水晶
音崎 琳
水晶
透きとおった強い日射しが、くっきりと、地面の上に黒い影を引く。その影から這い出して、ううんと大きく伸びをした。世界が白く眩んで、反射的に目を瞑る。閉じた瞼の上に、夏の太陽が零れ落ちる。
町外れの空き地は、白っぽい砂利と夏草に覆われている。その中にぽつんぽつんと、誰かの捨てていった粗大ごみが転がっていた。黒い大きなラジカセ、木でできたダイニングテーブルの椅子一脚、錆びた銀の自転車。わたしがつい今しがたまで蹲っていたのは、古い事務机の下だった。
青あおと繁る草の海に抱かれた人工物たちは、図鑑で見た、遠い昔の遺跡のようだ。海辺へ運ぶ途中で投げ出された、石の巨人たち。
さっきまで読んでいた本を握る左手が、汗ばんでくる。本を机の上に置こうとして、指が天板に触れた。
「あっつ」
慌てて本ごと手を引っこめる。天板は日射しに炙られて、焼石のように熱くなっていた。ずっとその陰にいたものだから、気づかなかった。
自然と視線が横にずれる。机の隣には、私の目の高さまで支柱を伸ばした、プラスチックの鉢植えが二つ並んでいる。鉢と同じ、緑のプラスチックで出来たその支柱に巻きついているのは、朝顔の蔓だ。鉢よりもずっと濃い色の手のひらを、微かな風に揺らしている。今朝空き地に着いたときにはひらいていた、鮮やかな紫の花は、もうくしゃくしゃに萎びていた。
真昼の太陽に、じりじりと脳天を焼かれる。再び机の下に潜り込もうとしたわたしの耳へ、熱された微風に乗って声が届いた。
「ゆうなー」
草の上に膝立ちになったまま、上半身を捩じってふりむく。近づいてくる人影を認めて、黙って大きく右手を振った。まりだ。
ぱたぱたとまりが駆け寄ってくる。足取りに合わせて、白いワンピースの裾がはためく。わたしを見下ろした顔に、麦藁帽子の淡い影が落ちていた。
「えい」
まりはいきなりわたしの頬に、冷たく濡れた何か、を押しつけた。わたしはびっくりして小さく叫ぶと、ぱっと頭をのけぞらせる。まりが手にしていたのは、チューブ入りの白いアイスだった。透明なビニールの容器には、びっしょりと結露がついている。まりは、横に二つ繋がったそれを、両手で捻って切り離すと、片方をわたしにさし出した。
「ありがと」
本を草の上に載せて、アイスを受け取る。
太陽は天高く昇り、机はほとんど真下にしか影を落としていない。その、二人には少し狭い空間に肩を並べて、わたしたちはアイスの封をちぎった。容器を握る手はじんじんするほど冷たいのに、中身はもう柔らかくなっている。口の中に、ぎゅうっとアイスを押し出した。爽やかな酸味と甘味を飲み下すと、お腹の辺りがひんやりした。
光の氾濫する空き地を、目を細めて眺めながら、わたしたちは黙ってアイスを食べた。町の音の届かないここは本当に静かで、遠くで鳴く蝉の声が空気に溶けていた。
ふと、日なたに放ったままの本が目に留まる。気づいたときには、言葉が口から転がり出ていた。
「いつか、おとなになって、こうやって二人で遊んでたなあって、思い出したりするのかな」
突然こんな事を言ってしまったのは、たぶん、さっきまで読んでいたその本のせいだ。まりは難しい顔をして、うーんと唸る。
「わかんないね」
「うん、わかんない」
おとなになったわたし、というものを、想像しようと試みる。窮屈そうなスーツを着て、会社に行ったりするんだろうか。どんなことを考えているんだろう。まりとはまだ、一緒にいるだろうか。がんばってその図に意識を集中させようとしてみても、おとなになったわたし、の顔は見えない。
月が巡ればいろんなことをすっかり忘れてしまって、当然空気の匂いや肌触りなんて覚えていなくて、だからいつも次の季節は新しい。それなのに、一年が何度も何度もくりかえされ、やがておとなのわたし、に辿り着くところなんて、想像できるわけがない。いつかこの夏が終わることさえ信じられなくて、その後に控えている秋のことだって何も知らないのに。
「そういえば」
まりがはたと声を上げる。アイスの僅かな残りを、容器を傾けて口に流し入れていたわたしは、視線だけで相槌を打った。
「最後に雨が降ったのはいつだっけ」
容器から口を離して答える。
「おととい、じゃなくて、その前か。あの時の夕立じゃないの」
「じゃあ、そろそろ水遣りしないと」
まりは空になったチューブを握ったまま、机の下から這い出た。朝顔の鉢のわきに転がっていた、少し凹んだやかんを手に取る。黒い取っ手を握る時に、あつつ、と呟いたのが聞こえた。
鉢の縁には、ひらがなでそれぞれ、わたしたちの名前が書いてある。「あさだ ゆうな」、「いいざわ まり」。担任だった先生の、黒いサインペンで書かれた綺麗な字は、風雨に薄れてきている。
一年生の夏休みに、宿題で育てた朝顔。まりはその種を忘れずに取っておいて、ちゃんと土に肥料も足して、もう四回目の花を咲かせた。
彼女はやかんを円く揺らして、ちょっと水が入ってる、と言う。
「さきおとといの雨かな」
わたしはまりを見上げて応じた。
「じゃあ、もう傷んでるよね。捨てた方がいいか」
「掛けて掛けて」
わたしが左手をさし出すと、まりはその上に、やかんから雨水を注いだ。
「あっ、ぬるい」
それでも雫は水晶のように、きらきらと透きとおって草の上に散る。わたしはその無色透明な光に、じっと見入った。時間にすればほんの二、三秒で、やかんは空っぽになる。水晶の粒はすぐに消えた。
「わたし、公園から水取ってくるね」
まりは白い裾を翻すと、またぱたぱたと駆けていった。うん、と呟くように答えたわたしの声は、その風に攫われて、たぶんまりには届かなかった。
水晶 音崎 琳 @otosakilin
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