παρελθόν 3(8)

 私の所為で散々な食事になっちまったな。


 ベッドに横たわったティコは眉を下げて眠るマークの柔らかな髪を撫でた。苦悩したように瞳を閉じる彼の頬には涙の跡がこびり付いていた。


 可哀想な想いをさせちまった。


 夕方、主食堂でティコとマークが食事を摂っていると、男装をしたティコの背に向かって『オトコオンナが来る場所じゃない。出て行け』と悪態を吐く男が居た。身分や服装で貴族として詐称してもこの手の事はよく起こる。慣れた事なのでティコは無視した。しかし男は挑発を続ける。


 周囲のテーブルの夫妻や紳士達は騒ぎに眉を顰める。


 和やかな雰囲気をぶち壊してまで食堂に居たくない。溜め息を吐いたティコはマークを促し、席を立った。


 しかし終始無言だったマークは、食堂を後にするティコとは反対に男に立ち向かう。そして男の向こう脛に一発蹴りを入れた。


「ティコはティコだ!」


 マークの怒声にティコは振り返る。息を荒げ涙を頬に伝わらせるマークと、赤い絨毯にひっくり返った男を目の当たりにする。


「何やってんだい!」


 ティコはマークに駆け寄った。『ティコに謝れ! ティコが何をしたって言うんだ!』と叫ぶマークを見遣り、眉を下げた。




 アクシデントを想い出し長い溜め息を吐くと、ベッドを軋ませ、ティコはマークを抱きしめた。


 守ってくれようとしたんだね。


 ティコはマークを見下ろした。この世の苦しみを一身に背負ったような顔で眠っている。


 子鹿のような少年なのに大の男に立ち向かって行った。決して賢明な判断とは言い難いが、気持ちが嬉しかった。こんななりをしてるから何処に行っても爪弾きにされてきた。しかし初めて『女』でも『男』でもなく、私を『私』として扱ってくれる者が現れたんだな。


 胸の奥が甘く疼いた。


 マークの柔らかな髪にティコが顔を埋めると、マークの瞼が上がった。


「……ティ、コ?」彼は寝惚けた声で問う。


「起こしちまったね。すまない」


 マークは暫くされるがままになっていたが徐に身を起こす。


「……怒らないの?」


「どうして?」


 ティコは枕許のライトを点けた。マークのターコイズブルーの瞳が潤んでいた。


「……だって……僕、お行儀悪くて失礼な事をしたんだ。ティコにも食堂に居た人達にも迷惑掛けた」マークは洟を啜った。


 小さな溜め息を吐いたティコは、マークの頬を伝う涙を指で拭う。


「迷惑だなんて想ってないよ。マークはマークの正義を貫いただけだ。……ちょっと不味いやり方だったけどね」


 マークは俯いた。


 ティコは微笑む。


「……嬉しかったよ。私を守ってくれる人が現れて。今まで自分の身は自分で守ってきたし、教え子の安全まで確保しなきゃならなかったからね。まさかマークに守られるなんて想ってもみなかったよ」


「……ティコを守れなかった。迷惑掛けた」


「そんな事ないよ。確かにあの場であの対応はスマートじゃなかった。だけど絨毯に尻をついたおっさんを見下ろす周囲の目を見たかい? アレは軽蔑の目だよ。あんな目を向けられたら先ず船室から出られなくなるね。マークはおっさんに勝ったんだよ。私を守ってくれたんだ……ありがとう」


 ティコはマークを抱きしめた。


「……ティコはティコだ。……ティコは僕を守ってくれた。大切なルビーを手放してまで守ってくれた。これからは僕がティコを守る」豊かな胸に押し付けられたマークは声をくぐもらせた。するとはだけたシャツからティコの豊かな胸が覗いた。胸には噛まれたような古傷が刻まれていた。


 胸の傷を見つめるマークにティコは気付く。


「……そんなに気になるかい?」


 マークはこっくりと頷いた。


「マークになら……見せても良いよ」


 ティコは瞳を伏せるとシャツを脱いだ。豊かな胸が露わになる。夜目にも白く映る肌理の細かい肌には歯形が刻まれている。


「……大昔、心ない男達に噛まれたんだ」


「僕がその場に居たら……ティコを守ったのに」眉を下げたマークは洟を啜った。


「……もっと早くマークに出会っていたのなら違う人生を歩んでいたかもしれないね」


 ティコはマークの頭を撫でた。


 マークはティコの手を避けると彼女の胸の傷に触れ、優しく撫でた。


「僕のティコ……。僕に……守らせて」


 ティコはマークを見下ろした。マークはティコを見上げる。


「ティコが傷つけられると胸が苦しくなるんだ。見てられないんだ。強くて、優しくて、綺麗で、女神様みたいなティコが寂しそうに笑うと悲しくなるんだ。胸にも大きな傷があるのに心まで傷だらけで……見ていられないんだ。僕……ティコを守りたい。ううん、守らなきゃいけないんだ」


 傷痕を撫でつつマークは洟を啜る。


「僕……マンマが死んでからマリアの世話になってたんだ」


「マリア?」


「スカートを穿いたにーちゃん。ティコの恰好の逆。女の人みたいに喋るんだけど声は男なんだ」マークは顔を上げた。


 ティコはマークを見つめた。どうやら彼は心が女で体が男の人間に世話になっていたようだ。


 マークは言葉を紡ぐ。


「マリアはとても優しかった。パパの友達だって言ってた。占い師の仕事をしながら映画の仕事をしてるんだって。女優にお化粧してるって言ってた。……一度こっそり楽屋を覗かせて貰ったんだ。女優がマリアの手でとても綺麗になった。マリアの仕事は凄いなって想った。神様みたいだ」


「そうかい。マリアは素敵な人だったんだね」ティコは微笑んだ。


「うん。僕はマリアが大好きだった。優しくて明るくて面白いにーちゃんだった……だからマリアを苛める人は許せなかった。『触るな』とか『気持ち悪い。あっち行け』って蹴ったり殴ったりするんだ」マークは眉を顰めた。


 ティコはマークの頬を撫でた。


「マリアは……酷い事をされても文句を言わない。じっと耐えるんだ。でも帰るといつもキッチンの隅に座って泣いてた。僕がマリアの隣に座るとマリアは泣き止むんだ。僕を抱きしめて必ずこう言った。『優しい子。側に居てくれてありがとう。マークが側に居るからもう大丈夫』って。……でもマリアの顔はとても悲しそうだった」


 マークは頬に涙を伝わらせる。


「優しくったってマリアを苛める奴に勝てなきゃ意味が無いんだ。マリアを守りたい。僕はそう言った。……でもマリアは首を横に振った。『そんな事したらウチ、マークに惚れちゃうでしょ? この前マークを占ったの。マークを必要としてる女神様が居るから、女神様を守ってあげてって』」


 ティコはマークの涙を指で拭った。


「……辛い事もあったけどマリアと暮らすのは楽しかった。マリアにカード占いして貰ったり、料理を手伝ったり……。でもマリアは仕事で西に行く事になった。本格的に映画の仕事をするんだ。お抱えの化粧師になったんだ。とても嬉しそうだった。でも僕と離れる事になって……マリアを泣かせちゃった」


 ティコはマークの頭を撫でた。


「お別れの日にマリアにカード占いをして貰ったんだ。そしたら『旅先で女神様に会うわ。ちゃんと守って上げなさい。女神様は誰よりもマークを必要としてる。運命はあなたの手の中にあるわ』って言われた。……チケットを盗られて困っていた僕をティコは助けてくれた。女神様だと想った。女神様を守らなきゃならないのは僕なのに……」


 ターコイズブルーの瞳を潤ませたマークは洟を啜った。


 ティコは悲しそうに微笑んだ。マリアは確かに良い奴だったのだろう。良い人間に面倒を見て貰い、美しい物を与えられてきたから素直な心優しい子に育ったのだろう。


 ティコは彼の瞳を見つめた。


 綺麗だな。尊い目をしてる。ノエルやイポリトよりも綺麗な目だな。


 ティコは瞳を細めた。


 心の奥底で泉が湧き出るようにあたたかいものがじんわりと広がる。愛の衝動を覚えた。


 こんな優しくて強い男とずっと共に居られたらどんなに幸福だろうか。隣に居てくれる者をどれほど心待ちにしていただろうか。……しかし運命って奴は残酷だ。いつも遠くで小さな幸せをちらつかせて私を駆け寄らせては全てを毟り取っていくんだ。家族も、恋心も、居場所も、ほんの小さな幸福でさえ……みんなみんな毟り取っていくんだ。それでも尚、独り生きなければならない。残酷だ。いつか私はガラスのように砕けてしまうだろう。


 だけどマリアとやらが占った通り、私がマークと出会う運命だったのなら……。


 だったら束の間でも心を通わせたい。


 小さな溜め息を吐いたティコは傷跡を撫でるマークの手に包帯を巻いた手を重ねる。


「……昨日、この傷について聞いたね。他者に聞かせる話じゃないと想ってたけど……マークになら話したい。聞いてくれるかい?」


 マークはこっくりと頷く。


「……僕が聞いていいの?」


「私はマークが好きなんだ。だからマークに私を知って欲しい。その上で私を愛せるかどうか判断して欲しい」


「うん。でも僕はティコが大好きだよ。きっとどんな話を聞いてもこれだけは変わらないと想う」


「そうだと嬉しいんだけれども……」


 ティコは眉を下げた。大方、嫌われるだろう。それはそれで諦めがつくかもしれない。


「僕は何があってもティコが大好きだよ。心配しないで。怖がらないで。話を聞かせて? 僕のティコ」


 マークはティコの額に額を寄せた。面映くなったティコは瞳を閉じる。


 信じたい。愛されていると信じたい。


 ぽつりぽつり、とティコは遥か昔の話を紡いだ。

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