第4話 大掃除と
地元を離れた昨日の夜。
写真を見ながら必死になって打ち込み登録した『桐島藍子』の文字を見て、僕は不覚にも気持ちの悪い笑みを浮かべてしまった。
単純に女性のアドレスが加わったことによる喜びも大きいのだけれど、一番の理由は、親戚や親以外のものは未だ登録されていないということだった。
入学式も翌週に控えているとあって、新しい出会いは桐島さんが初だったのだ。
と、翌朝の今になって恥ずかさから死にたくなる痴態を思い出して悶絶して、ようやく一息ついた頃には約束の時間が迫っていた。
仕事の内容は掃除と片付けだということで、今朝、桐島さんから『汚れても差し支えない服装でお願いいたします』と、第一印象通り丁寧な文面での業務連絡があった。
あれもダメ、これも汚せないと色々手にとっては、年頃の女の子のように投げ捨て――と数回繰り返した辺りで、ようやくジャージが出て来た。
急いでそれに着替えて、簡単な掃除道具を持って家を後にした。
昨日歩いた夕刻と違って、昼前の春先は仄かに温かく、また肌寒くもあり。
田舎に居た頃は、あまり気にしたことはなかった。
普通は逆なのだろうか。
都会に居た頃は感じなかった田舎の穏やかさ――といった具合に。
「なーんて」
一人、頭の中で考えて突っ込んで。
そうこうしている内に、よく見れば二階建てだった『桐島記憶堂』が見えて来た。
「確か、脇に階段が――っと、これか」
見つけたそれは、外階段と呼ぶには造りの良い、且つ屋根付きの階段。
金属に滑って落ちてしまわないように、淵にはゴムが設けられている。
階段を昇りきると、短い廊下。
その奥に、扉とインターホンがひっそりと構えていた。
「確か、これを鳴らせばいいんだったな」
ピンポーン。
「うわっ!」
ピンポーン。
と、インターホンを押した瞬間、耳馴染みのない音が響いて、僕は思わず半歩退いてしまった。
実家、及びその周りにある知り合いの家は大抵ブザーの音だったものだから、なんだか全て新鮮な心地がして仕方がない。
瞬間だけ跳ね上がった鼓動が直ぐに落ち着くと同時に、扉が勢いよく開かれ、あわや頭部が吹き飛ばされる寸前で静止し、中からジャージ姿と随分ラフな格好をした桐島さんが顔を覗かせた。
僕の姿を見るや、
「あ、神前さんでしたか。どうしたんです、大声出して?」
昨日あれだけキリっとしていた人が、ジャージできょとんとしていると思うと。
「あぁいえ、地元のインターホンって、鳴らすと「ブー」って音が五月蠅く響くんですよ。だから、こっちの音にビックリというか、感動しちゃって」
「そういうことでしたか。如何です、何度も押して噛み締めますか?」
「飽きが嫌なのでご勘弁――っと、これ。即席ですが便利グッズを」
差し出したのは、レジ袋に入れて持ってきた、その名の通りの便利グッズ。
割りばしの先にストッキングを巻き付けた掃除のしにくい角用のものと、ハンガーを開いてこれまたストッキングを被せただけの、棚裏など用のもの。
田舎くさいと大いに笑うがいい、と開き直った僕に、しかし桐島さんは、
「殿方も、ストッキングを使うものなのですか?」
「そこですか。あぁいえ、それも結局田舎くさいんですけれど、昨日の朝、自宅を発つ時に母親から『使わんなったやつ渡すけぇ、何かに役立てんさい』って押し付けられて。こっちの家には大量に保管してありますよ」
「まあ、優しいお母さまではありませんか」
どこが。
処理するのが面倒だからって、厄介を押し付けられたに決まっている。
と、桐島さんはもう一つ何かが気になったようで。
口元を指さして、
「鳥取県の方言は、訛りが凄いイメージがあるのですけれど」
「方言? あぁ、意識してセーブしてるんですよ。話そうと思えば話せますが」
そう言った瞬間だった。
桐島さんの目の色が変わって、言質取ったとでも言いたげに、是非是非と興奮気味に迫って来た。
都会で標準語育ちの人は方言が好みだって聞いたことがあるけれど、どうやら桐島さんもその口だったらしい。
「そいぎ、早速はじめましょうか」
「それは佐賀です」
流石の情報量。
彼女の前には、ちょっとしたお茶目も封殺されてしまった。
「すいません。ほんなら、予定しとった時間も過ぎとるけ、始めましょ」
「そうそうそれです」
知識としては持っているというのに、わざわざ聞きたいものなのだろうか。
こっちの方が素に戻れて楽だから、別に構いはしないのだけれど。寧ろ歓迎だ。
ちょっと待ってください、と桐島さんは少し部屋に戻って、すぐにモップと雑巾を持って戻って来た。
それでは行きましょう、と音頭を取ると、先行して階段を降りて行った。
早速と本を全て一旦どかして着手した棚は、見た目以上に埃が溜まっていた。
下手をすれば、その角やあの角あたりに蜘蛛の巣も――とは考えないようにして作業を進める。
二つずつ作っておいた便利グッズを一組渡すと、それは早くも役に立っているようだった。
本を抜いた棚の奥、木と木が交わる直角の角に、細い割り箸ストッキング巻きは効果覿面。ひと拭きする度に、感動の「おー!」が聞こえてくる。
無邪気なそんな反応と、日常的に使っていたそれを初めて手にした時の幼少を思い出したことで、つい笑いが零れた。
時間にすれば約一時間半。
存外早く”掃除”を終えると、今度は整理整頓。本を戻す作業だ。
なるべく似たような種類で固めておいたつもりだったけれど、改めて見ると、何が何だか初見の僕には分からない。
が、頼りになるのはやはり店主。
僕が手に取った物を一瞬だけちらと見ると、
「最奥の壁伝いにある右の棚、上段の左端ですね。その隣にある二冊も、一緒に並べちゃってください」
一度見れば忘れない記憶力を武器に、桐島さんが適格な指示をくれる。
右も左も分からない僕はそれだけを頼りに、一つ一つ、何百ある本を片付けていく。
滋賀の隠れた名所。
北海道はここへ行け。
等々。
とにかくも、地理的な書物ばかりだった。
そういえば。
記憶力が仕事に活かされていることは分かったけれど、具体的には何をどうする仕事なのだろうか。
お客様の”記憶”を取り扱っている、と言っていたが。
「神前さん?」
どれだけ手が止まっていたのか。
気が付けば、正面から桐島さんが覗き込んでいた。
ふわりと香るのはシャンプーのそれだろうか。
女性とはどうして、こうも皆いい香りがするのか。
「すいません、ちょっと考え事を。次はこれですね」
「青森の。それは――」
今は考えたって仕方がないか。
作業、作業。
アルバイトとして雇ってもらっている以上、遠からずそれを知る機会はやって来よう。
今はまず、この大量に積み重なった仕事道具を処理することだ。
―――
腕時計を確認すると、示す時刻は二時の五十分。
集合時間とこの物の量から考えて、朝食は多めにしっかりと摂ってきたのだが、五時間弱も身体を動かせば、時間すらも関係なく空腹感は襲って来た。
大きく伸びをする桐島さんに釣られて、僕もつい欠伸が出てしまう。
最後に手をパンパンと払うと、僕に向き直って「さてと」と置いた。
「本当なら、上でお食事を振舞う予定だったのですが……今から作ったのでは、流石に限界を超えてしまいますよね?」
「振舞う? え、いや、僕はただのバイトですから」
「ここの整理は完全に私情です。付き合わせてしまった謝罪と、諸々のお礼をと思い。ですが……ううん。もう今日は喫茶店に行きましょうか」
切り替えの早さも流石だった。
桐島さんは自宅として使っている上の階へ、僕は自宅に戻って着替えを。
立地的には僕の家の方が近いということで、今度は桐島さんの方が僕に合わせる形で待ち合わせを予定した。
都会の喫茶店とは、さぞや綺麗なのだろう。
であれば、少しは気合を入れた服装を――と思ったのも束の間、アパートの窓から下に見えた、早くも来ていた桐島さんの着こみが存外シンプルであったのを受けて、僕もいつも通りの服装で出た。
並んで歩き始めてみて気付くのは、桐島さんはすらりと高身長だということだ。
僕の身長が百と七十六で、桐島さんの頭頂部が僕の目元少し上辺り。約十数センチマイナスと考えて、百六十五センチといったところか。
細い肢体、出るところは出ている体つきに高身長、整った顔立ち。
モデルとしてもやっていけそうな容姿である。
昨日散策した方向とは逆に十分ほどの距離を歩いて見えて来たのは、交差点の角にひっそりと佇む、落ち着いた雰囲気の喫茶店。
小さく掲げられた看板には”星屋”と書いてある。
「ここが?」
「はい。飲み物もお料理もおすすめです。たまに、原稿に行き詰った時なんかは来ますね」
「へぇ」
相槌を打った僕より一歩踏み出して、桐島さんが扉を開ける。
カランコロンとなった鈴の音は、記憶堂よりもやや高めだ。
「いらっしゃい」
カウンターからこちらに目を向けたのは、唯一人だけの従業員。
整って生えた白い髪に同色の髭、低い声とその落ち着いた服装とで、ただ渋い第一印象を抱かせる。
店内には数名、ちらちらと客が入っているようだった。
と、僕の方を瞬間見たおじさまは、すぐに隣の桐島さんへ視線を移したかと思うと、
「藍子ちゃんだったか。角の席なら空いてるよ」
見た目に似つかわしくない呼び方で語り掛けた。
桐島さんは律儀に頭を下げて礼を言い、慣れない環境に固まった僕の袖をくいと引いて、おじさまが口にした角の席と思しき方向へと歩いた。
外装が外装なら内装も内装。多くない照明に、高い天井までの空間を埋める梁が、雰囲気を際立たせている。
「お冷ひやどうぞ。言ってくれたら追加しに来ます」
おじさまが水と小さな氷の入ったコップを、それぞれの眼前に置く。
と、僕に顔を寄せて、
「別嬪な彼女を手に入れて。幸せですね」
なんて。
思わず吹き出してしまった。
「ち、違いますよ…! 僕はただのアルバイトで…!」
「ほっほ。それはまた。ただのアルバイトに、一人の女性がここまでいたしましょうか。少なからず、友人くらいではありましょうよ」
お堅そうな第一印象とは違い、その実随分とフレンドリーなおじさまだった。
これはおじさまなりのジョークなのだろうか。向かいではどんな表情をしているのかと思ったけれど、桐島さんは笑いを堪えているご様子。
「マスターの
「ご、ご丁寧に…! 神前真、大学一年です…!」
「大学生、お若い。選択肢が幾つもある歳は、もう懐かしい遥か昔です。存分に楽しみなさい」
「は、はい…」
自己紹介に続き、急に思わせぶりな発言をしたかと思うと、堺と名乗ったおじさまはさっさとカウンターへと戻っていってしまった。
それを見ていた僕を横目に、桐島さんが「ふふ」と小さく笑った。
「ちょっと変わった、面白いお方でしょう? 昔からああなのですよ」
「はぁ。度肝を抜かれたといったところでしょうか…」
「あら、むしろ肝が据わっているのでは。初対面でちゃんと名乗るの、私には出来なかったことなのですよ?」
「それは幼い頃だったからってさっき言っていた気が」
「まぁ、何でも構いません」
どうして急にさらっと。
並べられた水を一口飲んで、桐島さんはメニュー表を開いた。
二つ設けられていた内もう一つを彼女に倣って手に取り、中を確認。
地元の近所にあった喫茶店には数回行ったことがあるけれど、確かブレンドに紅茶にパンケーキとちょっとっした食事物くらいだった。が、流石は都会。あるいはここだけなのか、レストランと見紛うばかりに豊富な品揃えだった。
「目移りしてしまいますね」
どれにしようか。
迷っている僕のメニュー表を、向かいから桐島さんが指先でトントンと叩く。
置け、ということらしい。
指示通り机の上にそれを広げると、「迷った時にはこれです」と、見た目にはシンプルなペペロンチーノを指さして言った。
「オリーブ油に唐辛子とにんにく、調整にちょっと塩胡椒と、それだけの味付けで出るあの深み――と、マスターに変わってイチ押しを宣伝してみたり」
「そこまでですか。では、せっかくですから僕はそれで。あと、ブレンドを」
「了解です。マスター」
やや大きめの声で呼ぶと、すぐに「はいはい」と返って来た。
僕にかまけて時間を食って、自分の注文は選べているのだろうかと思ったが、こうしてマスターを呼びつける辺り、既に決めていたらしい。
静かな足取りでやって来たおじさまが伝票を開く。
「彼にペペロンチーノとブレンド。私は野菜のサンドイッチとダージリンでお願いします」
「イチ押しにブレンド、野菜サンドにダージリンね。少々お待ちを」
手早くメモ――をする必要もなく口頭で確認すると、おじさまは直ぐにカウンター奥、厨房の方へと入っていった。
「野菜サンドとは。また随分と小食なんですね」
「女性に大食い趣味をご所望?」
「意地悪言わないでください、そういうわけではありませんよ。それでお腹が膨れるのかなって、単純な疑問です」
「ふふふ、分かってますよ」
昨日今日の数時間の付き合いだけで、桐島藍子という女性について段々と分かって来た。
基本は天真爛漫、無邪気といった様子だが、大人の雰囲気を損なってはいない。興味のあるものには子どものように目を輝かせるが、言葉遣いが丁寧な所為だ。
そして、僕を弄る時には心底楽しそうな表情を浮かべて笑う。
悪気の元でないとは思うのだけれど。
「そこそこは膨れますよ。何が好きかって、無農薬の新鮮お野菜を使っているという点で――」
といった具合に、楽しそうに話すのだ。
見た目は大人、中身は――。
どこかで聞いたキャッチフレーズだ。
桐島さんの話を聞きながらほのぼのとしていると、早くも注文した品が揃って運ばれてきた。
「お兄さんがこれとこれ。で、藍子ちゃんがこっちね。以上で合ってるね?」
「はい、ありがとうございます」
「何かあったらお呼びを。それでは、ごゆっくり」
短く言い残して、おじさまはまたカウンターへ。
客という立場ではあるのだけれど、いくら店員とは言え、人を動かして動かしてを繰り返すのは、やや気が引けるものがあるな。
などと人好しな考えは首を振って吹き飛ばし、イチ押しとまで言わしめるそれを睨む。
「ふふ。睨んでばかりいないで、口をつけてみたらどうです?」
ふと掛けられた言葉に顔を上げると、桐島さんが、柄の方を向けたフォークを差し出していた。
「っと、すいません、気が利かなくて――これって本来、男である僕の方がやるべきことじゃ」
「お気になさらず。私、年齢だけで言えばお姉さんですから」
「すいません…」
軽く頭を下げて謝って、フォークを受け取ると再び睨めっこ。
艶々と光沢のある麺の表面は、おそらくオリーブ油によるもの。
パラパラと散らばっているのはニンニクと唐辛子なのだろうが――すごくまばらだ。
本当に、これで深い味が――
「……っ!」
「その表情は……驚いたでしょう?」
言葉もなしに見開いた目を目聡く捉えた彼女が言う。
「凄い。これ、本当にこれだけで?」
「ええ。マスターからの言葉をそのまま借りるとですね。基本の味付けは、フライパンの底が埋まるくらいにひいたオリーブ油と、それに混ぜたニンニクと唐辛子。常温から入れて、焦がさないように回しながらじっくりと香りを移すように炒める。最後にパスタを入れてゆで汁を上から少しかけて、塩胡椒をすると完成――という工程なんだそうです」
曰く、弱火でじっくりと汗をかかせるイメージで香りを移すのが一つのポイントらしい。
もう一つ、材料二つは細かく切り過ぎないのがコツだと言う。
「本場のやり方なのだそうです。こっちでは細かく”刻む”のが一般ですけれど、割りとざく切りにすることで、それ自体の風味も活きて、且つ逃げないように強く香りを残せるのだと仰っていました」
「日本との差、ですか。なるほど、食べたことない味の出方をしていると思いました。とても絶品ですね」
ここまで来ると、彼女が上品に持っているサンドイッチも食べて見たくなるけれど。
こちらも目聡く視線をキャッチされて、思わず目を逸らして自分の物に戻る。
そうして、しばらくは無言で幸せな空間が続いたのだけれど。
ふと、そういえばと桐島さんが口を開いた。
「どうかしました? 鍵でも閉め忘れを?」
「いえ。もっと重要なことです」
「重要な?」
「はい」
首を傾げて食べる手を止めた僕に、桐島さんもサンドイッチを置いて言った。
「明日、本格的なお仕事が一件入りました。とは言えそう大きな案件ではありません。ですから、後学の為、神前さんには同席していただきますね」
今日一眩しい笑顔は、何も知らぬ僕にとんでもない仕事を持って来た嵐のようだった。
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