παρελθόν 4(9)
遠い昔、ティコは極東の島で生を受けた。父親のニコラスは欧州の商船に手違いで乗った死神ヒュプノスだった。見目麗しいがいい加減な男だった。極東の地に足を着けたニコラスは管轄区がある国へ帰る事よりも、自らの欲を満たす事を優先させた。手当たり次第生娘を組み敷いた。
しかし罰が当たった。最後に手篭めにした美しい乙女が名の知れた商家の娘で、腹を膨らませてしまった。世間体の為そして娘の為、商家の大旦那は不承不承ではあるが青白く光る不思議な瞳のニコラスを婿として迎えた。
やがて月日が満ち、ニコラスに容貌がよく似た美しい女児が生まれた。ブロンドの髪と青白く光る不思議な瞳は極東の民の物ではなかった。
大旦那は赤子が男児ではなかったので肩を落としたが甚く可愛がった。わざわざ高名な学者を屋敷に招いては『孫娘が幸せになれる名前をつけて欲しい』と頭を下げ、多額の礼を差し出した程だった。
地平線から真っ直ぐ伸びる影のように凛とし、人々に灯りをもたらす人になるように、と女児は灯子(とうこ)と名付けられた。大旦那は目に入れても痛くない程に灯子を可愛がった。商談を終えては直ぐに灯子の許へ駆けつけあやし、おしめを替え、溺愛した。
灯子は日に日に成長する。つい一月前は乳飲み子だったのに今は歯が生え揃え、屋敷中を駆け回る。灯子が町の赤子よりも成長が早くても大柄なニコラスの血の所為だろう、と大旦那も母も屋敷の使用人達も特に気に留めなかった。
愛らしく成長する灯子は大旦那を始め、屋敷の全ての者に可愛がられた。凛として火のように活力に溢れた灯子は小さな姫君だった。母も大旦那も誰も愛らしい灯子に逆らえない。ぽっぴんが欲しい、絵草紙が欲しいと言えば一日と待たずに彼女の前にそれが現れた。『じじ様、歌留多遊びしましょ』と言えば、商談を放り出して大旦那は愛らしい灯子の許に駆けつけた。
灯子は全てを与えられていた。しかし彼女には不満があった。これだけ屋敷の者に愛されているのに、とと様だけは振り向いてくれない。それだけがつまらなかった。
ニコラスは灯子に興味がなかった。彼の興味は生娘だけなので母となった伴侶を抱く事は二度となかった。女を抱きに行こうとしても屋敷に軟禁状態だった。しかし屋敷に出入りする異国の商人とは時々話をする事を許されていたようだ。時折、ニコラスの部屋からは大旦那も灯子にも理解が出来ない異国の言語が聞こえて来た。
商人が来ない日、ニコラスは専ら畳に寝そべっては欠伸をする。そんな彼を見下ろした大旦那はうじゃじゃけている、と喝を入れた。
ニコラスは舅の命で極東の字を習った。包帯を巻いた右手を汚して墨を擦り、筆を取るが気の多いニコラスは手習いすら満足に出来ない。舅自らが字を教えるがニコラスはヘラヘラと笑って真面目に学ぼうとしない。灯子の名前を覚え切れず『丁子(ていこ)』と記す程だった。
丁子、と記された紙の山を少女の灯子は散らかしてはきゃらきゃらと笑う。
「これ。紙をお離しなさい、灯子。それはお前の名前じゃないよ。丁子だなんて」舅は眉を顰めた。
「とと様の字、面白い。こっちの字の方がすっきりしてる」
丁子の紙を掴んで離さない娘と紙を引っ張る舅を眺めるニコラスは呟く。
「おー、そうか。お前は俺が書いた名前の方がいいのか」
父に初めて声を掛けられて嬉しくなった灯子は『うん』と元気よく返事した。
大旦那の顔色が一気に青ざめた。しかし愛しい灯子が頷いた以上何も言えない。
「じゃあ今日からお前はテーコだ。いいな? テーコ」墨で染まった包帯を巻いた右手で、ニコラスは娘のブロンドを撫でる。
墨で斑になった髪に構わずに丁子は『うん』と返事した。
その日以来、丁子はニコラスの後を追いかけるようになった。ニコラスは鬱陶しがるでもなく、可愛いがるでもなく、付き纏う丁子を許した。丁子は畳に寝そべるニコラスの背を踏んで体を解してやったり、父の為に茶を持って来てやったり等所用を済ませてやった。丁子は苦と想わなかった。急に父に認められたのが嬉しくて、父の為なら何でもしたかった。
ニコラスの言いなりになる丁子を眺め大旦那は皺だらけの唇を噛む。丁子を灯子と呼んでも無視される上に、ニコラスを叱ろうものなら丁子に『じじ様嫌い』と非難を浴びせられる。諦めて眺める他なかった。
ニコラスは丁子に異国の言葉を教えた。極東の言葉ではなくてニコラスが生を受けた国の言葉だ。利発な丁子は直ぐに異国の言葉でニコラスと会話出来るようになった。
流暢に異国の言葉を話す丁子の頭をニコラスは節くれ立った大きな手で撫でてやった。大好きな父に撫でられた丁子は満足そうに微笑む。彼女は祖父とは違う、父の武骨な手や血管が浮き出た逞しい腕が好きだった。
仲睦まじい父子を眺め、大旦那は苦り切った。
ニコラスは丁子に沢山の事を教えてやった。自分達はじじ様やかか様と違う特別な存在である事、青白く光る不思議な瞳は不思議な者を見られる眼である事、とと様は違う国に住んでいた事、そこに住んでる人は素敵な形の着物を着て牛の肉を食べていると言う事を話した。
「牛? 牛を食べるの?」丁子は青白く光る瞳を見開き、身を乗り出した。
「あー」ニコラスは一つに縛った髪の元結いをほじる。
「牛なんて食べたらじじ様、仁王様みたいな顔するだろうね。美味しい?」
「美味いなんてモンじゃねーぞ。舌が脂と肉で溶けちまう。あーあ、牛喰いてぇなー。魚ばっかで飽きたわ。偶に肉が出て来たと想ったら鶏や兎だしよー。食いでがねーよ」
「私も牛食べてみたい!」
「あー。そうだな。じじ様にはこの話するなよ? 異国の話してたなんて聞いたら、とと様どやされちゃうからなー」
「しないよ! 約束する! もしとと様がじじ様に叱られたら、私がじじ様を叱ってあげる!」
「おー、そうか。テーコは頼もしいなー」
大好きな父に頭を撫でられ丁子は満面の笑みを浮かべた。
来る日も来る日も、ニコラスは座敷に寝転がって異国の話を聞かせてやった。丁子は異国の美しい建物や素敵な着物、美味しい馳走に想いを馳せた。やがて丁子は想いを口に出すようになった。
「ねぇ、とと様。私、とと様の国へ行ってみたい」
ニコラスはその言葉を待っていたとばかりにほくそ笑む。
「とと様も帰りてーなー。でも船がないと帰れないんだよな」
「船? じじ様が港の人と仕事の話してたよ。『近々外国船が帰る』って。びいどろやお菓子や南蛮の素敵な物を沢山貰ったお礼に沢山お土産を渡すんだって話してた。大きな絡繰り人形とか行李いっぱいに入れるんだって」
「おー、そうか。じゃあその行李の中に入って船に乗っちまうか」
「なんで? 行李の中に入らなくても船に乗れるよ?」丁子は首を傾げた。
「船に乗る、なんて言ったらじじ様うるさい事言って止めるだろうからなー。だから行李の中に隠れて乗ればじじ様に気付かれないだろ?」
丁子はニコラスに抱きつく。
「とと様天才!」
「おー、とと様は頭が良いんだ。……ところでテーコ、船に乗るともうじじ様やかか様に会えなくなるがいいのか?」
「どうして?」
「とと様はなー、間違えてこの国に来たんだよ。とと様はそろそろ帰らなきゃならないんだ。だけどなー、独りぽっちだと寂しいだろ? テーコが居たらとと様寂しくないんだけどなー」ニコラスは青白く光る不思議な瞳を伏せると丁子の頭を撫でた。
「……じじ様やかか様にもう会えないの?」
「おー」
丁子は俯く。優しいじじ様や穏やかなかか様に二度と会えないなんて……。そんなの嫌だ。唇を真一文字に引き結んだ丁子は顔を上げた。
眉を下げてニコラスは微笑する。
「無理するなテーコ。最初から答えは分かっていたさ。とと様は一人で帰る。テーコはこの国に残れ」
眉を下げた丁子は大きな瞳一杯に涙を浮かべる。一緒に行かないと、とと様にもう会えない。付いて行ったら……じじ様とかか様にも二度と会えなくなっちゃう。……でも、そしたらとと様独りぽっち……。
小さな拳を握った丁子は父の瞳を見据える。
「私、とと様に付いて行く!」
ニコラスは困ったように笑う。
「無理するなって。テーコはチビっころだから、じじ様とかか様想い出して泣いちゃうぞー?」
「泣かないもん!」
「本当かー? 泣かないかー?」ニコラスは悪戯っぽい笑顔を浮かべて丁子に肉薄する。
「泣かない! とと様独りぽっちにさせたら、とと様泣いちゃうもん!」
ニコラスは小気味よく笑う。
「そーだなー。とと様泣いちゃうかもしれないなー」
「じじ様にはかか様がいるもん! だからとと様には私が必要!」
満面の笑みを浮かべたニコラスは丁子を引き寄せると力強く抱きしめた。
丁子は暖かくて大きな父に抱きしめられ破顔した。
「……マークに詳しく話せるのはここら辺までかな」
ベッドに横たわり、マークを抱きしめたティコは寂しそうに笑う。
「あとはぼかしてもいいかい? 少年のマークには辛くて暗い話だ」
彼女の胸の傷を愛しげに撫でつつマークは首を横に振る。
「僕は大丈夫。ティコの話……ちゃんと聞きたい」
ティコはマークを見遣った。マークは言葉を続ける。
「子供扱いしないで。大好きな人の事なら知りたい。ティコの全てを知りたいんだ。ティコが辛くなるなら聞きたくないけど……」
「いいよ。私はマークに私を知って貰いたい」ティコは小さく頷いた。
「ありがとう、ティコ」
行李の中に隠れて乗船する計画は成功した。
しかし船が沖に出て島が見えなくなってから事が発覚した。丁子とニコラスは行李から引きずり出された。暗い貨物庫でニコラス父子をガタイの良い船員や船長が取り囲む。梁から所々ぶら下がったランプが船員の日焼けした顔を照らし出す。ニコラスや丁子と同じ目鼻立ちがしっかりした彫りの深い人種だ。小柄な大旦那とは違って山のように大きい。物々しい雰囲気に飲まれ、恐ろしくなった丁子はニコラスの袂を掴んだ。
ニコラスは丁子の手を振り解くと、恐れも悪びれもせずに船長に語り掛ける。
船長とニコラスは知り合いなのだろうか? 丁子は小首を傾げた。
吊りランプの光を頼りに船長の顔を見つめていると丁子は想い出した。見覚えのある顔だった。時々屋敷を訪ねてはニコラスと話す男だった。
船長はニコラスと会話を交わすと幾度か小さく頷いた。幼い丁子は耳を澄まして聞くが難しい単語ばかり出て来るので話の全容が分からない。
話を終えたニコラスは満面の笑顔だったが、眉を下げて自分を見つめる丁子を見遣ると肩をすくめて眉を下げた。
「テーコ。船に勝手に乗ったから怒られちゃったよー」
「とと様、私達降ろされるの?」丁子は父の袂を握る。
「大丈夫だー。とと様が話纏めてやったから」
丁子は自分達を取り囲む船員を見上げる。誰も彼もが自分に対して嫌な笑いを浮かべていたり、鋭い目つきで眺めていた。
「本当? 大丈夫なの?」丁子は問う。
「大丈夫。テーコが居てくれたからとと様、安心して船に乗れるなー。テーコ、ありがとなー。頑張るんだぞー?」
「頑張るって?」
眉を下げた丁子の頭を撫でるとニコラスは背を向け、船長と共に甲板へと続く階段を上がって行く。
「とと様待って!」
丁子は追いかけようとするが両手首を捕えられた。幼い彼女が振り向くと両手首を別々の男が捕えていた。甲に血管が浮き出た手が華奢な手首を締め付ける。彼らを仰いだ丁子の唇が震える。男達はニコラスよりも背が高く大柄だ。そして船乗り故に力が強い。
手首が痛い。戦いた丁子は声も出せずに固まった。
「お前は俺達のもてなしをするんだ」
「恨むんなら親父を恨みな」
乱暴に引き寄せられた丁子は帯を解かれ、着物を引き剥がされ襦袢を引き剥がされる。
恐ろしくて声も出ないが視覚と聴覚だけがやけに冴えた。男達は皆一様に下品な眼付きで自分を品定めする。そしてズボンを下ろしつつ会話をする。『お前、昨日湯女に世話になったんじゃなかったか?』『寄港地まで待てるかよ』『ガキたぁ言え穴が空いてりゃ突っ込めるだろ』『処女だ処女だ』『この間決めた順番じゃ俺が一番だぜ』
毛むくじゃらの大きな手に頭を捕えられると丁子は意識を失った。
どれくらい気を失っていたのか分からない。
意識を取り戻したのは股に激痛が走った所為だった。ガラスがクラックしたような衝撃が走った。
何が何だか分からずに丁子は悲鳴を上げる。
「痛い! 痛い痛い痛い痛い痛い!」
野卑な笑い声が丁子を取り囲んだ。
「とと様助けて!」
しかし怒声と共に頭を想い切り叩かれる。丁子の頬は床に付いた。
「起きたらギュッて締めつけやがった! 大した名器だ!」
いがらっぽい声の男の感想にゲラゲラと野卑な笑いが湧き上がる。
彼女は頭痛と股の痛みを堪えて周囲を見渡した。沢山の足が見えた。視線を上げると上半身半裸の船員や全裸で男のモノを屹立させた船員が居る。
恐る恐る視線を戻すと屈強な男が自分に覆い被さっていた。大きな口からは黄ばんだ歯を覗かせ、荒い鼻息を吐き、充血した白眼をぎょろぎょろと動かしている。
丁子はあまりの恐ろしさに視線を下ろす。男の逞しい胸が見え、割れた腹が見え、太く赤黒い男根が見える。それは丁子の股の間に埋もれていた。
男は腰を律動する。
丁子は再び悲鳴を上げた。
「うるせぇ!」
男は再び殴ろうとするが別の男に止められる。
「失神して緩くなるぜ? 折角締まってる上物なんだ。仕置きは他の所にしな」
男は梁に吊るされたランプを見上げ思案する。しかし良い案が思い浮かばない。
「どうやって黙らせっつうんだ?」
「可愛がってやればいいだろ? おめこばかりが女じゃねぇぜ?」別の男はおどけて肩をすくめた。
鼻を鳴らした男は再び丁子を見下ろすと深々と自分のモノを丁子に突き刺した。
丁子は悲鳴を上げる。
顔を顰めた男は丁子の薄い胸に想い切り齧り付いた。
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