第7話
(八)
私は人形町の店を断念した。もう十日になろうとしていた日、私は恵美子の勤務先に電話をし、銀座で会う約束を伝えた。私はこの辺で店探しは一時中断して頭をリフレッシュしたかった。
恵美子とはいつもの喫茶店で逢った。
「この辺で、店探しは一服して日光にでも行ってみたいんだが。それも平日にしたいんで、休暇を取れないか?」
「私もそうしたいな。一度ゆっくりお互いの今後のことを話し合っておきたいと思っていたわ。休暇はいつでも取れるので決めてください。」
「それじゃ九月二十八日と二十九日に休んでくれ。ホテルは私が予約しておくから。」
二人は喫茶店を出て、日動画廊のルオー展を見ることにした。
「絵自体は暗いのだが、いいね。」
「私もそう思うわ。胸にグッと入る部分がある。」
その日は、いつものピルゼンに誘うところだがやめた。そのままホテルに向かうことも考えないではないが、私は旅行の下調べをする為に早く帰ることにした。
(九)
旅に出る私は、龍ヶ崎の実家に帰り、車の試し乗りをしておこうと思った。これなら大丈夫と、一人合点して恵美子の家へ向かって乗り出した。
彼女の家へ乗り付けると、彼女はもう既に玄関を出て私を待っていた。
恵美子は、私の車に乗ると、
「誰と、何しに、何処にいくの?と母が口うるさいから、早く車を出してください。」
車が彼女の家を離れると、
「日光はもう寒いでしょうね。私、ダウンジャケットを持ってきたの。」
彼女はローズマリーの香水をつけていた。それは、ホテルで泊まったときにいつも付ける香水だった。その香りは私にとって気分の良い香りだった。
「東照宮は見学しないよ!神は明治以降のもので仏閣の方を大切にしたいから、あんな賑々しい場所へは寄らん。行先は金精峠を越えた丸沼温泉というところだ。」
神宮は、明治の天皇制になってからのことで、それまでは寺院のほうが歴史があり、日本人にはその普遍性からいっても仏の方が感覚に合っている。
「私は貴方におまかせでいいわ。」
と、恵美子は明るく答えた。
私は、いろは坂あたりで車が混んでいなければ……と気になっていた。ちょうど紅葉時期なので、わざと平日を選んだ。
「これから行くのは山の中にただ一軒あるホテルで、何もないよ。まぁ今ごろだと紅葉がきれいだろうがね!」
いろは坂は思ったより混んでいなかった。平日を選んだことが良かったのだろう。
恵美子の服装は相変わらず地味だが、ニコルブランドのセーターを着ていた。彼女は決して派手な装いはしないが、いつもその体系や顔立ちに合っていた。
そしていつも控えめで、私は気に入っていた。
私は一路丸沼温泉ホテルへ向かい、途中は一度も車のエンジンを止めることはなかった。それでも気温の低さは車窓から感じられていて、紅葉は真っ盛りだった。
私は内心、金精峠を越えた標高千六百メートルあたりの気色に驚くだろうと思った。
彼女の家を出て二時間あまりで、その金精峠を越える頃には、紅葉のジュータンが広がっていた。
「まぁ、きれい……。」
彼女は一瞬その紅の色に圧倒されたかのようだった。
「どうしてあなたはこんな所を知っていたの?」
二十歳の頃、この白根山に来たことがあったのだ。その当時は、丸沼温泉ホテルの裏山を越え、夫婦淵に出る山道を歩いたのであった。
「そういえば、何でも一人で生きてきたと言っていたわね。」
私が東北のみちのくを一ヶ月かけてヒッチハイクをしたのは、二十二歳の時だった。私の足は決して南国に向かうことはなかった。
私の意識下では、いつも北国だった。それでも北海道までは向かわなかった。いつも青森の駅の付近までだった。
その源は歴史認識の違いだろう。東北までは確かにあった日本の歴史。北海道は、明治以降の歴史感しか伝わってこなかった。意識も北へ向かう者は暗く、暖かい南国思考の人間は明るい性格を装っているような気がしていた。
私自身も明るい方ではない。でもネガティブでもないと思っていた。しかし、孤貧を旨とする今では、喜んで己の性格を受け入れている。
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