第3話 夕食、大人な夜

 アル・コデガで僕らを待ち受けていたのは――


「ですから、事前に謝っておかなかったのはごめんなさいと――」


 必死になって謝っているのは桐島さん。

 対して謝られている対象は、謝る葵さんではなく僕を睨みつける葵だ。


 路地を少し入ったところに、ひっそりと佇むホテル。

 隠れた立地とは裏腹に観光客からは人気で、時期によってはすぐに予約で埋まってしまう。

 だからと言って――だからと言ってこう言った事情であれば僕らにも一報入れて、別の所を探すとか他にやり方はあったのではないだろうか。


 桐島藍子。記憶力は完璧でも、完璧主義者というわけではないらしい。


「まことが一緒なのは嫌」


「言い方ってものがあろう言い方」


「お部屋を一つしか借りられなかったのは私の不手際で――」


 それは違う気もするけれど。


 実に二十分を要した堂々巡りの言い合いの末に出た結論は、僕がソファ、二人はベッドという、岸家でのそれと似たような待遇になってしまった。

 あれだけ腰が低かった桐島さんが「ベッドじゃなきゃ寝られないんです…!」と言ってきた時の剣幕は凄まじいものだった。


 寝床の割り当てを終えると、僕らは一度ホテルを出て夕食へ。

 これも桐島さんのおすすめで、一キロほど離れた所にある”トラットリア・ポンティーニ”を目指して歩く。


「トラットリアとは、イタリア語で大衆料理店を指す言葉ですね。ポンティーニは特にお高くなく、またお堅くなく、軽快に軽快な料理を振舞ってくれる場所として有名です。口コミなんかでも、とても評判です」


「へぇ。おすすめのメニューとかってあるんですか?」


「勿論です! まず食べて間違いがないのはペスカトーレですね。ネットの評価上で二位との差は数倍以上も開いてましたね」


「それほどのものなのですね。では僕はそれで」


「私も」


 と投げやりに言い放つ葵。

 僕も人のことは言えないけれど、せっかく洒落たイタリアンレストランに行くのだから、メニューを選んでからでも遅くはない気がする。

 と言っても、それだけ人気なら混んでいるという可能性も有り得るから、時短にはいいのだろうか。

 初の海外旅行は要領が分からな過ぎて困るな。


 ものの二十分ちょっとで着くと、そこは長蛇の列――ではなく、


「意外と空いているものなのですね。助かりました」


 と、桐島さんはさっさと店内へと入っていく。

 注文くらいなら指さしで済みそうなものだけれど、言いようのない不安に駆られて、僕は葵の袖を引いて桐島さんの後に続く。


 歩きながら思ったことは、この人のイタリア語を離せないということだった。

 ガイドブックを持っているのは僕。ひょっとすれば、この中で一番役に――


「Buona sera」

「おぁ…!?」


 そう発したのは、出迎えた店員ではなく桐島さん。結果、変な声が出ました。

 宿で一瞬間だけ僕の本をチラ見していたのは知っている。記憶力が凄いことも。

 だからといって、発音が出来るかどうかは全くの別問題というか、日本人とイタリア人とでは、そもそもの舌の使い方も違っていて、付け焼刃に成せるものではないと言いますか。


 こんなに美味しいリアクションを取れるとは、自分でも思わなかった。


「Un tavolo per 3,per favore?」


「Ho capito.Si prega di cliccare qui」


「Grazie. さぁお二人とも、こちらへ」


 事も無げに振り返る桐島さん。

 思わず点にした目で葵を見やる。


「何? 期待しないで」


「だよね」


「三人用のテーブル席をお願い。了解、こちらへどうぞ。ありがとう――といったところかな」


「ふぇ…!?」


 変な声が出ました。


 事も無げにパートツーは、まさかの葵からだった。

 桐島さんに負けず劣らず、記憶力というかの見込みの速さというか、もう僕とは明らかに違う次元に居る人たちだ、この二人。


 案内された窓側の席に腰かけると、着いて来ていた店員さんに桐島さんが声を掛けた。 


「Avete un menu in giapponese?」


「今のは何て?」


「日本語のメニューが無いか聞いたみたい。店員は首を振ってるね」


「Per favore dammi 3 pescatora.」


「今のは?」


「ペスカトーレ三つください。藍子さんもそれにしたんだ」


「Un attimo, per favore」


 そう残して、店員は厨房の方へと戻っていった。

 なるほど、さっぱりだ。

 話している言葉自体もそうだけれど、桐島さんは今は置いておくとして、葵がどうしてこんなにも飲み込みが早いのか。自動翻訳機でも持っているのだろうか。

 あるいは葵自身が機械で――


「サイボーグじゃない」


「心を読まないでよ」


「やっぱり」


「引っかけたな」


 怖い怖い。


 どうにもついていけない次元の差を感じて溜息を吐く。

 すると、メニューを頼み終えた筈の桐島さんが、手すきの店員を捕まえた。


「Che tipo di vino ci consiglia per questo piatto?」


「この料理にはどんなワインが合いますか?」


 もう勝手に翻訳してくれている。


 店員が指したものを追加で注文すると、今度は、


「Dov’è il bagno?」


「トイレはどこ――」


「もう葵さん…! 女性のそれをばらさないの…!」


「あ、すいません」


 なるほど、今のはトイレがどこだか聞いていたのか。

 文字を読むのもいいけれど、空気を読むのも大切だぞ葵よ。


 いそいそと席を立って促された方へと桐島さんが消えていくのを見送って、僕は暇つぶしにと葵にちょっとしたクイズを出してみた。


「デザートはありますか?」


「どべ…ドヴェ、イル、バ、ヴァグ……言えない」


 話せはしないのか。

 いや、読めるだけでも十分過ぎるくらいだけれど。


 ただちょっとした好奇心で確かめたかっただけなのだけれど、葵はそれを悪戯やいじりと受け取ったらしく、膨れて「悪かったわね」とそっぽを向いてしまった。

 そうじゃないと慌てて止めるも、いつかのようにべっと舌を出して反抗。

 以降、花摘みを終えた桐島さんが戻るまで、無理な姿勢を意地で維持していた。


―――


 その後も、桐島さんの綺麗で華麗なイタリア語を聞きながら食事は終了。

 ホテルに戻ると、葵は倒れ込むように――と、これも岸家で見たような光景だった。


 僕はイヤホンを装着して、テレビを小さめの音で点けてソファに腰掛けている。

 ノリと勢いで再生し始めたテレビは、日本語字幕もなく、やはり面白いものではなかった。

 画面の明るさで起こしてしまってもいけないからとテレビを消して毛布をかぶると、葵と一緒に床に就いた筈の桐島さんがむくりと起き上がって「眠れないのですか?」と声をかけてきた。


「環境が環境、状況が状況なもので」


「それは……あの、本当にすいません」


「責めてはいませんので。桐島さんも?」


 ええ、言うと、桐島さんは布団から出てこちらにやって来る。

 机を挟んだ向かいの椅子に座り、近くの鞄から小さなボトルを取り出した。


「眼鏡をかけていない桐島さんって、何だか新鮮ですね。見えてます?」


「元々、それほど酷く悪いというわけでもないので。かけて外してを繰り返すくらいならと日常化させてるだけなのです」


「なるほど」


 と、頷いて気になったのは、大事そうに支えているボトルだ。


「それは?」


「一杯いかがです?」


 と向けられたラベルはイタリア語だが、雰囲気からアルコールものだということは伝わってくる。

 僕はまだ未成年ですけど、と伝えるや、勿論分かってます、冗談ですと。そうだ、完璧な記憶力だということを忘れていた。

 とあれば、今のは本当にただの意地悪――まったく、どうして人をいじってそこまで楽しそうにできるのだろう。


 弟か、あるいは従弟か、下の身内同然に扱われている気がしてならない。




 月明かり射す窓際。

 小さなグラスを手に取りワインらしきそれを手に持つ。

 と、ここに来る前に見た”ちょっと役立つマナー”なる本に載っていた文言を思い出して、桐島さんからそれを手渡してもらった。


「相互に飲んでいるわけではありませんからこの限りではないのですが、男性の方が注ぐのがマナーらしいです。常に傍らに置いて、女性にはボトルにすら触れさせるなと」


「よくご存知ですね。もう触っちゃいましたけど」


「ですね。グラスを」


 桐島さんは促しに応じてグラスのフット・プレートを指で支えてスライドし、僕の方へと寄越した。その辺りの所作は、普段の子供っぽさを忘れさせる程、空気と雰囲気に溶け込める大人っぽさを醸し出していた。


 テーブルの中程でそれを受け取ると自分の方へ持ってきて、リムに当てないよう気を付けながらゆっくりと注いでいく。

 ボウル・カップの最も膨れている辺りまで到達すると、ボトルを回転させて雫が垂れないようにすくい上げた。


「大変結構です。安物なんですけどね」


 と笑う顔は、挨拶にと伺った出会い初日を思い出させて、時間帯も相まって少し心臓が速くなった。


「間違ってなかったですか?」


 と言いながら、僕は桐島さんに倣ってフット・プレートを支えて返す。


「ええ。それではいただきますね」


 受け取って自分の方に寄せると、ステムを指先で掴んで持ち上げる。安物でもワインはワイン、セオリー通りまずは香りを楽しんだ。

 本場のものはやはり良い香りがしますね、と微笑んで控えめに一口。

 小さく動く口元は、中で転がして楽しんでいるのだろう。

 やがて十秒程で喉へ送ると「はふぅ」と可愛く息を吐いた。


「月並みですが、美味しいものですね。さして疲れたわけでもない身体に染みわたります」


「それは良かった。どうぞ、僕は忘れて楽しんでください」


「いいえ、それはお断りします。せっかくですので付き合ってください」


「仕方がありません」


「ふふ」


 口元に手をあてて笑って、桐島さんはもう一口、今度は短く口内で弄んで喉に送った。


 薄暗い室内に柔らかな光を届ける月を窓越しに眺め、また息を吐く。

 目を細めて微笑んで、おっとりとした様子で頬杖をついた。

 僕もそれに倣って窓の外を見やると、


「旅行、楽しんで頂けてますか?」


 ふと、桐島さんがそんなことを聞いて来た。

 お酒の肴とするには、少々意味気がない話題だ。

 僕としては、一生に一度はと願った場所に立てている、ただそれだけで満足なのだけれど、桐島さんは半ば強引に誘ってしまったのではと気にしていたのだと言う。


「そんなことを気にしている人が、果たして自分から鐘楼に上りたいなんて言い出すとお思いですか?」


「思いません、全く」


「そういうことですよ」


「そうですか」


 短く呟いて、僕の方に視線を落とした。

 それに気付いて僕も顔を降ろすと、


「とっても澄んだ、透明色です」


 と一言。

 慈しむように、優しくそんなことを言われて、また心臓が速くなる。

 誤魔化すように咳払いをして、また月に視線を戻した。


 桐島さんはそれ以上弄って来ず、しばしの静寂が場に流れる。


 少し遠くの方ではランプが光って通りを照らしている。通りからは少し離れたここでも、控えめではあるけれど、ドア付近に設けられているランプが、淡く切ない光でもって夜の街を彩っている。

 単色である筈のそれらが妙に色とりどりに見えて、近くの建物、遠くの建物と視線を奪われてしまう。

 昼間に見る荘厳で歴史的な建物は言うまでもないけれど、何かも分からない曖昧な景色も、こと落ち着いた雰囲気で見る分には悪くない。


「真ん丸ですね」


「えぇ。とても綺麗な」


 たまに、そんな短い言葉に短く返して。

 小さな寝息を立てながら身動ぐ葵を見て顔を見合わせて、ワインを勧められて断って、まだ眠くならないねと苦笑し合って、そろそろと部屋の灯りも消して。


 一歩一歩進むそうに、ゆっくり、ゆっくりと繰り返し、異国の夜は更けていく。

 暗い静かな静寂に見守られ、ゆっくりと。


 遠くで聞こえる祭囃子まつりばやしでさえ、不思議と心地よく聞こえる夜が、更けていく。

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