第6話

(七)

夜十時過ぎに、水を飲みに階下に下りて行った時、電話が鳴った。もう既に両親は床に就いていたので、電話機を取り、

「はい、中川でございます。」と言ったら、

「あぁ、お前さんでよかった。」と落ち着いた声で私が電話した。初めてだった。

「元気だったかい。」

「あまり元気ではありません。」

恵美子は両親に聞こえないように小声で応じた。

「明日は京橋に来られるか?人形町に手ごろな物件があるので少し見せておきたいと思ってるんだ」

「はい、行きます」

その店舗は、人形町駅から歩いて十分程度のところにあった。その現場は黒い鉄道会館のすぐ裏手にあった。周りは商業地だが、いかんせん空き地が多く、店舗の面積も二十坪と少し狭かった。

駅の近くにロートレックという喫茶店があった。そのときは客で立て込んでいて、従業員もきびきび働いていた。

 私もこういう喫茶店を作りたかったが、保証金が一千万円と高く躊躇せざるを得なかった。一緒に付いてきた恵美子は、

「私が調べておくよ!」と言った。

彼女は、ロートレックが気に入った様子だった。彼女もその頃になると必死だった。

私も店舗探しに少し膿んでいた。私は山手線沿いで七十件も探し歩いていた。その後一週間ほどして恵美子から電話が入った。

 そして二人は、いつもの銀座の喫茶店で待ち合わせた。

 まだまだ残暑が厳しく、恵美子は白いブラウス姿で現れた。地下鉄で二十分して鉄道会館に着いた。

地下鉄はかなり込んでいたが、恵美子は私に小冊子を渡してくれ、

「義兄が調べてくれたの!」というのだった。

その地域に済む人口を知る必要はなかったので、そのことを彼女にいうと、彼女はすぐに納得してくれた。

 その日は近所の居酒屋に入った。それは『京』という小さな居酒屋で純和風の京都料理屋だった。私と恵美子は、五席しかないカウンター席に腰をかけた。

 そこで私は、それまで食したことのないメニューを見てイカのわた焼きと海老しんじょうを注文した。恵美子はそんな私の注文の仕方に、

「あなたって本当に変わった人ね」と言った。

渡井はこのわたとカラスミのつまみも注文した。後はホヤの塩辛なども好きだった。

「私は鰻の柳川を食べてみるわ!」

と言って恵美子は注文した。

その店も酒は菊正だった。最初に酒が出た。私は冬でも酒は冷である。

ほんの十分くらいで海老しんじょうが出てきた。これでお通しが付いてカウンターはいっぱいになった。

「お疲れ様!」

と言って、二人が飲み始めた。酒の徳利もまた良かった。笠間焼きのくすんだ深緑で、手にはざらついた感触がある。砂混じりの土で焼かれたのだろう。

 私はその徳利は後で譲ってもらおうとした。手触りもいいし色も気に入った。私は過去にそんな色の壷を持っていたことがある。

それは筑波の小野さんが焼いてくれた物であった。次に柳川が出てきた。恵美子は、

「一緒に摘もう!」と言って、それを私の方へすべらせてきた。

 その時、カウンターの中に居る店の主人に昼の人口状況を聞いてみることにした。

「ご主人、申し訳ないんですけどこの辺は昼は人が多いんですか?」

「大きな会社はないんだが、けっこう賑やかで、近くの有名な親子丼屋だとかそば屋なんかには行列が出来ていますよ。」と答えてくれた。

「ご主人、申し訳ないんですけどこの徳利を一万円で譲ってくれないかなぁ」と私が言った。

「ああ、いいですよ!」と返事が返ってきた。その徳利は私の手にしっくりと馴染んでいた。

「私も店を探してるんですけど。」

「どんな商売ですか?」

「喫茶店なんです」

「昼間は客が入るでしょうけど、夜は無理だと思いますよ」

と主人が言った。やはり、私が思っていた通りで、私口合点がいった。

 午前のモーニングサービスや昼のランチタイムはそこそこ客が入るのだが、夜は通勤客は早く家路に帰ってしまうだろうと思っていた。

「ハイ、お客様、イカのわた焼きです。カボスをかけてからお召し上がりください。」

と言ってカウンター越しにアルミホイルが巻かれた料理が出てきた。店の主人に言われたようにカボスをかけたバター焼きの腹綿は絶妙で美味だった。

「さぁ、あなたも摘んでいいよ。」

と私が恵美子の方へ渡した。

「また、これはいい味ね!捨ててしまうのはもったいないわ」

「私も父に作ってあげようかしら」

二人とも、その味は気に入ってしまった。

「人形町の水天宮様は子育ての神として有名なのよ。今度いつか日曜日でも行ってみましょうよ!」

恵美子が明るい声で言った。私は店のことばかり考えていた。早く決めないと、もうすぐ三十歳になってしまう。

焦りも覚えていた。恵美子も同年齢だから同じように焦っていたはずだ。

「我が家に養子にこない?」とか「子供が二人欲しい」などと言っているのは、私よりはるかに焦っている証拠だった。


 その居酒屋を出たのは八時。もうすっかり暗くなっていた。

「ローストレックに寄ってから帰らない?私、何だか少し酔ったみたい」

私もその頃には、三畳一間の侘び住まいには辟易していた。もう準備は出来ていた。保証人は株式会社トミタの社長が請け負ってくれることに決まっていたので、銀行からの借り入れは出来るまでになっていた。

トミタの社長に出会ったのは、私の六曜館勤務から得ていた信頼関係だった。社長は既に五店舗を経営していたが、その内の二店舗は私の勤務で再生していた。

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