第2話 おわりのとき

僕が彼女に出会ったのは大学の新歓の季節だった。付き合っていた恋人に頼まれて映画サークルの受付でぼんやりとしていた時に彼女がやってきた。新入生とは思えないほど落ち着いた美しさを持っていた。

  

 その時に素直に彼女の落ち着いた雰囲気を褒めた記憶がある。

 彼女はにこりと微笑んで答えた。

「晩年を過ごしていますから」

 その時の彼女の目が忘れられない。大きな瞳が細くなり、その黒い輝きの中で赤黒いものが流れるように動いて見えた。

 彼女と再会したのは、それから2ヶ月たった雨の日だった。

 

 灰色の校舎を出ると糸のような雨が辺りを黒く染めていた。避けようもなく雨水に浸った道を、修行だと思って歩いていた。まだ夕方にもならない時間だというのに、購買部から漏れる明かりだけが人がいる気配を感じさせた。

 まるで絵画のようだと思ったのは、正門の脇に彼女の姿を見つけた時だった。貼られたポスターを傘もささずに無表情に見つめる姿はポール・デルヴォーの絵のように静かな奇妙さがただよっていた。

 とても綺麗だった。

 つい目を離すことができずにぼんやりと眺めていたら、振り向いた彼女と目があった。

「大丈夫?」

 思わず口をついていた。彼女のことを心配したというよりはただ自分のために発した言葉だった。彼女は雨に濡れることを不快とも思っていないように見えた。その姿がまぼろしのように思えて、このまま数歩進んで振り向いたら雨に消えているんじゃないかという自分の妄想をかき消したかった。

「はい」

 柔らかく微笑んで彼女は答えてくれた。

「あの、映画サークルの方ですよね?この映画明日じゃないと観られないんですか?」

 そう言って、彼女がポスターを指さした。映画サークルの上映のお知らせだった。明日は「禁じられた遊び」が上映される予定になっている。彼女が僕を覚えていてくれたことに浮きたち、ポスターをのぞく素振りをしてもう少しだけ彼女に近づいた。

「上映は明日だね。明日は都合悪いんだ?」

「今日じゃないと」

 そう言って黙った彼女の瞳が、初めて会った時のように赤黒く光ったように見えた。その瞳をもう一度のぞき込みたいという抗いがたい欲求がゆらりと体の中から湧いてきた。

「もし見たかったらうちくる?」

「いいんですか!?」

 そう飛び上がるように声を弾ませた彼女は、年相応の可愛らしさがあって安心する。それと同時にいきなり部屋に誘った気恥ずかしさがわいてきて、彼女に傘をかかげながら言い訳がましく下心のないことを説明する。

「彼女がこの前置いてったんだよ。部屋で見るんじゃなくて貸してあげるよ」

「一人は嫌。一緒に見てください」

 彼女はきっぱりと言い切った後、ふわりと表情を緩めた。

「私、明日が20歳の誕生日なんです」

 だから誕生日プレゼントをくださいというような気軽さを匂わせたまま、彼女は続けた。

「だから、私、今日死ぬんです」

 赤黒く光る彼女の瞳の中に、ぼんやりと白い顔をした見知らぬ男が映ったように見えた。


 床に散らかったDVDやCDをなんとか寄せてスペースを空けると、彼女はちょこんと腰を下ろした。興味深げにきょろきょろと周囲に散らばった映画のリーフレットやDVDのパッケージを眺めている。恋人や友人たちが来る時には気にもならなかったようなことが気になって落ち着かない。タバコ臭くないか、貸したタオルに変なものはついてないか。恋人がくれたハート型のキーホルダーをどうやって彼女の目から隠すか。生死の話を聞いたばかりなのに、生活に付随する些細なことだけに目がいく。

「で、別に自殺したいとかではないんだよね?」

 熱いコーヒーを彼女に差し出しながら念をおす。受け取ったコーヒーを両手で抱え込むようにしてゆっくりと口にしてから彼女はうなずいた。

「あの人から最後にもらったメモに」

「メモに?」

 ほんのわずかの間、何かを思い出すようにぼんやりとした表情をしてから、いいんです、とかすかな声で呟くと、小さく首を振って彼女はにこりと微笑んだ。

「映画、一緒に見てくれますよね」

 彼女が教えてくれた過去の話を聞いたあとで「禁じられた遊び」を見るのは気が進まなかった。でも、DVDだけを貸して彼女を外に出すというのはもっと怖かった。イギリスの古典的ゴーストストーリーの登場人物たちのように理不尽にこの世界から彼女が消えてしまうような気がした。

「いいけど。君が思っているような話じゃないかもしれないよ」

 僕にできるのはただ画面に映し出されたモノクロの映像を見つめる彼女の隣にいることだけだった。落ち着かない気分で見始めたものの次第に僕自身も映画に引き込まれていった。

 画面の中で少年が必死で少女のために働いている。都会から来た少女はすぐに少年を虜にしてしまう。涙に潤んだ瞳で頼まれるままに少年は少女のためだけに動き続ける。純愛のように描かれているのかもしれないけど、僕にはそうは見えない。だけど、それがたまらなく、良い。

「この女の子が大人になったらもっとすごいだろうな」

 ポロリと漏らした感想に、彼女が興味深気にふりかえる。

「美人になるっていうことですか?」

「まあ、それもあるけど」

 僕の勝手な想像だよ、と言うと彼女はこくりとうなずいて、それでも教えて欲しいと続きをうながした。

「あぁいう、男が何かしてあげたくなるタイプは一番こわいんだ」

 大人たちに叱られようが殴られようが少年は彼女の願いを叶えるために奮闘する。子供であれば純粋で真摯な行動に見える。でも。

「大人になった彼女にもし出会ったら、あの男の子はどうなるんだろうといつも考えるんだ」

 画面に少女の泣き顔が映し出される。少女の表情とともに揺れ動く影が、いつの間にか薄暗くなった部屋で白い顔を僕に向ける彼女の表情を覆う。

「きっとまた彼女の願いを叶えるために必死になるよ。でも、子供と違って、叱られることも禁じられることもなければやめる言い訳すらできない。死ぬよりずっと辛いんじゃないかな。でも、きっと大人になったあの女の子はそれを当然のものとして享受するんだ」

「大人にならないとダメ?」

 彼女の声が少しかすれていた。

「ダメだよ。どこか未完成のままの自由な大人になったときに男はみんな彼女に夢中になる。・・・大丈夫?」

 彼女は何も言わずに少しだけ顔を上げて窓の方を見ると、かすかな雨の音を聞くように耳を傾けて目を閉じた。

 印象的なエンディングテーマが静かに流れはじめると彼女はようやく目を開けて僕を見た。僕という存在を初めて認識したかのようにまっすぐと。

「私が大人になっても」

 彼女の黒い大きな瞳の中が赤黒く輝き、ぼんやりとした白い影が浮かぶ。

「私のことずっと見ていてくれますか?」

「・・・当たり前だよ」

 その瞬間には僕は恋人のことも何もかも忘れていた。

 柔らかくひんやりとした彼女の唇を感じたとき、彼女の瞳に映った白い影がにやりと笑ったように見えた。でも、もう何も考えられなかった。

 そして、彼女は弾けるように微笑んだ。


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