第4話

(五)

何日かして私は、恵美子に電話を入れた。

「今日、現代画廊へ行ってみない……?」

すぐにオッケーサインが出た。彼女と二人、現代画廊を後にしてお決まりのピルゼンというビア・ガーデンに入った。

彼女は注文をとりにきたウェイターに何か言って、

「キャベツの酢漬けとソーセージの盛り合わせを頂戴!後は黒ビールと普通のビールをお願い!」

「あなた、州之内さんが言ってた、宇野君をどうにかしてくれないか?とはどういうこと?」

「州之内さんも三回芸術新潮で取り上げたのにデッサンのよさが油絵に出てこないんだ」


後日、私は大阪の尼ヶ崎に済む宇野氏を訪ねたが、『これじゃどうしようもない』と内心思った。

『長谷川利行を信望していて何でこんな生塗りの絵ばかり描いているのかな……。ポエジーが全く掴み取れない。それ以前の問題で、色彩感覚が無いに等しい。』とも思った。

同居してる彼女の都さんの絵のほうが、よほどましだと思った。

私は常々州之内さんから教えられているのは、良い絵にはポエジーと品性が必要だということだ。水村氏も宇野氏もそれらを感じさせない絵ばかり描いている。

恵美子と私はビールを飲みながら、

「さっき現代画廊で見た水村さんの絵をどう思う。」

「私にはわからない。ただ一つ言えることは、技術が足りないということぐらいかしら。」と恵美子は言った。

九時を回った頃、

「私、電車に遅れるから……。」と言って恵美子が言って立ち上がった。

「上野まで送るよ!」

彼女は常磐線で荒川沖駅まで帰るのだ。いつもいつも最終電車に乗せる訳にもいかず、私も立ち上がって会計を済ませた。

上野駅に辿りつくと私は、恵美子と一緒に電車に乗り込んだ。

「あなたも一緒にいくの!?」

「いや、取手までだ」

一緒に乗ったのはいいが、私は酷い睡魔に襲われた。電車が走り出したのは覚えているが、恵美子の左肩にもたれかかってすぐ寝てしまった。

恵美子に、「取手駅よ!」と起こされないとそのままどこまでも行ってしまいそうになるほど眠かった。

私は『彼女と一緒だと本当に楽しいな…』と思った。一つ難を言えば、

「その革ジャンを脱いでくれない!」と言われたこと位だった。

彼女は別に偏屈でもないし、私に対してはざっくばらんで、人付き合いもいい。何よりも、私に無い品性があり、着ている服装もセンスが良かった。

その点私は、下品下情な性格で、宇野氏的でもあった。

「次はいつ会える?」と私が聞くと、

「私は閑職だからいつでもいいわ、電話してね!」

「それじゃ、俺の都合のいい日に電話するから」と私が言った。

 私は世の中の進歩がさっぱりわからなかった。後で恵美子からワープロという機械を聞かされた。工業高校卒なのに、電子工学の嫌いな私は、一十一や〇十一の意味も理解できずにいた。

勿論携帯電話等なく、パソコンも無い時代の話である。

 それでも、二、三百万円はするコンピューターなるものを買っている経営者がいたりもした。

その最初は田辺商事の社長である。彼は、コンピューターで競馬をしたり、株の売り買いまでしていた。この社長が、一番先にバブル崩壊の荒波に飲み込まれていったのが、不思議である。

彼は最初に自動車電話を取り入れた人物であった。その彼は、毎日のように五、六百万円もpの金を競馬につぎ込んでいた人物であった。

親が興した会社をたかが二年で潰し、親の建てた三軒のビルを手放し、二件の甲州の別荘を手放した男であった。私よりも五歳上の、プライドの高い人物であった。

 その後、私が二件目の店を始めたことで事実を知ったのだが、彼は会社を潰し十数人居た社員を路頭に迷わせたのだ。己の息子を、東北大に入れたといったがあれは、東北学院大学であることが私に露見する前の、まだまだ若い時代の失言であったと思う。

その田辺氏の行方は、未だにわからないままだし、知りたくも無い。しかし、連日私の店に四、五百万円の金を払う人物であったことは、間違いなかった。


 千駄木周辺をぶらぶら散歩するのが好きだった私は、その日も銭湯帰りにはいつものように三十分ほど散歩したりしていた。

その日も、日暮里の富士見坂へ行った。地下鉄や山手線に近い谷中は、寺が多く、いつも線香の匂いが絶えたことが無い。御香の好きな私には、住み心地の良い場所であった。

私は、そこの千駄木二丁目三番地に三畳一間を毎月九千円払って借りていた。

店の小林さんから京都で買ってきてもらう、御香の好きな若造である私がそこにいたという証みたいなものである。その匂いが、私と結婚したかみさんが嫌うのだから、離婚する結果になったが、私は私の道を行くがごとくである。

 その上根津神社が近く、毎年五月になるとつつじ祭りを楽しみにしていた私である。

それと、上野公園は桜が多く、西洋美術館には何度も足を運ばせてもらった。思い出のデートコースであり、湯島の置屋さんにも何度も通った。

その湯島のホテルで、私は恵美子と睦み合い、何度も通った思い出の道であった。

 そこの池之端に宇野氏を第二の長谷川利行と証して派手な宣伝文句で売り出し、二度と立ち上がれない程の痛みを抱えた宇野氏が今は裏日本を歩いている。 

 何故か、木下晋の辿った道も思い出す。私は、その木下氏も宇野氏の絵も嫌いである。今では芸大教授にまでも上りつめた木下氏の絵も、今でも何の変化もないだろうと思う。


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