παρελθόν 5(10)

 丁子の勤めは明け方まで毎晩続いた。


 痛みも苦しみも感じなくなっていた。肌に纏わり付く湿気も、腰を律動させる男の顎から自らの柔肌に滴り落ちる汗の不快さ、広がり過ぎた股関節の痛みさえも感じなくなっていた。


 丁子の勤めが終れば今度は男達の勤めだった。彼らが持ち場に戻ると、丁子は独り船室に残され体液と血液、痣だらけになった体をぼぉっと見つめた。白い肌に赤黒い大きな痣や、紫の痣が咲いている。殆どの痣は数日経てば黄色くなり、やがて消えた。しかし破瓜の際に齧られた、まだ膨らみもしない乳房の傷跡だけは消えなかった。それと同じく丁子の心に刻まれた傷もひび割れたガラスのように治らなかった。


 日が沈んでは男達が丁子に乱暴を働きに来る。丁子は抵抗しなくなった。抵抗しても徒労に終わるからだ。殆どの感覚を失い、瞳に宿る光を失っても、丁子はニコラスが迎えに来てくれる事を待っていた。一方的な性交の最中でも父の声が聴こえないか、耳を澄ました。暗闇に居る所為か聴覚が矢鱈と鋭敏になっていた。しかし聴こえるのは自分に乱暴を働く船員や、海風の音、素知らぬ振りをする船長の声ばかりで父の声は聴こえなかった。


 体中にこびり付いた体液が腐り、臭気を漂わせる。丁子は男達に蹴り飛ばされた。床に頬を付け胃液を吐いても耳を澄ませた。


 床に踞っていると頭を蹴られた。


 ブツッと、ロープが切れたような音が頭に響いた。


 丁子は青白く光る瞳を見開いた。


 ……とと様の声が聴こえる。


 どうして聴こえたのか分からないがそんな事は問題ではない。とと様を探さなきゃ。


 耳を澄ました丁子は父の声を追う。声の響きが明瞭だった。くぐもってない。船室の中ではない。穏やかな夜風の音も聴こえる。きっと甲板に居るのだろう。


 ──あー、怠い。楽して乗船出来ると想ったら雑役しなきゃならないなんてなー。


 ニコラス以外に船長の声も聴こえる。


 ──お前の娘はもっと辛い勤めをしているだろう。偶に顔を出してはやらんのか?


 ──いや、面倒だし行った所で恨まれてるだけでしょ。騙したのには違いないんだからさ。だったら日中あくせく働いてる分、ぐっすり眠りたいのが本音だなー。


 ──船員からお前の武勇伝とやらを聞いた。海では女日照りだろう。娘に手を出したいとは想わんのか?


 ──無理、無理。聞けばザーメン臭くなってるって話じゃーん。それに股から血も出ないガキ犯すなんてねぇ。鬼畜っすよ。


 ──乗船代替わりに娘を売り渡した男がよく言ったものだな。


 ──おぉ? 何言ってんの? あんたが屋敷に出入りしてる時からそんな話してたじゃーん。俺金持ってねーもん。強姦を認めた船長、あんたも同罪だよー。


 丁子は耳を閉じた。


 ……大人の会話なので細やかな部分までは話が分からないが、自分をこんな目に陥れたのは愛してやまないとと様だと丁子は悟った。


 びいどろのような青い瞳から涙が溢れ出る。いつの間にかまた穴に男根をねじ込まれたのだろう。男が腰を律動させる度に涙は目尻や頬を伝った。


 ある日、丁子は甲板に出された。昼の事だった。


 久し振りに太陽の下に出た丁子は眩しさに耐え切れず目を細める。日差しが突き刺さり、眉弓や眼窩が痛い。


 ぼぉっと海を眺めていると頭から海水を掛けられ、デッキブラシで擦られた。


「お前臭ぇんだよ。ザーメン洗い流してやったから、そこに突っ立ってろ。海風に晒されてりゃその内乾くだろうよ」


 忙しなく己の仕事を果たす男達を背に丁子は海原を眺めた。何も遮る物がない。ひたすら瑠璃色の絨毯が広がっていた。


 ……とと様置いて逃げようかな。


 しかし陸なぞ見えない。今ここで身を投げても溺れ死ぬだけだろう。庭の鯉を捕まえようとして溺れてじじ様とかか様を泣かせたくらいだ。


 じじ様とかか様……どうしてるのかな。……もう会えないのかな。会えないよね。だって私がじじ様とかか様を捨てて来ちゃったんだもの。……だったらこんな苦しみが続くなら……。


 真下を見つめると恐いので遠くを見つめて落ちようと決めると、海原に人影が見えた。


 丁子は目を凝らす。幻覚だろうか?


 縁に身を乗り出し、顔を顰めて探していると波間から上半身裸の少年が現れた。紺碧色の髪をし、蜜色の瞳を嵌めた美しい少年だった。


 驚いた丁子は少年を凝視したまま口を開く。少年も彼女に気付いたようで暫く狼狽えていたが破顔すると真珠のように白い腕を大きく振った。腕を動かす度に胸許の巻貝のネックレスが揺れた。


 丁子は小首を傾げる。じじ様が昔話してくれた……海を治めるスサノヲの神様? スサノヲ様は髭ダルマの怖いお顔で鬼のような体の神様だって言ってたけど……。子供みたいだったり、乱暴者だったり、英雄だったり色んな姿の神様だって言ってた。海に居るならスサノヲ様に違いない。


 スサノヲと思しき少年に丁子は手を振り返した。


 それを見た少年は嬉しそうに近付いて来た。時折波間から蜉蝣の羽のような透き通ったヒレが見えた。


「おい! 身投げしようって魂胆じゃねぇだろうな!?」


 縁に身を乗り出していた丁子は船員に首根っこを掴まれた。丁子は悲鳴を上げ、身をよじる。しかし船員に頭を殴打され、船室へ引きずられて行った。


 遠ざかる痣だらけの背を、波間から少年は眉を下げて見つめていた。




 洟を啜る音が薄暗い部屋に響く。


 ティコは溜め息を吐いた。やはり他者が聞くに堪えない話だったか。悪い事をした。


 洟を啜ったマークは顔を上げる。


「ティ、コ。……辛かったね。苦しかったね」


 心配してくれるのか。小さく頷いたティコの胸は甘く疼いた。彼女は潤んだ瞳でマークを見下ろす。


「……今は辛くも苦しくもないからいいんだ。こうやってマークが話を聞いてくれたから。余計な痛みを背負わせてごめん。それでも聞いてくれた事が嬉しかったんだ。大好きな人だからこそ……マークだからこそ話せたし、話したいと想った。小さな肩に凭れてごめんよ」


 マークは瞳を伏せるとティコの胸の傷跡に優しく触れる。


「ううん。僕はティコに凭れて欲しい。辛い想い出でもティコが忘れずに胸に仕舞っていた事だから、僕はちゃんと聞きたい。ティコの苦しみもティコの喜びも。ティコの全てを知りたい」


 ティコはマークを抱きしめた。


「……海の中に男の子がいたの? スサノヲって誰?」マークは問う。


「……マークくらいの少年だった。スサノヲは極東の神様だよ」


「極東……ティコが生まれた国だね」


「いつか行ってみな。欧州の猿真似ばかりしてる小国って悪口ばかり聞くが、私にとっては故郷だ。捨てて来たけど……大好きな国だ」


「うん。いつか行こう。一緒に行こう? ……僕がティコを連れて行ってあげる」


 ティコは眉を下げた。……それが出来たらどんなにいいか。


 マークは問う。


「それで……それでどうなったの?」




 船上のティコを見上げていたのは下肢が魚の海神トリトンだった。


 嫌がっているのに連れ去られるティコの背を眺め、トリトンは疑問を抱いた。ここ何百年、人間の信仰心が薄れた所為で神は彼らの目には見えざる者になった。しかし船上の少女と視線が合い、互いに手を振り合った。


 ……信仰心が深い人間なのだろうか。いや、人ならざる瞳をしていた。青白く光り輝く一等星のような瞳だ。冥府に籍を置き、人々に混じって暮らす死神であるヒュプノス神、タナトス神はその瞳を持つと聞く。……しかしあんな商船に死神が乗るのだろうか?


 過ぎ去って行く船尾を見つめ、腕を組み、思案に暮れていると海上を歩くヘカテ女神に会った。


「やあ。お散歩?」トリトンは丈の短いタイトなドレスを纏った赤毛のヘカテを見上げる。


 水面に付けた足を交差させるとヘカテは鼻を鳴らす。


「そんな悠長なモンでもないよ。漸く冥府と地上の仕事に区切りがついたんだ。偶にはこっちの見回りもしないとね」


 魔術師の王であり、贖罪の女神であり、また犯罪を取り締まる女神であるヘカテは冥府、地上、海上の三界で幅を利かせていた。故に至る所へ彼女は出向く。


「そっか。ヘカテは大変だな。お疲れ様」


「労ってくれるのはお前とパンドラくらいだよ。可愛い奴め。だから偶に顔を見たくなるんだ」


「わ! 冥府のナンバースリーにそんな事言って貰えるなんて光栄だよ。今度ペガソスに会ったら自慢しよっと。この前、翼を自慢されて悔しかったんだ」


 ヘカテは苦笑する。


「海神ポセイドンと正妻アムピトリテの息子にも関わらず、驕らないお前は本当に可愛いな。だから人間に愛されるんだよ」


「そうなのかな? ここの所人間と話してないから寂しいや。そう言えばハデスおじさんは元気?」


「次から次へと仕事押し付けるよ、あのおっさんは。給料分以上働かされてるよ」ヘカテは小さな溜め息を零した。


 苦笑したトリトンは遠ざかる船尾を見遣る。それに気付いたヘカテは問う。


「……あの船がどうかしたのか?」


「う……ん。実はね」


 トリトンは経緯を説明した。


 話を聞いたヘカテは掌を開く。すると魔術により赤い手帳が現れた。それを乱雑に繰る。


「……心当たりあるの?」トリトンは問う。


 ヘカテは問いに答えずに暫く頁を繰っていた。しかし手が止まった。


「……多分、こいつの関係者だな」


 屈んだヘカテは手帳をトリトンに見せた。


「……ニコラス? ヒュプノス神?」トリトンは小首を傾げた。


「ああ。数年前から行方不明らしいんだ。仕事をサボってばかりだったから、身を潜めても問題はないだろうと特に捜索してなかったんだ」


「死神は多忙だもんね。でも働き詰めの死神に怠け者がいるなんて珍しいね」


「父ちゃんの遣いのイルカにも働き者もいれば怠け者もいるだろ? 死神だって同じさ。辛い役目から逃れられる『死』と言うご褒美があるから多くは真面に働くけどね」


「そっか」


「……ま、娘をこさえたから任地へ戻り後を引き継がせようって考えてんだろ。多分」


「そんな事してどうするの?」


「娘の存在を隠し通し、自らが働いている振りをして上前を跳ねようって魂胆だろ。それか碌な教育も施さず自分だけさっさと死のうってかな。……どちらにしてもいけ好かない野郎だ」


「あの子、死神の娘だったんだね」


「ああ。青白く光る瞳はヒュプノス神とタナトス神しか遺伝しないからな。お前の姿を見られたのもその瞳の力の所為だろう」


 ヘカテはそう言い放つと術を使って姿を消した。




 魂の裁定を中断し、冥府の玉座に座し報告を聞いたハデスは眉間に皺を寄せ、手と唇を震わせた。裁定の補佐をするゼウスの三人の息子達が恐れた程だった。


「船長を含む船員達は他神族信仰者です。故に神族に出向き話をつけて参りました。『処分はそちらでするように』と申し出があったので私が始末しました」ハデスの玉座の前でヘカテが片膝を折っていた。彼女は三界に幅を利かせる程に力を有していた。私用では対等に話をするが、公の場では冥府の最高神であるハデスを立てた。


「……ニコラスの身柄は今何処に?」ハデスは声に怒気を孕ませた。


「エリニュス三女神に預けて居ります。ハデス様直々の裁定を」


「ああ。そのつもりだ。……ニコラスの娘のティ、ティ……ティコとやらは?」


「テーコで御座います、ハデス様。彼女はアスクレピオスの治療を受け、ペルセポネ妃の許に居ります。妃は子供が甚くお好きでいらっしゃいます故に『是非世話をしたい』と申し出て下さいました」


 ハデスは小さな溜め息を吐いた。ペルセポネに任せるなら安心だ。……しかし第二の証である右腕の爛れが出ていなくてもティコは死神の子だ。いつかペルセポネから離し、任に就けなくてはならない。他の死神が任に就いている以上、例外を作ってはならない。子別れする際に一悶着ありそうで頭が痛い。


「……分かった。ご苦労だった」ハデスは怒りを抑えつつ忠臣であるヘカテに言い放った。


 一礼したヘカテは術で姿を消した。


「……アイアコス、ミノス、ラダマンテュス。本日は閉廷だ。続きは明日、執り行なう。ご苦労だった。退がる序でにエリニュス達を呼んでくれ。今からニコラスを裁く」


 一尾の魂を抱いた三人の補佐官は恭しく一礼すると姿を消した。


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