33話【芽】

あの一件以来、千尋は一段と雰囲気が変わったように思える。雅が見た限りでは、今まで彼は自分達以外とはあまり好んで交流していなかった筈だが、ここ数日はクラスメイトと談笑している姿がよく目に映る。

元はあまり表情豊かではなかった千尋の瞳は、いつも自分とどこか似た何かを抱えていた様に思えたのに、今はそんな淀みは消え去っている。字持ちが社会に馴染んでいく光景は喜ばしい事であるのに、その事実に雅は肺を掴まれたような感覚になった。

教室棟から離れた階段の手すりに凭れ、一人物思いに耽る。


(置いて行かないで―なんてね)


あの日の落涙は嘘では無かった。だがあれは自分の為の涙ではないのだ。では、ないのだ。雅も力強く、「そこに居てもいい」と言って貰える存在が欲しいと、いつの間にか雅の心に住んだ千尋に訴えてみる。―が、その千尋は既に光の方へ消えてしまった。

不意に手を伸ばして、空を切った手につられ、雅は足を滑らせた。

しまった―咄嗟に【音】の字で自分を浮かせようとするが、その前に自分を引っ張ろうとする人間が現れた。鴇色の髪がふわりと視界に飛び込む。


「森山さん!」

「っ、平塚さ…」


自分の重さで束まで巻き込んでしまうのではないかと雅は働かない頭で考える。予想に反し、束は雅の腕を掴むとそのままぐっと引き上げた。

踊り場に二人、尻もちをついて息を切らす。


「森山さん…はぁ…こんな所で、危ないじゃないですか…っ」

「ありがとう…助かったよ…でも、平塚さんまで落ちちゃったら嫌だよ。私は何かあったら字で何とかするし」


事実、束があと数秒遅れてやって来ていれば今頃は字で階段の上に浮いていた。―校則として校内での字の行使は認められていない為、人に見つかればそれなりにお叱りは受けるのだが。


「もう…そうやってすぐ字に頼るの良くないですよ」


頬を膨らませてみせるその仕草にはあざとささえ感じさせない程の可憐さがある。


「私は一般人達に言いたいなぁ、都合よく字持ちに頼るの良くないですよって」

「今度はすぐ誤魔化す」


すぐに言葉遊びに転じるのは雅の悪い癖だが、日頃優等生気質で冗談を言わない雅の中では数少ないユーモアである為、本人も直す気は無い。雅は笑って誤魔化した。


「あはは…平塚さん、なんでこんな所に?」

「野暮用です」

「ふうん」


聞き流して立ち上がろうとすると、雅の手を束ががっちりと掴んだ。その勢いに膝を折られながらも束の方を向くと、その瞳は爛々と輝いていた。


「それより、森山さん!コンテスト、参加して下さるんですね!」


気圧されながらも頷く。早まったかも知れない、と心の隅で思ったが引き受けた以上今更無かったことには出来まいと腹を括ることにした。


「ま、またキャラがおかし…あ、うん、出るよ。平塚さんの頼みだったら断れないし」

「ありがとうございます。全力でお手伝いしますね!」


―やっぱり少し、早まっただろうか。


「あ、そうだ、森山さん連絡先教えてください!」

「ん?いいよ」


束に合わせて携帯端末を取り出し、お互いの連絡先を交換した。束のアイコンには所謂自撮りという奴ではなく、水仙の花が凛と咲く写真が使われていた。


「じゃあ、近いうちに作戦会議しましょう!森山さん、また!」

「う、うん…」


台風の様なこの数分間。雅は散らばった思考をまとめる気にもならず、消化不良のまま、教室棟へ戻る事にした。

雅達3年生のいる教室棟一階に戻ると、休み時間の喧騒がまた耳を撫でた。ふと、後ろから追いかけてくる足音に気付き振り返ると、話した事の無い男子生徒が何かを手に話し掛けようとしていた。先回って声を掛けてみる。


「どうしたの?」

「あっ、あの…これ、落としまし…た」

「なに?…あ、これ」


手を出すと、男子生徒が恐る恐る何かを白い掌に乗せた。

虎模様の小さなそれは、千尋の家に落ちていた壊れた通信機であった。雅はNOAHにそれを預けるのをすっかり忘れていた。最近は任務が無いせいもあり、通信機の重要性が頭から抜け落ちていたのだ。


「ありがとう、私もすっかり忘れてたから、助かった」


ぎこちなく微笑むと、男子生徒は後ろでにやにやと(雅に対してではなく、男子生徒に対して)待ち構えるクラスメイトの元へ戻った。そのグループは声が大きく、話している内容が丸々聞こえてきた。


「な?普通だったろ?」

「やっぱ字持ちって別に俺らと変わんねぇんじゃね!」

「つか森山よく見たら結構可愛くね?」

「お前やめとけって!他の二人に睨まれるぞ」


少々気恥ずかしい内容も含まれてはいたが、概ね字持ちに対して好意的な声であった。雅はつい菖蒲色の髪を撫で、心持ち丁寧な歩き方で廊下を進んだ。

男子生徒のグループの一人、立花初弥たちばなはつやはそんな雅の後ろ姿を見て満足げに笑んだ。



*



放課後、灯と珍しく時間の合わなかった雅は彼女を待つ為に一人昇降口でぼうっと時間が経つのを待った。十分と少しの間そうしていただろうか。不意にやってきた足音と柑橘系の匂いにはっとしてそちらを向くと、見慣れた彼がそこに立っていた。髪色と対照的にきちんと着こなされた制服のシルエットが夕陽に当たり綺麗な影を描いていた。


「お前こんな所にいたのかよ。今日全然見ねぇからいねぇのかと思った」

「千尋くん…」

「…どうした?」


千尋の顔を見て、何故だか雅は泣きたくなった。それを堪えて、雅は千尋に訊ねた。


「ううん…あれからご家族とはどう?」

「…ああ、それな…クソ親父、世間から叩かれてるとか何とか騒いでた癖に、昨日仕事行く前、何つったと思う?」


嫌々といった表情を作っているものの、その口元は微かに笑みを帯びていた。


「…何て?」

「俺は自慢の息子だから、世間の声には負けない…ってさ。NOAHの事、会社で味方してくれるんだとさ」


照れ臭そうに、けれどとても嬉しそうに言う千尋に雅は思う。


(あ―千尋くんって…色んな顔をするんだな)


表情豊かではない、それはとんだ勘違いだったようだ。千尋はこんなにも自分の気持ちに素直だったのだ。気付いた途端、これまでより強く、もっと彼と話したいと思った。

と思った。


「母さんもさ、張り切って課題作り出して…」

「…もしかして、優秀な家庭教師ってお母さんのこと?」

「ああ、現役でな。あと最近動画投稿サイトで講義動画上げ…あ」


そこまで言って、千尋は気まずそうな顔をした。それを聞いた雅は千尋の顔をじっと見つめた。鼻筋とぱっちりとした二重に何処となく見覚えがあったのだ。


「…みゆきチャンネル?」


千尋が無言で頷いた。当たりらしい。


「あれ昨日から見始めたんだけどすごい分かりやすいよね。これからお世話になります」


やめろと言わんばかりに手を振る千尋をもっとからかってやりたいと思ったが、その後の彼の瞳を見て、言葉が雪の様に溶けてしまった。


「両親揃ってはじけすぎなんだよ…バカ親」


家族の事を幸せそうに話す千尋を見てまた雅は泣きそうになったが、夕陽が目に滲みただけだと言い聞かせた。―元気な足音が聞こえてきた。

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