。


「大きい」


 呟いたのは、僕ではなく隣にいる葵。

 見上げ、言葉を失った僕の心を代弁してくれていた。


 高さ約百メートルのカンパニーレ。訳は”鐘楼”。

 九世紀に建てられたこれの当時の役割は見張り台。ドゥカーレ宮殿に仕える警護兵舎の一部としても使用された。五つの鐘があり、処刑、上院の開会、正午、議員招集、労働日の始終を知らせるといった、それぞれが異なる役割を担っていた。

 こちらも一般開放されており、八ユーロでエレベータを使用し鐘室へと上ることが可能で、四方開けたそこからはヴェネツィアを景観をどの方向にも一望出来る。

 オーストラリアのブリズベン市庁舎、ニューヨークのメトロライフタワーといった高層建築物のデザインに大きな影響を与えたとされる。


「おっきいな……ここまで驚くとは思わなんだ」


 漏れた僕の感想は小並感。

 自分が本当に感動するものは、月並みな言葉以外では形容し難いものなのだ。


 僕と葵は見上げて眺め、桐島さんの方からは幾つもシャッターを切る音が聞こえる。

 やがてそれが止むと、


「ここから二百メートル程でしょうか、歩いたところに、予約しておいたホテルが――」


 と、桐島さんは言いかけて淀む。

 そう、その時僕は、誰の言葉にも耳を傾けられる状態ではなかったのだ。


 ただ黙ってカンパニーレを見上げる僕に、


「上ってみます?」


 と桐島さんが提案する。


「え、っと……ホテルの時間は?」


「特には。さっき急いでいたのは、ヴァポレットがすぐに出発しそうだっただけなので」


「そうなんですね。では、お言葉に甘えて……」


「ふふ」


 と、桐島さんが何かに我慢ならず吹き出した。


「な、何か…?」


「その訛り。イントネーションも、さっきから変ですよ?」


「そ、そういえば……こほん。な、直ってます?」


「ふふ、全然ですよ」


 隣からは葵に「変」ととどめを刺される。

 なかなか標準語に戻れない僕にかけられる「ご存分に」という桐島さんのゴーサインを以って、広場を抜けて鐘楼の方へと歩いた。


 鐘楼下のカウンターで構えるおじさんに入館料を払い、小さなエレベータに乗り込む。

 かなりの年代物だと思われ、”アップ”と”ダウン”のボタンしかないそれに少しの不安を覚えながらも、何とか鐘室へ辿り着いた。


 まず目に入ったのは、ここを鐘楼たらしめる大きな鐘。

 人間何人分もあろうというそれは、エレベータの扉同様にかなり年季の入った色をして吊り下げられている。

 正面には、ペスト流行時代に聖母マリアに捧げるため建てられた”サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会”、広場をぐるりと囲むサン・マルコ寺院にドゥカーレ宮殿。天気が良い今日は、奥にヴェネツィア国際映画祭の開催地であるリド島まではっきりと見える。


 これほど贅沢な景色があっていいものだろうか。

 世界一美しい広場だなんて、もはや言葉限りのものではない。

 今回は偶然待ち時間はなかったが、普段は大体三十分は待つというところで、カンパニーレには上らない観光客も多いらしいが、時間を掛けてでも上る価値は十二分にある。


 眺望を終えて下に降りると、ようやくとホテルを目指そうとする。

 ふと見やった腕時計は、入場前から四十分も経っていた。体感ではほんの十分程度の出来事だった気がしてならないのだが――集中していると、これほどまでに体感と実際で差が生まれるものなのか。


 桐島さんが予約したというホテル”アル・コデガ”まで二百メートル、徒歩は三分四分の道のり。

 その道中、冷めやらぬ興奮に言葉を失い黙りっぱなしの僕を見て、葵はいつも通りの表情を浮かべ、桐島さんはただ優しい目を向けて微笑んでいた。

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