第5話 子猫と依頼人

 奢ってもらって良かったのだろうか。

 デートではないにせよ、食事と言えば割り勘か男持ち――なんて考えは間違いだったのか。

 収入もありますし、と冗談めかしてレジを通って、桐島さんは気にしないでくださいと言った。


 後学のため、か。

 多くの書物並ぶあの古書堂然とした記憶堂なる店に、まさか依頼でやってくる人がいようとは。

 疑っていた訳ではないけれど、少し意外と言えば意外な気がしてならない。


『明日は午後から、四時前に記憶堂の方へ顔を出してください。四時半を予定しておりますが、早く来られることもあるかも知れないので』


 と、一方的に言われたけれど。

 僕は一言も、分かりましたとは言っていない。


 とはいえ、予定もなくアルバイトの身であるわけなので、断る立場にないのは確かだが。


 母親から送られてきていたメールに返信をして夕飯を食べ、風呂に入ってゴロゴロしている内に眠ってしまって――


「昼過ぎ……寝すぎたな」


 寝ぼけ眼で見た時計が指すのは十二時半。

 深夜まで起きていた記憶はあるけれど――実に十時間くらい眠っていたことになる。


 それだけ長く夢の中にいれば、流石に頭痛も少し襲ってくる。


 普段運動をあまりしないだけに、昨日あれだけ動かした身体は悲鳴上げていて、立ち上がるのもやっとだった。それでも何とか鞭打って洗面所に向かって、冷水を思い切り顔にかけて覚醒を促した。

 存外冷えていたそれは意識を完全に切り替え、寝ぼけを取り去ってくれる。


 昼過ぎとは言え、起き抜けに昼食を摂る気にはなれないということで、結論、星屋を過ぎて少し歩いた所に公園があると桐島さんが言っていたのを思い出し、散歩がてら足を延ばすことにした。


「うぅ、今日は少し冷えるな」


 着替え終わって玄関を開けると、冷たい風が頬を撫でた。

 思わず身震いしてしまう程度の寒さを凌ぐべく、一度扉を閉めて薄い上着を羽織って再度外へ。

 薄くても一枚あるかないかで随分と温かさが違った。


 酒屋、郵便局、昨日の星屋を通り過ぎて歩くこと五分。

 件の公園に辿り着いた。


 ちらちらと所々には遊具、砂場と、子どもでも楽しめる場所でありながら、まだ枯れ落ちていない桜の木で囲まれている、大きいようでこじんまりとしていた。

 僕は奥の方にベンチを見つけると、少し座って落ち着こうとそちらに歩いた。


 腰を降ろして空を仰ぎ、雲一つない晴天に漂う空気を胸いっぱいに吸い込む。

 都会は空気が汚れていると言うけれど、存外そんなこともないようで。

 桜に囲まれているからか、ここの空気はとても澄んでいて美味しい。


 と、吸い込んだ空気を吐くと同時に降ろした顔が正面に捉えたのは、立ち並ぶものの中でも最も大きい桜の木の手前で、自分より幾分も大きなそれを見上げる少女の姿。

 年の頃は僕とそれほど変わらないか同じくらい。身長は桐島さんより一回りくらい小さい。

 黒のショートジーパンに同色の膝上ソックス、ジャケットを羽織った装い。

 肩まである髪は、下の方で二つに結わって前に流している。

 細められた双眸が見つめる先には、高い所にある枝に丸まって動かない子猫が。


 漫画に小説にしろドラマに映画、どんな作品でもよく見かける光景だ。

 まさか、都会にいながらそれに出くわそうとは。


「心配ですね」


 下手をすれば年上かも知れないと、細心の注意を払って敬語。

 少女の隣に人二人分くらいの間隔を取って並んで、目線を同じく子猫に向ける。


 少女はとくにリアクションもせぬまま、じっと子猫を見つめて――って、しまった。田舎のノリでつい知らない人に声をかけてしまったけれど、都会だとこういうの、ナンパだ何だって警察に突きつけられるやつではないだろうか。


「……ねこ」


 ふと、怒られるか引かれるか、何にせよマイナスな反応をされるものかと身構えていた僕に、少女は呟くように言った。

 指をさして不満そうな表情を浮かべて、


「私が触ろうとしたら、ビックリして逃げて……降りられなくなった」


 と語る。

 やや低め、ボーイッシュといった表現が似合いそうな、落ち着いた声音である。


 しかし、田舎の木々と比べて、都会の木は意外と登りやすそうではある。

 程よく所々にある窪み、幹枝の太さ。


「ちょっと待ってて」


 ここでもやはり、人好しというか、田舎くささというか。

 そんなものが芽生えてしまって、僕は咄嗟に、桜の木にしがみついて上を目指していた。


 十歩分くらい上ったところで下を見ると、少女が心配そうな目でおそろそろしている。

 まさか。落ちないから安心してくれてもいいのだけれど。

 再び上に向き直ると、子猫の待つところまで一直線。程なくして辿り着くと、子猫を抱きかかえて飛び降りた。


「わわ…きゃっ…!」


 地面との接触寸前、少女は両手で目を覆って、起こりうる惨状から目を逸らしたけれど、僕は無傷で着地を決めていた。

 向こうではこれくらい普通だった筈――都会の人は、あまり自然と戯れないらしい。


「スコティッシュか。珍しいね、野良なんて」


 天に高々と掲げた子猫が、愛らしく「にゃーん」と鳴くと、少し遅れて少女が声を上げた。


「珍しいのはお兄さんの方。怖くないの?」


「怖い? うーん、子どもの頃は。今は全くかな」


「全く? こんなとこで木登り、怒られない?」


「怒られ――あぁ。僕、田舎もんやけぇ」


「けー?」


 しまった。

 名乗りついでについ方言が。


 こほんと一つ咳払い。

 強制的にそれよりと置いて、話題は少女がなぜここにいたのかという方向に。


 これから少しした後に約束があるのだけれど、時間を間違えて早く出てきてしまった為、暇つぶしと散歩を兼ねてここへやって来たのだと少女は言う。

 何だか似たような境遇だなと僕のここにきた理由も話すや、少し表情も柔らかくなって、なら少し話しでもしようかという流れになった。


 先いたベンチに二人して腰かけて、抱きかかえていた子猫を少女の膝に。

 ついさっきビビられた手前、どうしたのもかと両手は空をなぞっていたが、勝手に乗せられた子猫が逃げない様子に、恐る恐ると手を伸ばす。

 細い指が背中に触れた瞬間、子猫は身震い。それに伴って少女もビクッと手を離すが、再び丸まった子猫に手を伸ばし、今度は触れるだけでなく撫で始めた。


 柔らかな太ももがお気に入りなのか、子猫は少女に頬擦りしている。

 その様子があまりに可愛かったようで、少女の方も調子に乗って「うりうり」と顎を指先でこね回す。


「あったかい」


「生きてるからね。あと毛皮」


「人間にはないね」


「あったら気持ちが悪いでしょ」


 妖怪剛毛男――うん、気持ちが悪い。


 やがて子猫が寝付くと、少女は優しく手の平で背中をさする。

 ゆっくり、ゆっくり。慈しみ。

 その様はまるで、幼子の昼寝に付き添う母親のようだ。


「猫、好きなの?」


「好き。おじいちゃんが昔飼ってた。どっちももういないけど」


「……そう」


 これは思い切りまずった。

 あまりに子猫を可愛がるものだからと尋ねてみれば、まさか踏み抜いたのが地雷だとは。

 ここ数日、コミュニケーションが少し上手くいっていない気がするぞ、僕。


「気にしないで。これから会いに行くから」


「え!? い、いや、これからって――」


 一瞬頭を過ったのは、とても口には出せない”自殺”という単語。

 今はいない人に会いに行くだなんて、それくらいした――ないことはないか。


 馬鹿だ僕は。

 普通は墓参りだろう。


 とすれば、彼女が待ち合わせているのは友人ではなく、家族ないし親戚ということか。


「寒い…」


 短く言って、少女はファーの付いたジャケットのフードを被り、子猫を撫でていない方の手はポケットに入れた。

 ボーイッシュな見た目には似つかわしいスタイルだ。


「お兄さんは寒くないの?」


 ふと、そんなことを投げかけられるのだが、


「ちょっとはね。薄いけど上も着てるし、まぁ気にはならないかな」


「そう」


 とそれだけ言って、少女は再び子猫を撫でる手に目を落とす。


 不思議な子だ。

 ビックリしたりと表情豊かかと思えば、以降ずっと同じトーン。

 子猫に触れられた時には喜んでいる様子だったけれど、しかしあまり表情に変化はない。


 口調もクールで、落ち着いていて。

 無言が続く中そんなことを考えている内に、意識は段々と夢の中へ。




「…きて……起きて…お兄さん?」


「っ――うわっ!」


 眼前には少女の顔。

 座ったまま眠っていた僕の顔を、至近距離から見つめて語り掛けていた。

 しゃがみ込んで覗き込む少女の胸元には、何故だかすっかり懐いた子猫の姿。大事そうに両手で抱きかかえられている。


「っと、ごめん、寝ちゃってた……今、何時――って、三時半…! しまった、寝すぎた」


「私も、もうそろそろ出ようかと」


 腕時計を確認して慌てる僕に、少女が立ち上がりながら言った。

 同じような境遇に同じような時間とは。


「そっか。楽しかったよ、ありがとう――って言っても、後半は眠っちゃってたけど」


「ううん、大丈夫。お陰で子猫、ずっとモフモフ出来た」


 それは良かった。

 少し寂しいとは言うまい。


「それじゃあ、ここで。また会えたらその時は」


「うん。お話、する」


 別れの挨拶もほどほどに、それぞれの目的地へと歩いていく。


―――


 と、エピローグ風に語ってみたはいいのだけれど。

 これは一体、どういったことなのだろうか。


「失礼しま――あ」


 駆け足で向かった桐島記憶堂。

 時間はまだ大丈夫だから落ち着けと出されたアールグレイを一杯飲んだところで、店先のベルの音が耳を打った。

 すぐさま反応して出ていった桐島さんの後を追ってみるや、そこに居た人物とは。


高宮たかみやあおい。依頼した者です」


 つい先ほどまで一緒に居て別れた筈の、子猫の少女だった。


「にゃあ」


 ――その子、まだ抱えてたのね。


 ややもすれば飼い主が探して良そうなものだけれど――首輪の一つもない分には、最悪自分から逃げて帰らない限り良いのだろうか。


 と、僕の方を見て一言、


「お兄さん、名前」


 名乗りを促される。

 言われてみれば、まだ自分の名前を伝えてはいなかった。と言っても、まさかこういった形で早々の再開を果たすとは思わなかったものだから。

 彼女の名前を聞いたのだって、今が初めてなわけで。


「神前真。大学一年」


 そう伝えたところ。


「私、高校三年」


 一つしか違わないという事実が判明した。


 驚く僕を他所に、桐島さんは子猫共々奥の部屋へと誘い入れる。

 少し遅れて我に返って、僕も部屋の中へと入った。


 桐島さんはいつも通りの奥の席、僕が使っていた桐島さん対面の席に高宮さんを座らせ、その中間地点に僕は座る形で話し合いがスタートした。


 先ずは確認と、桐島さんが送られてきた手紙を机上に出した。


「昨年に他界なさったおじい様と一緒に行った山に、もう一度行きたい。けれど、行き方はおろか場所すらも分からず。手掛かりはこの写真一つと、おじい様の話の中で覚えている”うわいで”という言葉。覚えていることは、昼寝後の起き抜けに撮ったということだけ。依頼内容は、”ここがどこであるか”と”どこからこの写真を撮ったのか”。この二点で間違いありませんね?」


 手短な確認に、高宮さんは無言で頷いた。


 それを見てすぐに、桐島さんは部屋の外へ。

 二日前、僕との対談中と同じように一冊の本を持って戻って来た。


 表紙には”熊本の隠れた名所”とある。


「神前さん、百三十二頁を」


「え、あ、はい」


 手渡されたそれの、指示通りの頁を開くと。

 アングルこそ違うものの、写真にあるものと同じ橋が映っていた。


 が、一人納得がいかないのは桐島さん。

 こほんと一つ咳払いをして、


「熊本県は上益城かみましき郡の山都やまと町にある、通潤橋つうじゅんきょうという名前の石造単アーチ橋です。”うわいで”というのは、これが水路橋であることから来ています。笠原川からの取水を上井手うわいで、もう一つ五老ヶ滝川からの取水を下井手したいでと言うんですよ」


 流石は歩く地理百景。

 読め、と言われたわけではないけれど読もうと身構えていた僕より早く、そこにあった文字の羅列を要点のみ纏めて高宮さんに伝えた。

 どうにも太刀打ち出来ない、干渉の余地のない空間の中、僕はただその頁を高宮さんに見せて寄越した。


 刹那、大きく見開かれる目。

 触れることを拒まれた子猫に触れられた時に見せた表情とは、明らかな差異があった。


「ここに行くことは、そう難しい話ではありません。時間、交通費さえあればといっただけです。だけなのですが――」


 と、そこで桐島さんは何やら眉をひそめた。


「この、写真の手前に移る二つの山――岩、でしょうか。何にせよ、このアングルの場所に、このようなモニュメントや自然物はないものでして……幼少にご自分で撮られたという話でしたが、これがどのようにして撮られたものか、私には少し分かりかねます。お力になれず、申し訳ないです」


 謝る桐島さんに、一瞬だけ落ち込む目元。

 しかし、


「……いえ。場所が分かっただけでも、いい。バイト代注ぎ込んで、今度ここに行ってみる」


 無理やり作った笑顔。

 やや引き攣った口元を見て、桐島さんも苦笑い。


 行ってみると言っても、一つ目の依頼こそ達成したものの、二つ目の依頼を達成することは出来ないのではなかろうか。

 一度見れば完全である桐島さんが「ない」と断言するその場所で、果たしてそれを見つけられるのだろうか。


「来週、時間あるから。日曜日に行ってくる」


「お一人で大丈夫ですか?」


「大丈夫。って言いたいけど、じゃあお兄さん連れていく」


 ……え?


「ここで働いているんでしょ? じゃあ、きっと大丈夫」


「何を以って納得してくれているのかは分からないけれど、ごめん、僕はつい数日前に来たばかりなんだ」

「……いい」


 いいって、そんな無茶苦茶な。


 有無を言わさぬ口ぶりに肩を落とす僕を置いて、桐島さんが柏手を打った。

 嫌な予感がしながらもそちらをゆっくりと見るや。


「来週の日曜ですね。時間はお二人にお任せします」


「ちょ、ちょっと待って――桐島さんは…!?」


「すいません、私は別件が。それに、私に出来るのはここまでのようですから。頼みますね、神前さん」


 本人の決定権と自由権が行使される前に、到達点の分からぬお仕事が追加された瞬間だった。

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