朝の窓辺に訪れた赤い鳥の鳴き声でティコは目醒めた。


 頭に響く。喉が焼け付くようだ。それに……腹の中が冥府の刑場のように煮え滾っている。


 鈍い痛みを走らせる重い頭を起こすと、ベッドサイドの椅子に凭れて眠るマルチェロが見えた。ビーチガウンを着た彼の側のパーテーションには濡れたジャケットとシャツが掛かってる。


 水滴を床に滴らせるジャケットを見つめたティコは昨晩の出来事を想い出した。ヤケ酒をした後にジムで汗を流し、鍵を掛け忘れて部屋でビールを飲んだ。普段ならセーブするがあの時ばかりは向かっ腹立っていて止められなかった。そのまま眠ったつもりだったが、どうやら急性アルコール中毒を起こしていたらしい。部屋を訪れたマルチェロが介抱してくれたが、彼の高価なスーツに吐瀉物をぶちまけてしまった。


 ティコはマルチェロの苦悩したような寝顔を見つめて頬を掻き、彼の心遣いを想い出す。


 吐瀉物まみれになっても文句一つも言わないマルチェロはティコを起こした。そしてベッドで唸るティコに幾度となく水を飲ませ、嫌がる彼女をバスルームまで引きずって行った。ティコがバスルームから出るのをマルチェロは辛抱強く待った。しかし一向に出て来ない。案じた彼はドアを開けた。ショーツを下げてトイレに座し眠るティコの頬を打って起こすと、排尿の音がするまで監視した。幾度となくベッドとバスルームを往復し、ベッドでは回復姿勢を取らせたり水を飲ませたりした。そのお蔭か回復が早かった。


 介抱してくれたのか……。


 マルチェロの頬に乾いてこびり付いた涙の跡を眺め、ティコは溜め息を吐いた。


 酷い言葉もゲロも浴びせちまったな。色気もへったくれもない小便垂れ流しの現場なんて見させちまった。……わざわざ様子を見に来なければ、知らずに放って置く事も出来ただろうに。


 守ってくれたんだ……私を。あの子みたいに守ってくれたんだ。


 ……こんなに誠実な男を私は傷つけていたんだね。


 ティコは瞳を伏せた。


 すると寝返りを打とうとしたマルチェロがバランスを崩した。床に突っ伏した彼は目醒めた。


「……おはよう」ティコは酒焼けした声で優しい声音を作ろうとした。しかし猫の舌のようにザラリとした声しか出せない。


 マルチェロは体を起こす。


「……具合は?」


「頭が痛いけど……お蔭さんで大分良くなったよ」


 良かった、と呟くとマルチェロは立ち上がった。


「マルチェロ、あのさ……」


 マルチェロは背を向け片手を挙げるとバスローブを脱ぐ。そしてジャケットとシャツを掴み、覚束ない足取りで部屋を出て行った。


 ティコは唇を噛み締めた。


 謝らせても、お礼を言わせてもくれないのか。


 体が熱を孕み乾き切っている筈なのに涙が頬を伝った。


 長い溜め息を吐き、項垂れた。止めどなく涙が流れる。泣くなんて何年振りだろう。


 ひとしきり泣いたティコは喉の渇きを覚えたのでベッドサイドのスツールに置いてあるペットボトルに手を伸ばした。すると見慣れない本が二冊置いてあるのに気付いた。二冊の本を手に取るとバランスが悪い。本と本の間に何か挟まっているようだ。


 ティコはそれを取り出すと眼を見開いた。


 本の間に挟まっていたのはフォトフレームだった。白い木枠に貝殻やシーグラス、白い砂がボンドで接着されている。愛らしいフレームには先日、カップルに撮って貰ったツーショットが納められていた。写真の中では苦り切った表情のティコの肩を抱いたマルチェロが満面の笑みを浮かべている。


 ……写真なんて想い出に残るものは沢山だって言ったのに。




 夕方にはティコは外に出歩けるまでに回復した。本を返そうとマルチェロを探す。プライベートビーチやプールサイド、クラフトショップ、コンビニ、本館のライブラリーまで足を運んだが彼は居なかった。


 まだ眠っているのだろうか。


 歩き疲れたティコは胸に抱えた二冊の本を抱きしめ、本館のロビーのソファに座していた。


 もう夕方だ。寝ていたとしたらそろそろ起きている筈だ。謝らなければならない。あんな目に遭わせたのは取り返しがつかない事だと充分理解している。マルチェロが誠意を見せてくれた以上、嫌われていても謝らなければならない。許して貰おうなんて想ってはいけない。


 ソファの隣では大きな鳥籠の中で赤い小鳥が暴れている。出せ、と言わんばかりに籠に足を掛けたり跳躍したり忙しない。一羽で寂しいのだろう。


 ……誰だって独りぽっちは寂しいよな。私はずっと独りぽっちだ。


 諦めたように微笑んだティコはアネックスへ戻り、マルチェロが滞在するゲストルームへ向かった。


 木製のドアの前に佇み、五度目の溜め息を漏らしたティコは唇を引き結ぶとノックする。しかし三十秒程待っても足音もしないし人の気配もなかった。駄目押しでもう一度ノックする。するとベッドのスプリングが軋んで人が立ち上がった音がした。寝ていたのか。起こしてしまった。


 ティコが俯いているとドアが解錠される。チェーンが掛けられていたのでドアは少しだけ開いた。華奢なリムの眼鏡をかけ、頬を染めたマルチェロが顔を覗かせる。


「なんだ……テーちゃんか」マルチェロは目を細めた。少し息が上がっていた。


「あ……あのさ」ティコは腕に抱えていた本を差し出した。


 それを見遣ったマルチェロは『ちょっと待ってて』と言うとドアを閉めた。


 眉を下げたティコは思案しつつマルチェロを待つ。頬が赤かった。息も上がっていた。熱があるのだろうか。無理もない。一晩中介抱してくれたのだから。それなのに休んでいる所を起こしてしまった。最低だ……私って。


 ティコが唇を噛み締めているとドアが開いた。


「どうぞ。うっちゃらかってるけど入って」気怠げなマルチェロは微笑んだ。


 ティコは促されるまま部屋に入った。ティコの部屋とは違う、嗅ぎ慣れない匂いがした。大窓から風が通り抜ける。


 ベッドに座したマルチェロはティコに椅子を勧めた。


「いいよ……。本を返したら直ぐに帰るつもりだったんだ」ティコは自分を見つめるマルチェロから視線を外した。


「昨日の朝以来だね。テーちゃんと話すの。今晩は何を食べに行く? お酒は当分ダメだよ」


 嫌われたとばかり想っていたティコは目を見開き、彼を見つめた。


「具合好さそうで安心した。折角だから座ってよ」マルチェロは微笑んだ。


 ティコが座すとマルチェロは立ち上がる。


「お客さんにはコーヒー淹れないとね」


「いいって。直ぐに帰るから」


「俺はテーちゃんと話したい。……刺激物が美味しいと想える程にはまだ回復してないか。じゃあジュースがいいかな」


 マルチェロはミニバーからグアバジュースを取り出すとグラスに注ぎ、ティコに差し出した。


「あ……りがと」受取ったティコは俯いた。


 グラスに唇を付けたマルチェロは微笑んだ。


 眉を下げたティコは本を差し出す。


「これ……部屋に置きっぱなしだったから返しに来たんだ」


 マルチェロは暫く本を見つめるとティコの顔を覗いた。


「本に挟まってたもの……受取ってくれた?」


「あ、ああ」ティコは視線を逸らす。


「プレゼントなんだ。本当は食事の時渡そうと想ったんだけど……。昨日、クラフトショップで作ったんだ。俺、あの手の細かい事は苦手だから、旅行者のお嬢さんに手伝って貰ったんだ。とても器用なお嬢さんだった。首都でガラスのアクセサリーを作ってるんだって。だから俺一人で作ったって訳じゃないんだけど……貰ってくれると嬉しい」


 ティコは瞳を伏せた。


「テーちゃんは『写真なんて想い出に残るものは沢山だ』って言ってた。だけど俺との写真一枚くらい残して欲しいなって想ってさ。……恋人じゃなくても写真くらい撮るだろ? もう二度と会わないとしても『こんな馬鹿がいたな』って笑って欲しいんだ。時々想い出して……笑ってくれれば俺は嬉しい。テーちゃんに笑って欲しいんだ」


 マルチェロはティコを見つめた。


 ティコは顔を上げる。


「……ありがとう。大切にするよ」


「良かった」マルチェロは微笑んだ。


 視線を逸らしたティコはもぞもぞと口を動かしていたが意を決して言葉を紡ぐ。


「……あのさ……介抱してくれてありがとう。……あと、スーツ汚しちまってごめん。大切な物だろうに……」


「大丈夫だよ。クリーニングに出すから」


「クリーニングに出してもあの手の汚れは無理だろう? 弁償させてくれよ」ティコは眉を下げた。


「ヤだなぁ。あんなの幾らでも買えるからいいよ」


「幾らでも、なんて無理があるだろ。服に詳しくない私でも量販店で買えない代物だってくらい分かってるよ。虎の子くらいあるよ。弁償させてくれ」ティコは頭を下げた。


 眉を下げたマルチェロは頬を掻き、思案する。


「……何かしないとテーちゃんの気が収まらない?」


「ああ」


 小さな溜め息を吐いたマルチェロはグラスに唇を付ける。


「……自慢じゃないけどさ、職業柄、お金に困るモンでもないんだ。だから支払うなんて言われたら困るんだ。怒ってないし、あのビーチスーツは充分着たから本当にいいんだ」


 それでもティコは頭を上げない。マルチェロは苦笑する。


「本当に頑固だなぁテーちゃんは。じゃあまた滞在中はデート付き合ってよ。男と女としてじゃなくて良いんだ。気軽に……友達として過ごそうよ。俺、テーちゃんと一緒に居られるだけで楽しいんだ」


 ティコは頭を上げる。


「……そんな事でいいのか?」


「俺にはそれが一番大切な事なんだ」マルチェロは微笑んだ。


「わ……分かった」


 マルチェロは小指を差し出した。


「な、何のつもりだ?」ティコは問う。


「約束。指切りしよう」


「お前さんは子供か」


 不承不承ティコは小指を差し出すとマルチェロの指に絡めた。マルチェロは手を揺さぶり楽しそうに指切りをすると手を離した。


「嘘吐いたら俺のお嫁さんになってね」マルチェロは悪戯っぽく笑った。


「阿呆か」ティコは鼻を鳴らした。


 ティコと仲直り出来て満足げに微笑んだマルチェロは天井に向かって伸びをした。ティコはそれを見つめる。まだマルチェロの顔が上気してる。


 ティコの視線に気付いたマルチェロは問う。


「どうしたんだい? 何か顔に付いてる?」


「顔が赤い。熱があるのかと想って……」


「大丈夫だよ。大した事じゃない」


「大した事じゃないって……熱があるんだね?」ティコは眉を顰めた。


「あるっちゃあるけど直ぐに引く熱だから大丈夫だ。……それより夕食の時間まで一人になってもいいかな?」


 ティコは首を横に振る。


「介抱して貰ったんだ。借りは返すよ。看病してやる。さ、寝た寝た!」


 ティコはマルチェロを無理矢理ベッドに押し倒す。彼女の細い首に巻かれたチョーカーの赤いガラスがちりりと揺れる。マルチェロは頬を更に上気させた。自分に覆い被さったティコと視線が合うと、彼は顔を逸らした。


 他意はなかったが、己の蛮行に気付いたティコは頬を染める。


「氷……氷嚢貰って来る」


 ティコは体をずらし、起き上がる。するとマルチェロの股間が眼に入った。膨らんでいた。


「……ドスケベ」ティコは舌打ちした。


 マルチェロは両手で顔を覆う。


「……だから一人にしてって言ったのに」


「熱があるって嘘吐いたんだね?」ティコは彼の手を払い除ける。


 ターコイズブルーの瞳を潤ませ頬を上気させたマルチェロは洟を啜る。


「熱があるのは本当だって。ただそれが下肢に集中してるだけで……さっき想い出して……その、介抱していた時に見えたテーちゃんの……おっぱいや下の茂みを……その……」


「息子を熱り立たせてマス掻いて頬を染めてたってのか」


 マルチェロは両手で顔を覆った。


「最低だな」ティコは苦笑した。

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