第11話

(十三)

 当時はまだ現代画廊の州之内徹氏も、川北英司氏も健在で、州之内徹氏は原稿用紙五十枚分のコラムを芸術新潮に寄稿していて、川北氏は愛宕山画廊で個展を開催するまでになっていた。

帝国美大卒の川北氏の絵は、基礎がしっかりしているので安心できた。

私に「もう私は枯れてしまった。」という内容の手紙を私にくれていた。その頃からの川北氏の絵は変わってきて侘び・寂びの具象画になり、良い絵を描くようになって来た。

 後に、現代画廊で個展を開催されたとき、そのパンフレットに『銀色の色彩画家』と解説されていた。

 私と恵美子は、週に一回は画廊に行っていた。恵美子同伴の日が多くなった。彼女は州之内氏と私の会話をただ黙って聞いていた。 

 私が川北氏の個展を催す際には彼女を伴っていった。その際ついでに私の店が来年の昭和五十六年二月に開店することになった旨を伝えた。


(十四)

 目が覚めたら障子の陽が映っていた。起きなければと思いながら、体がだるく起き上がれなかった。

右胸から脇にかけての痛みは処置を受けてから治っていた。明日からは任事に行かねば……。と思い直して、休んだ二日間を振り返っていた。

雑念が入りすぎている自分を恥じた。恵美子は私によって女になった歳月を考えた。恵美子は、きっと人の世の寂しさを感じているだろう。

 土曜日の暮れ方、彼女の家に姉夫婦が来た。例によって夕食の後は麻雀になったが、十時になると両親は床に就き、茶の間に麻雀台を移した。

もう既に三十歳になる。恵美子に見合いの話を持ってきたのは父だった。

 恵美子は出社すると、私に電話をくれた。

「今日、どうしても会いたいの!問題ができてしまったの」

「それじゃ、銀座で六時に会おう。」

「多少話が長くなるので、例の居酒屋にしましょうよ。」と恵美子が言ってきた。

「じゃ、京橋のいつもの店で先に飲んで待ってるよ。」

私が仕事を終えて、京橋の『さらさ』へ行き着いたのが六時。その店はテーブル席が二つとカウンター席が四つの小さな店で、京料理のつまみが美味で、私も彼女も気に入っていた。

私はいつもの菊正宗の酒を飲みながら待っていると、恵美子が一時間ほどして現れた。

「お待たせ」

「……。」

「おじさん、私には生ビールをちょうだい。」

お互いに飲みながら話し始めた。彼女は遠慮がちに見合いの話をした。

「どうすれば良いかしら。」

「会ってみれば良いと思うがね。」

「それって、少し無責任じゃない?」

「そうだね。」

「見合いは止めておけ!と言わないの?」

「それは無理だ。まだ商売を始めたばかりだ。あと五年ぐらいはそれが海のものとも山のものともわからない。」

「この五年間で私を女にしてしまったのは、あなたなのよ。」

「それは俺も申し訳ない。しかし、水商売の道に入り込んでしまった今の俺には、立ち止まることは許されないんだ。」

「あと五年も待てということ?」

「そうだ」

「あと五年も待てるわけないでしょう。子供を二人作るしかないのよ。」

「それは、どういうことだ。」

「私の家の跡取りと鴻巣家の跡取りの二人なのよ!」

「そんな計算はよせ。形あるものに永遠性などないという事は、以前にも言ったと思う。だから俺の店だっていつ潰れるかわからない。」

「それじゃ何を見つめて生きていくの?」

「全ては『空』だ。ただ己だけを見つめていけば良い。」

「ねぇ、そんなおっしゃり方ってないでしょう。」

「そうだね。」

「見合いには行くな、とおっしゃれないの?」

「それは無理だ。五年間、俺は確かにお前さんに色んなことを教えてしまった。しかし、そこばかり見てはいけないよ。俺は役に立たないことばかり教えてしまったようだね。」

「面白いわ。」

「なにが?」

「あなたは、自分ではない、別の男の話をしているのよ。テレビドラマにそういう筋はあったでしょう。」

「あったかね。」

「ねぇ、少し真面目に考えてちょうだい。」

「だから見合いに行ってこい。話はそれからで良いではないか。……世の中には別の現実もあるものだ。」

「あなたは先を見ているのね。それってあなたの勝手な振る舞いじゃない。」

「勝手かもしれない。」

「他に女が出来たのね。」

「そんなんじゃない。」

実際、店を開店させてから自分に近づいてくる女は多かった。店探しは恵美子と二人の共同作業だった。三畳一間の侘び住まいでは私に好意を向ける女など、誰一人としていなかった。

店を作った途端、私に言い寄る女は増えた。神田の田町の鰻屋の女将などは毎日夕方の五時にタクシーで店に乗り付け、しつこくスナックに誘うのだった。

もう彼女は狂気だ。その女将も五十五歳で狂ってしまった。

店をたたみ、惨めな生活をしているのを知ったのは、ずっと後のことだが、それとて私の責任ではなかった。スナックの帰りのタクシーの中で、私の体を求めてきたこともあった。

寸前のところでラブホテルに連れ込まれそうになったこともあった。

大手銀行に勤める三十歳の女にも言い寄られた。その女は、

「あなたを好きになっちゃいけない?」

等と女の性を作って言い寄る女もいた。しかし、私は恵美子の体だけを求めていた。

「あなたは、先を見ていらっしゃるのね。鎌倉の建仁寺で、先を見てはいかん、とあなたは私におっしゃったでしょう。」

「あれは雨のせいだ。」

「私に事を飲ませたのも雨のせいだったのですか?」

「お前さんと是非も無い仲になってしまったのも雨の日だったからね。」

あれは、銀座の『おたこう』でおでんを摘みながら菊正宗を飲んでからの帰りだった。雨の中でタクシーを拾い、湯島の宿にしけこんだのも日本酒を六杯飲んだ後だった。

 私は、開店して三ヶ月で手ごたえを感じていた。

 恵美子には、「先を見るな」と言っておきながら、水商売に手を出し、もう一方では、一途に恵美子だけを見ていた。

 『矛盾、矛盾、矛盾』、商売だけを続ける以上、常にその俎上に己の神経を持ち続けることになるのは仕方ない。その相反する二つが弾けることがくるかもしれないとの暗い予感すら感じ出してしまう。

 実際、それから三十年程して、神経のバランスが壊れていったのも当然の成り行きだったかもしれない。

 私は恵美子に、

「先は見るな、己だけを見つめて生きていくんだ。」と何度も言ってきた。

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