第8話 タイミングと都合のいい話
オムライスを美味い美味いと言いながら食べ、チーズケーキも美味い美味いと言いながら食べる葵と、満足して貰えたなら良かったかと納得し、葵を眺めながらブレンドをちまちま飲む僕。
時間をかけてゆっくりと進む食事。
ブラックは苦手だが飲ませろと言われ、渡したそれを飲んで舌を出す葵を見て笑い、お返しにとオムライスを一口貰いといった和やかな時に癒されている内に、時刻は既に九時を回っていた。
すると、僕が腕時計を確認すると同時に壁掛けの時計に目をやった葵が「あ」と声をあげた。
疑問符を浮かべながら尋ねると、
「塾のバイト、終わり」
「バイト……あぁ、遥さんの」
「知り合い?」
「言ってなかったのか。大学、一緒だったんだ、お兄さんと。校舎の中で迷ってるところを助けてもらって」
「そうなんだ」
心底意外そうなーーとまではいかないけれど、驚きはしている様子。
うっすら見開かれた時の顔は兄そっくりだ。
会計は僕が持ち、去り際「学びましたね」とまたマスターに小さく嫌味を言われたけれど、無視して店を後にした。
葵はマイペースだが根は素直で、ありがとうと短くもしっかりと感謝の気持ちを表してくれた。
少し歩くと、僕のアパートが見えてきた。
が、夜も更けるとここら辺は薄暗く危ないからと、葵に先導してもらって大通りまで送ることに。
今にも眠ってしまいそうなくらい満足そうに頬を緩める葵に代わって、スクールバッグは僕が持つ。
しばらくは無言が続いたが、いくつか家を越した辺りで、ふと葵が「あの」と正面向いて歩きながら口を開いた。
「どうしたの?」
「改めてお礼。美味しかった」
「ありがとう、と言わない辺りが素直さだよね。どういたしましてだけど」
居眠りしてしまった時同様、欲望には素直なようだ。
「兄貴が私のためにバイトしてるのはちゃんとわかってるし感謝もしてるんだけど、やっぱり食事が一人って寂しい」
両親が亡くなって祖父もいなくなって、仕送りというからには親戚一緒ではなくて。二人で住んでいる以上、片方いなくなれば片方一人で残っているということだ。
話を聞くに、夜いるのは大半というか基本は葵の方。
まだ親と仲よくてもおかしくない年頃の女の子にそれが出来ないというのは、一体どれほどの寂しさなのか。
「ナンパじゃないことを前提に、たまになら食事くらい奢るよ」
「それ…兄貴いない時――」
「全部はダメ、たまにだ。僕にも生活はあるからね」
と言っておきながら、記憶堂のバイト代を知らないことに気がついて黙る。
どうしたの、と首を傾げる葵になんでもないと言って、
「とにかく、たまにだ。呼ぶな、と意地の悪いことは言わないけれど、ある程度こちらのことも考えてくれるならいくらでも」
「分かった」
その輝く瞳は分かってない人のそれだ。
内心で突っ込みを入れて更に少し歩くと、人や自転車、車の行き交う大通りに出た。
立ち止まり、挨拶をせんと口を開けた時だ。
「おー、葵!」
斜め前方からかけられる声の方には、大きく手を振って駆けてくる遥さんの姿。
僕らの傍まで来て足を止めると、
「ナンパか?」
「違います」
開口一番何を言うんだか。
一方的に呼び出されて、気がつけば一色プラスデザートを奢っていて、夜道は危ないからとわざわざ送って――と恩着せがましい言い方は嫌いだから、
「相談に乗ってたんです、妹さんの。遅い時間だなと思っていたら、今日は夕食一人だって言うものですから。ご一緒していた次第です」
嘘は言っていない。
半ば庇う形の少し違う経緯を話せば、遥さんは先日と同じようにして僕の手を取り、ぶんぶんと降り始める。
「そうか、また助けられたか! 言っても言い切れない礼だなこれは」
「別に、流れですから」
「てっきり、顔と自由さに釣られてよからぬことを――」
「本人の前でそれを言うか…!」
「はは、冗談だ」
それにしては本当っぽいトーン。
顔って、妹を前にそこまで言えるとは、拍車がかかってるなこの人。
どこまで本当でどこまで冗談か分からない。
「ともあれ、助かった。礼を言う」
「全然。満足そうにしてくれてるので、何よりです」
「そっか。悪かったな、また続けて迷惑かけて」
「楽しいからいいですよ」
「お前やっぱり―――」
「ほぼほぼ初対面の相手にそれはあり得ません」
一番あり得ないのは、その相手と食事をしたことだけれど。
それから手短に別れの挨拶を済まし、二人は先の道、僕は来た道を戻っていく。
去り際、「バカ兄貴」と小さく漏らした葵の表情は、何とも言い難い複雑さを孕んでいた。
―――
「なんとまぁ、数奇な」
と、桐島さんの言葉を借りるとこのようなところか。
高宮兄妹と別れて自宅に帰った僕は、風呂を沸かしながら独り言。
掃除はこまめにやっとけ、という母からの言いつけを守り、光沢が出る程磨いた後だ。
程なくして沸けた湯船に全身を洗ってから肩まで浸かり、ここ数日の衝撃的な出会いの数々を思い出す。
どの人もまだ一度二度程度の顔合わせではあるのだけれど、感謝されたり同情したり、尊敬したり驚かされたりと、とにかくバラエティに富んだ会話だった。
特に珍しい話でもないし、面白い何かがあったわけでもない――というのはあくまで一般論。
こと広く世間を知らない僕に於いては、その限りではなかった。初日、アールグレイの下りすら一切情報のなかった僕だ。
数奇。
遠い未来でまだ付き合っていたとしても飽きるとは思えないようなこの数日間の出会いは、文字通り数奇なものなのだろう。
「ふぅ…」
何となく買ってきた入浴剤もこれで最後か。
また、新しいものを買い溜めておかなければ。
この家には今、自分一人。全て、自分でやらなければいけない。
ふと思い出した「百数えてから出なさい」と何度も言われたこと。年甲斐もなく口に出して数を数える。童心に返った気もするけれど、今はただ、誰もいないことだけが救いだった。
百、と丁度そこまで到達したところで、新しい下着やらシャツやらと一緒に籠の中に入れておいたスマホがメッセージ受信のメロディを奏でた。
マナーモードにしておいて気付かず夜を明けてしまってはと思い、解除しておいたのが吉と出たようだ。
一体誰が、と呟きながら脱衣所に上がって、両手の水分だけ素早く取り除くと画面を開く。
”新着メッセージ:ハル”
「ハル…?」
本当に誰なのだろうか。
未だ消えないそんな疑問は、タップし本文が表示されることによって解消される。
『悪い、葵から貰ったわ。今日も世話になってたみたいだけど、まともに礼も言えてなかったからな。まぁいい話持ってきてやったから、それでチャラにしてくれや』
との前置き。
良い話という部分に若干の不安を覚えつつスクロール、続く内容を表示する。
『ここ数日、葵の調子がいいもんだから問いただしたんだ。つっても、すんなり教えてくれたんだが』
それはもうただの仲良しでは。
『で、聞けば今度の日曜に、写真の所に行くって話じゃないか。そこで提案ってわけだ』
提案、ときたか。
僕に送らずとも、葵に直接確認なり了解なりを得ればいいものを。
それが相互にメリットがある話なら、一番喜ぶのは葵のはずだ。
返信がいつ来るか分からないと踏んでか、メッセージにはまだ続きがあった。
『その日、丁度天文部員で集まって、程良い暗さの観察場所探しと銘打ってキャンプをしようって話なってるんだ。まぁ、火は起こさないただの野宿なんだが。勿論キャンプだからサークルで金は出さん、完全に個人たちの集まりなわけだ――が、場所が決まってない』
と、そこでメッセージは切れていたけれど、そこまで書かれれば流石に察しがつくというもの。
なる程、確かに悪い話ではない。どころか、ウィンウィンもいいところだ。
写真で見た限りだと、あそこは星を見るには程よい暗がりだ。場所も広くて丁度いい。
決まっていない場所を葵が提供し、その移動に使う金は――
『出してくれるんですか?』
今最も大事な要点をそのまま伝えると、ノータイムで返信が。
『俺がな。名目上はメンバーからって葵には伝えるが、それは先輩たちに悪い。実際の代金は全部俺がもつ』
『なるほど、男ですね』
『いいや漢だ。ともあれ、オーケーと受け取っていいんだな?』
『ええ』
『なら、葵にはお前から伝えてくれないか? 俺からだとわざとらしいから、何か日曜に遥さんのサークルで出かけることになってるらしいけど――ってさ』
『そっちの方がリスキーだ。まぁいいですけれど。美味くやっときます』
『恩に着る、この借りは必ず。なら、そうだな――明後日だ。あいつのナリなら私服でも大学生っぽいから大丈夫だろうし、放課後着替えさせて”第三多目的室”に来てくれ。遅くまで残るって申請は通ってるから、時間の指定はしない。多少更けても構わん』
『了解です。明後日、妹さんの学校が終わり次第ですね』
『おう。悪いな』
そこまで一気にやり取りをして、遥さんとの会話は終了。
次いでそのまま葵に、短く要点だけを押さえた文面を置くった。
するとすぐに返事は来、分かったとの四文字だけが画面に映し出された。
まったく、どうしてこうも兄妹で文章量が違うのだろう。
兄さんはもっと丁寧だぞ、妹よ。
『大学の場所分かる?』
『(・_・ 三・_・)』
唐突の顔文字。
文章量は少ないけれど、文字の上では多少テンションが高いことを示す葵。
『了解。なら迎えに行くよ。どこで待ち合わせようか?』
『駅前のスタバ』
『オーケー。多分、店内で適当に待ってるから、声かけるかメッセージ送って。私服に着替えてね』
『分かった』
ふむ。
並んだ文章だけ見ると、一方的な業務連絡にしか見えないな。
と、葵の了解も得た所で、未だ下着すら身に着けていなかったことを思い出す。意識し出すと寒さも襲ってきて、ついぞくしゃみまで出て来る始末。
早いところ服を着て、温かくして布団に潜ろう。
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