37話【戻】

「先生急患!!」


灯の声が医務室に響く。千尋は山崎を拘束し、灯は雅に肩を貸し、黒宮は転移の負荷に耐えられなかったのか気絶しているという妙な状態で現れた字持ち達に、医務室の主―芥川言外あくたがわげんがいは面食らった。


「うわあ。…急患?」

「雅ちゃんと黒宮が、嵐にやられて怪我してるんです!」

「…っと、確かに酷い怪我だ。重症の黒宮くんから先に運ぼう。そっとだよ」

「気絶した人間って本当に重たいんだよな…」


意識のある雅は、今にも突き刺してしまいそうな程鋭い目つきで山崎を睨んで言った。


「山崎さん、分かってると思うけど」

「今更逃げたりしねぇよ」


山崎は肩を竦め部屋の隅に置かれたパイプ椅子に腰掛けた。

その前を通って、千尋と芥川が黒宮をベッドへ運ぶ。未だに出血の止まらない腕がシーツに赤い染みを作っていった。

灯と雅が青白い顔をして横たわる黒宮を不安げに見つめていた。その様子を横目で見たかと思うと、芥川は医務室に置かれた固定電話に手を伸ばした。


「あ、もしもし芥川です。はい、因幡班の子達戻って来たんですけど、怪我してるので先に医務室で処置に入ります。あと、出来ればこちらに来てもらいたいんですが…早急に」


電話を切って一息もつかぬ内に、因幡は医務室にやってきた。―ここはNOAHの中である為字は使って問題無いのだが、血相を変えて入って来た因幡を見るに、他の局員達は何事かと思っただろう。


「芥川!私の班員は無事か…そのは?」


因幡の問いに、千尋が答える。


「山崎紫乃、槍ヶ崎の字持ちだよ。こいつも嵐なんだってよ」

「おい、勝手にバラすんじゃねぇ」

「嵐―そうか…聞きたいことが山ほどあるんだ。しばらく聴取に付き合ってもらうから、そのつもりでいてくれ。桐生、彼女を連れて行く。同行頼めるか」

「おう。…あ、お前舌に痣あったのか。―へぇ、【すな】ね」


千尋が山崎の顔を覗き込みそう言うと、山崎は一層不機嫌そうな表情を浮かべた。


「見るな!」

「今黙ってたってどうせ後で聴取受けるんだから諦めろ」

「フン。何を聞かれたってあたしは答えない」


強気な態度を崩さない山崎に対し、これから彼女の身に起こる事が既に予想出来ている千尋は、思わず憐憫めいた視線を向けた。


「……そうか」

「ちょっ…何哀れみの目で見てんだよ!」

「はい、医務室では静かに」


芥川に咎められ、一応人並みの常識は身に付いているのか山崎は素直に口を閉じた。

医務室のドアに手を掛けた千尋が振り返る。


「んじゃお先に」

「芥川、は頼んだぞ」

「任せてください」

「全身の切創と軽い打撲…それと腕の刺創―これが一番深いな…出血も多いし」

「黒宮さんは……大丈夫なんですか」


雅が不安そうに問い掛ける。それには答えず、芥川はゆっくりと瞬きを繰り返した。


「うーん…これ、別に内緒な訳じゃないから言っちゃうけど、僕も字持ちなんだよね」


脈絡の無い言葉に雅は戸惑う。


「はぁ。―え…もしかして先生…」


雅が何かに気付いた。医務室にはさほど医療器具も揃っておらず、にもかかわらず芥川は特に焦る様子も無い。その理由は大方一つに絞られるだろう。なのだ。

雅の表情に、芥川は頷く。そして、黒宮の腕に触れると、目を閉じた。


「傷が多い時は特別。…【れい】」


抽象的とも具体的とも取れる表現だが、この時雅と灯は芥川から梅の花のような香りがした様に感じた。

その香りが段々と弱まると、黒宮の身体中に刻まれた傷が跡形も無く消えていた。思わず二人はわっと声を上げ、ベッドへ駆け寄る。


「…ん……ここは―NOAHか……」


気が付いた黒宮は隻眼を二、三度瞬かせ、呟いた。自分の傷の事も忘れ雅は黒宮の手を取った。


「黒宮さん!良かった…」

「ああ…悪いな、心配かけて。…山崎は?」


黒宮は起き上がると自身の左腕に刻まれた【影】の字に手をやった。遠藤に傷を負わされた左腕を睨みつける。傷跡は無い―それでも、黒宮の心には彼女を取り逃した悔しさが消えず残っていた。


「さっき、因幡さんと千尋くんが連れて行ったよ」


灯がそう答えると、黒宮はほっとしたのか少しだけ表情を緩めて芥川の方を向いた。


「そか。先生、字使ってくれたんだろ?わざわざサンキュな」

「ううん、若い字持ちが減るのは悲しいからね。…でも、これに頼って無茶な真似は頼むからしないでくれよ」


そう言った芥川の表情はどこか悲しげで、雅は何となく目を逸らせなかった。それは灯も同じだったらしく、雅と同じように芥川の目を物言わず見つめている。


「分かってるよ。なあ、連続で悪いけど、森山の方もやってくれねーか?」


黒宮が不意に雅を指した。芥川がそれを追って雅の方を向くと、視線が合ってしまい雅は言葉を詰まらせた。


「え、あ…私は…その…」

「うーん…彼女の方は傷自体は浅いからなぁ」


白々しい気もするが、芥川なりに雅があの日漏らした秘密を誤魔化してくれたのだろう。

その言葉に重ねて治療を断ろうをすると、黒宮は雅の切れた頬にそっと手を添えた。


「女の子の顔に傷が残ったら可哀想だろ。そんなんじゃ、文化祭も楽しめねーしな」

「黒宮ってそんなキザだったっけ」


そう言って雅の肩を抱き引き離すと、灯は黒宮を不愉快そうに見た。


「うるせーよ」


一方雅はまた言葉に詰まっていた。黒宮は、雅が文化祭のコンテストに出場する事を気遣ってくれたのだ。

心做しか顔が熱い気がする。このまま傷という傷から血を吹き出してしまうのではないかとさえ思った。

固まっている雅の方に向き直った芥川は、雅の手を取ると穏やかに微笑んだ。その目を見るとまた彼から梅の花のような香りが漂ってきた。

先程より近い分、より強くその香りを感じる。不思議と不快には思わなかった。


「はは、そういう事なら構わないさ」


互いを包む爽やかな香りを感じる度に、身体中にある傷が癒えていく。そこには痛みも違和感も無い。不思議な感覚だった。


「―ほら、終わったよ」

「ありがとうございます。すごい…こんな字もあるんですね」

「―ふう。感動されると照れちゃうね。…でも、持ってる命はひとつだよ。大事にしてね」

「はい」


言い含めるようなゆっくりとした口調とその言葉は、以前は千尋に掛けられたものだ。

それを今自分が言われているという事は、自分も相応に無茶を働いたのだと雅はようやく気付いた。だが、それでも撤退を考えなかった事を後悔はしていない。

山崎という嵐への手掛かりを掴む事が出来たのだ。これがNOAHへの貢献になるならば、あの痛みも喉元を過ぎたと思える。


「因幡さん達、もう会議室行ってるかな」

「どうかな。あのじゃじゃ馬が大人しくしてるとは思えねーし」

「いやー大丈夫でしょ」


灯の言葉に雅も同意する。

山崎の字、【砂】の発動条件トリガーである砂は恐らくNOAHには無い。それにあの二人に抵抗する程彼女は愚かでもないだろう。


「もう、元気になったんだから早く行きなさい。床とかベッドとか、綺麗にしなきゃなんないんだから」


そう言って芥川は雅達に退室を促した。

不満げに黒宮が口を尖らせる。


「数分前まで怪我人だったッつーの」

「行こ、雅ちゃん」

「あ、うん」


灯が雅の手を引く。灯と千尋には怪我が無くて本当に良かったと、柔らかな手の感触に安心を覚えた。

置いてけぼりを食らった黒宮も渋々立ち上がり、二人の背中に話しかける。


「功労者に冷てーな、お前ら」

「黒宮さん」


二人が振り返る。長い髪がドレスのように揺れた。


「…ん?」

「今回、任務が達成出来たのは黒宮さんのおかげです。私も、もっと強くなりますね」

「雅ちゃんの事守ってくれてありがとう、黒宮!アタシもかっこいいところ雅ちゃんに見せなきゃね」


どく、と心臓が鳴いた。

見た目はただの少女であるのに、彼女達は守られる存在であろうとしない。

その凛々しさは時に黒宮を不安にさせる。

このが消えてしまうことが、じぶんには堪らなく恐ろしいのだ。

眼帯に触れた後、黒宮は隠された右目に全てを押し込んで笑った。


「…へっ。おだてても何もでねーよ」

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