第10話 食事と写真と自分たちのこと
「お人好しっていうより、お節介」
そんなことを言ってきたのは葵だ。
大学から少し歩いたところにあるファミレスで向かい合って座った僕に、やや困ったように。
勝手について来ただけだから問題ないだろ、と言ってやったところ、別に一人でも大丈夫だと少しだけ詰まらせた後に言うものだから、それが本心から来るものではないことは明らかだ。
葵は一番安いドリアを注文した。
二食分くらいならある、と言っていたことは本当のようで、ドリンクバーやポテト等のサイド物は一切頼んでいない。
僕はピザを注文して、二人分の水を取りに行く。
氷を入れるか入れまいか聞き忘れていたと、氷入り一つ、氷なし一つを持って戻る。
わざとらしくないようにそれら二つを並べておくと、葵は氷入りの方を選んだ。
一口目、さっそくと氷ごと含んで、口の中で転がしている。
「冷えない?」
ふと気になって尋ねてしまった。
今日の葵はあまり着込んでいない薄着だが、夜にもなると春先は流石に冷える。
葵は小首を傾げて、
「料理、まだ来てない」
「そうじゃなくて、氷。口の中、冷えないの?」
「何か入れてると騙せるから。平気」
それは、空腹に対してのことなのだろう。
本当は相応にお腹が減っていて、ちゃんとした食事を摂りたいところではあるけれど、事情そうもいかないようだから。
程なくして運ばれてきたピザの一切れを寄越すと、最初遠慮はしていたけれど、やがて頬を染める程嬉しそうに食べてくれた。
本日の代金は、それぞれ食べた分の支払いということに決まった。前回の僕の厚意には甘える気満々と見えたが、何だか悪いからという葵たっての希望から。
彼女なりに、人には気を遣っているらしい。
「疲れた」
ドリアをすくうスプーンを止め、葵がそんなことを呟いた。
「疲れた? 何に?」
「大学で」
そう言いながら、弄られる感触でも思い出したのか腕を組んで身震いさせる葵。
そういえば、随分と撫で回されていたからなぁ。
終い、胸部への侵攻は何とか防いでいたけれど、それ以外はくまなく。
「あぁ、あの人たちか。流石に僕もちょっと疲れたかな」
「胸、大きい方がコンプレックス」
「聞いてないよ。それより、良かったの?」
「何が?」
「いやほら、最初は『一人で行く』的なニュアンスで決定してたみたいだったからさ。遥さんからの招待を受けた時は、てっきり断るかと」
せっかく貯めたバイト代すらも全て投資する勢いで、さっそくと日曜に行くと言っていた。
僕を加えたのも、桐島さんから一人では危険だと言われたからといった様子だった。
僕の問いに葵は水をもう一口喉へ送って、
「効率」
とだけ答えた。
なるほど、祖父の心に触れられるのなら、手段は問わないと。
生粋のおじいちゃん子だ。
「騒がしい人たちだったね」
「静かな方がいい」
「まぁまぁ、百聞は何とかってね。実際に付き合ってみれば、きっと楽しいと思う」
「私とは正反対」
「それも捉えようだよ。子猫相手なら、あんなに可愛い表情だって――」
「な、なな、見てたの…!?」
何の琴線に触れたのか、葵は急に動揺し出して、半分ほど水の残っていたコップを倒してしまう。
慌ててそれを拭き取りながらも、顔は真っ赤になったままだ。
「可愛いとか、嘘。絶対変な顔してた」
「そんなことは」
「じろじろ見ないでよ」
「視界に入っただけだよ」
「むー…もう油断しない」
何が油断なのか。
小動物を愛でる時に顔が緩むのって、仕方のないことではないだろうか。
曰く、普段クールな印象があるだけに、違う側面を見せてしまったことが恥ずかしかったらしい。
「別に誰からも何とも思われないって」
「私が気になるの。いいから忘れて」
「はいはい」
両手をひらひらと、あまり誠意のないい旨を示す。
頬を染め、口元を緩め、いつもよりやや高い声を出していたあの時の葵は、今となっては貴重なものなのかもしれない。
それとは別に、再開したドリアを食べ進める手が止まる。
どうしたのか尋ねると、葵は小さく溜息を吐いた。
「この二、三日、楽しい」
「楽しいって、何が?」
「晩御飯」
葵は短く答えた。
僕が直接役に立てているのかは未だ疑問点ではあるけれど、やはり家で一人というよりかは、誰かあるいは何処かで食事を摂るという方が良い刺激になっているらしい。
であれば、今度の遠征は――
葵にとって、何かが変わるきっかけになるかもしれない。
と思うのは、僕の自惚れだろうか。
それから葵は再び食事に戻り、僕はまたそれを眺めて時を過ごした。
美味しそうに次々と口に運ぶ様子を見ていると、何だかこちらも食事が楽しく思えてくる。
無邪気、マイペース、純粋な葵だからこそ、だ。
「そうだ」
葵はふと呟いて、僕の名前を呼んだ。
「何?」
当然聞き返すのだけれど、今度の葵はどこか渋っている様子。
らしくなく口を噤んで、なかなか次の言葉が出てこない。
「どうしたの?」
「うん……まことなら、良いか」
「良いって、何が?」
「注視禁止。これ」
傍らに置いていた小さなショルダーバッグから、一枚の写真を取り出して机上に置いた。
ある夏の一幕だと言う。
中央には、穏やかな優しい笑みを浮かべつ白髪の男性。向かってその左側に遥さん、右側には葵が、それぞれ水着姿で映っている。
遥さんは控えめな黒いズボンタイプで、葵はビキニの上に短パン――と、そこはどうでもよくて。
背景として映り込んでいるのは河川敷。二人とも、年の頃は九、十歳辺り。随分と背伸びしたな。
しゃがみ込み、中央の男性と目線を合わせている。
「この人が、おじいさん?」
「うん。
高宮篤郎。
それが、葵が探し求めて止まない思い出をくれた、祖父の名前。
「十歳の時の写真。厳しいだろうって親は言ってたんだけど、おじいちゃんの方が無理を言って、私たちと遊んでくれたの」
「そうなんだ。こんなことを聞くのもあれだけど、車椅子を使っているのは、その――完全に?」
「うん。下肢は全く動かない。ALSっていう難病」
「難病……ALSだって!?」
ALS。
筋萎縮性側索硬化症。
手足、喉、舌をはじめ、呼吸に関する筋力までもが衰え、五年ほどで死に至る難病。
身体だけでなく発語の自由まで奪っていくそれは、何の悪戯か、筋肉の萎縮が進行し喋れなくなっても、脳は外部の音をキャッチ出来てしまう。
動けずとも、一方的に情報を得ることだけが可能な状態となるのだ。
難病指定されているだけに、治療法はない。
呼吸器取り付けにより多少の延命は可能だが、それもただ死を先送りにするだけだ。
「この頃はまだ発症してすぐだったから、話せてた。療養してろって心配する母親に無理を言ったのも、近い将来で会えなくなることが分かってたからなんだって」
「出来るだけ葵たちと思い出を作ろうって……そう思ってたのかな…?」
「本人に確認は出来ないから分からないけど、多分そう。自分より他人って人だったから」
と、そこで今までの半分くらいの量で一口。
少し噛んで喉に送って、
「早く、日曜にならないかな」
とても切なそうに呟いた。
僕は、ただ寿命で逝ってしまったのだと思っていた。
亡くなった祖父との思い出を辿る、簡単な仕事なのだと。
しかし――僕は随分と馬鹿だったようだ。
こんな事情を知っていれば、いや聞いていれば、あるいはもっとちゃんと真剣に、何かしようと策を労した筈だ。
”たられば”なんていくらでも言える。けれど、納得できない。
葵にとってこれは、それほど重い意味があるのだから。
「ごめん」
「何が?」
「分からない。でも、ごめん。色々と軽く見てた気がして」
「別にいいよ、他人なんだもん。仕方がないことだよ。話さなかったのも、私の方だし」
「でも…」
言いかけたところで、葵が真剣な顔つきで、ドリアをすくったスプーンを僕の口の中に突っ込んだ。
あわや喉まで届きそうなそれによって遮られると、
「勝手に誘って、でもまことは断らなかった。私、嬉しかったんだよ?」
と。
「遠いし、無関係だし、一方的に「着いてこい」なんて、普通断らない? でも、まことは違った。それだけで、十分」
「葵…」
「今までは、いつになるか分からないようなものだったから。もう、数日後にはそこに行ける。会える。だから、変な気とか使わなくていい。私をただ、そこに連れて行ってくれたらいい」
「また……随分な言い草だ」
「根無し草だったからね。今は、ちゃんと雑草くらいにはなった」
「詩的な表現とかするんだ。でも――」
十分、とは。過大評価もいいところだ。
知っていたのは桐島さん。見つけたのは桐島さん。決断させたのも、桐島さん。
あの人がいなかったら、僕には何も出来ていない。
いや、記憶堂なるものすら存在していなかったら、きっと葵の役に立てる人なんて――
と、今までの僕なら卑屈になっていたことだろう。
しかし今は、「十分」「嬉しかった」と認められて、心底喜んでいる自分がいる。
高宮葵の感謝を、今の僕なら素直に受け止められる。
「ありがとう、葵」
「別に。それと、やっと名前呼んだね」
「やっと?」
「うん。脳みそ辿ってみな、一回も名前、呼んでないから」
「そ…んなことはありそうだ。いや、女の子の名前を呼ぶのって、何か恥ずかしいでしょ?」
「自然に勝手に自分から呼んでおいて何を言ってるんだか。ピザもらい」
「あ、こら」
躊躇うことなく手を伸ばしてきて、無造作に最後の一切れを頂いていく葵。
咄嗟に伸ばした手は空を切って、それでも自分の空腹はまだあまり満たされていないと後を追うのだが、
「ふふ。ドリア一口の代償よ」
ふと見せられた笑顔に魅せられて、僕の手はそれ以上の追随をしなかった。
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