32話【尋】

千尋が目を開けた。だが、これは夢であると同時に覚める事が出来ないのもどこかで分かっていた。追憶の時間はまだ続くのだろう、と遠ざかる出口げんじつを諦める。そしてふと、自分の右腕に視線をやった。


「【虎】は中途半端だよな…百獣の王でもなけりゃ、愛玩動物でもねぇ。けど―俺はどっちにもなりたくねぇ」


強ければ恐れられ、弱ければ侮られる。千尋にはその両方が怖い。強くありたいと吼えながら、すぐに敗れては地面を拝む自分はさぞや滑稽だろう。千尋は傍らにいる二人の影に問うた。


「なぁ、俺は…NOAHにいていいのか?」


答えは無い。


「はっ…だよな。強くもいられない、弱くもありたくない、我儘なクソガキを誰が肯定してくれんだよ」


NOAHは自分を受け入れてくれた。だが今度はその自分を受け入れる事が出来ない。


「けど、俺はどうしたらいいのか分かんねぇんだよ…俺のせいで家族は滅茶苦茶になった、字持ちは存在するだけで疎まれる。けど今のままじゃ…お前らを…仲間を守れない…」


千尋は尋ねた。


「俺の字は、誰の為にあるんだ…?」



*



この辺りでもそれなりに上等な一軒家。表札には確かに桐生と書かれている。雅は気後れしながらもインターホンを鳴らした。人の気配は確かにあるのだが、出てくる様子は全くない。


「…千尋くんの家なのは確かだと思うけど……留守なのかな?」


灯が言う。雅はそれを目を伏せて否定した。


「ううん。…千尋くんは居るよ……多分、あんまり良くない状況で」

「そっか…。雅ちゃんの…字持ちの勘、信じるよ、アタシ。入っちゃおっか、中」


灯は右掌を雅に見せた。それだけでもう何をするつもりなのかは想像がついた。


「少しだけ気が引けるけど、うん。入ろう」


灯は雅と手を繋いだ。特にこのような真似をしなくとも転移は可能なのだが、二人が千尋の家から漂う言いようのない不安感に充てられた為だ。


「じゃあ、行こうか」


千尋の家は外観に反して乱雑としていた。確かに庭の草木は手入れをされていたとは思えない状態であったが―雅は嫌な予感がした。


「わぁ、結構汚いね」


灯の素直な感想に返事も出来ないまま、雅が足元に目をやると、見覚えのある物が落ちていた。虎模様のあしらわれたそれは、色こそ違えど雅達にも馴染みのある通信機であった。


「これ…千尋くんの―踏みつけられたのかな、壊れてる…だから通信も繋がらなかったんだ…」

「…雅ちゃん、これ、見て…」


青い顔をして灯が何かを持ってきた。針が剥き出しになっている―つまり、使用済みの注射器が転がっていたらしい。この特殊な形状はNOAHでしか見た事が無い。中身も当然だろう。


「…因幡さんを呼んだ方がいいかも…」


雅が自身の通信機に手をやった時、こちらへ注がれた視線に気付いた。初老の男性が花瓶を手に叫ぶ。


「誰だッ!どうやって中に入った!」

「っ、千尋くんのお父さんですよね!」

「こっちに来るんじゃない!」


強盗か何かだと疑われているのだろうか。落ち着けようと慌てて雅は説明した。


「勝手にお邪魔してすみません!私達、千尋くんの同級生なんです!」

「千尋の…?…すまないが、千尋には会わせられない」


ここで少し冷静になった事と、千尋の名前に対する反応からして、彼は千尋の父親で間違いないだろう。

それにしても会わせられない、とはどういう事だ。おかしいとは思ったが、今彼を刺激してはまずいだろうと雅は慎重に言葉を選んで続けた。


「千尋くんとはNOAHでも一緒で、心配なのでせめて様子だけでも…」


そこまで言うと、男性は目の色を変えて持っていた花瓶をこちらへ向かって投げた。


「NOAHだと!?尚更千尋には会わせられない!」


花瓶は中の花と水を散らしながらまっすぐに飛んでくる。


「危ない!」


灯がすぐに雅を転移させ、千尋の父から距離を取る。直後灯は花瓶を手元に転移させると、再び危害を加えられないよう自身の近くに置いた。


「…どうして会えないんですか?何かまずい事情でも?」


人が変わったように千尋の父は怒鳴り散らす。


「お前達NOAHの連中が今みたいに大っぴらに字を使うせいで、私達家族は周りから疎まれているんだ!もう千尋はNOAHには行かせないし、字を使わせる事もない!」

「…な……」


先日のトンネル事故の報道がきっかけらしい。

二人は言葉を失って呆然と千尋の父を見つめた。


「千尋は普通の人間として生きていくんだ。その為に高校に通わせて、人並み以上に勉強もさせていたというのに…NOAHのせいで最近は成績も落ちて…」

「そんな…理由で…」


雅はぎり、と音がする程自身の手を強く握り締めた。同時に額の字が熱くなる。


「字と生きていくかどうかはその人次第で、それはあなたが決める事じゃない!例え親でも、千尋くんを縛るような真似は許さない!」


雅は字が意思とは無関係に開放された事に驚いたが、自分でも抑えが効かない。カタカタと、窓枠が揺れ出す。雅から発せられた振動が伝わったのか、テーブルに置かれた酒瓶が一際激しく揺れたかと思うと大きな音を立てて割れた。


「う…字持ちは力で訴えれば済むと思っているのか!やれるものならやってみろ!」

「っ、ぐ…」


その挑発的な物言いは更に雅の怒りを加速させる。雅は止め方の分からない衝動に頭がどうにかなりそうだった。そんな雅を灯が一生懸命宥める。


「雅ちゃん抑えて!」


自分の字をコントロール出来ないのは雅にとって初めてだった。衝動のままに、雅は壁を力一杯殴る。そこにはまるで紙でも突いたかのように容易く風穴が開き、じんと手の甲に伝わる痛みでようやく熱の引いた雅は必死に訴える。


「私達だって!!好きで字持ちになった訳じゃない!でも、これだけは選べないから!生き方くらい…自由にさせてよ…ッ!」

「雅ちゃん…。誰だって自分を好きになりたいのに、おじさんみたいに古い価値観の人間がそれを許さないから、だから雅ちゃんだって千尋くんだって、誰かの為に動きたいのに、足が竦んじゃうんだよ!」


その言葉に雅は驚いた。これを雅達が口に出した時、灯はその場に居なかったというのに、彼女は随分前から気付いていたらしい。


「字持ちの親の気持ちも知らずに…」

「分からず屋!雅ちゃん、行こう!」


灯は雅の手を取り、奥の階段を駆け上がった。ある一室の前に、学生鞄が落ちていた。ここが恐らく千尋の部屋だろう。蹴破るような勢いでドアを開けると、椅子に縛り付けられ項垂れる千尋がいた。


「千尋くん!」


雅が肩を揺さぶってみるが、小さく呻くばかりで目を覚ます様子はない。千尋の足元には注射器がもう一本落ちている。雅の背中に冷や汗が流れた。

因幡の言葉によれば、一本打つだけでも字持ちを眠らせる事が出来る代物だ。それを二本も使われたとなれば普通の人間として生きていくどころか目が覚めるかも分からない。


「千尋くん!」

「今因幡さん呼ぶね!…因幡さん、千尋くんが…!」


その間に雅は千尋を縛る縄を解こうとその場に屈む。結び目に指を通そうにも、固すぎて手が痛むばかりだ。


「雅ちゃん、因幡さんすぐ来てくれるって!アタシも手伝うよ!」

「縄、きっつい…全然解けない…!」


二人が悪戦苦闘していると、けたたましい足音が上ってきた。


「おい!千尋に触るな!」

「だから…千尋くんはあなたの物じゃない!」


雅は威嚇のつもりで震動波を放った。飾り気のない壁がミシミシと軋む。それでも怯まず千尋の父はこちらへ近付いてくる。


「千尋くん、ねぇ!起きて!」


強く肩を揺さぶるが千尋は項垂れたまま何も言わない。ゆらりと影が雅に重なると、千尋の父は雅を千尋から引き剥がそうとした。字は使わないよう必死に抑えながら雅が抵抗する。


「離してっ…!」


それを止めようと縋り付きながら灯が叫ぶ。


「おじさん、千尋くんに薬打ったんでしょ!?」

「千尋が大人しく言う事を聞かないからだ!NOAHが作る薬だ、どうせ鎮静剤か何かだろう?」

「アレはね!一本打つだけでもかなり危ない薬なんだよ!細胞の活性化を抑える為の薬を二本も使ったら…どうなっちゃうか、分かるでしょ?」


灯の言葉に千尋の父は狼狽え出した。ふらふらと千尋の前に膝を付くと、震える唇でその名前を呼んだ。


「…千尋……?」


不思議な事に、あれだけの騒ぎでも目を覚まさなかった千尋がその呼びかけでゆっくりとまぶたを開いた。


「…う、るせぇ…な、クソ親父……」


掠れた声で言う千尋の瞳は未だ虚ろだが、意識は確かに戻っているようだ。

千尋な父ははっとして千尋に縋り付いた。


「千尋!…すまない…すまない…ぅぅ…っ」

「だ…から、うるせぇっつー…の。おい、森山」

「だ…っ、大丈夫、千尋くん?」


雅が千尋の顔を覗き込むと、顔色こそ良くはないものの、意識もはっきりしてきているように見えた。


「それより、こいつさっさと解け…クソ親父は役に立たねぇ」


床に這いつくばり啜り泣く自分の父親を見て、千尋は吐き捨てるように言った。


「分かった…あの、字でスパッとやっちゃってもいい?」

「しくじるなよ…」

「そ、それは勿論」


千尋の許可は得られたので、雅は字で震動波を生み出し手首と腕の縄を断ち切った。自由になった両腕を伸ばし、千尋は固まった筋肉を解した。


「いっ…て…」

「立てる?」


灯が訊ねると千尋は黙って立ち上がった。少しふらついてはいるが、鎮静剤の成分は抜け始めているらしい。


「なぁ、クソ親父」

「うぅ…っ、ぅぅぅ…」

「聞けよ」


千尋は苛立たしげに父親の肩を掴んだ。無理矢理こちらを向かせると、千尋は話し出した。


「なぁ、俺小五の時から字持ちになって、色々あったけど…NOAHに入ってさ、今楽しいんだわ」

「字持ち…でも、か?」

「ああ。親父は字を使わない事が俺の幸せだと思ってるかもしんねぇけど、俺は字持ちになった以上、自分の為でもいい、誰かの為でもいい。―字と向き合って生きていきたいんだよ」


千尋の父は何も言わない。


「約束する。誰かを傷つけたり、泣かせる為に字を使ったりはしない。自分てめぇと、仲間と、家族を…守るためにこの力は使う」


そして千尋は尋ねた。不安げに、哀しげに。けれど強い意志を持って。


「だから、もう…自分を好きになってもいいだろ?」

「…ああ」

「世間に何か言われても、俺が守ってやるから。だから俺だけじゃねぇ…ここにいるこいつらも、NOAHの事も、認めてくれよ」


千尋の父はしっかりと頷き、そして千尋を抱き締めた。千尋は思う。―いつぶりだろうか、と。この腕が自分に触れたのは、あの時以来ではないだろうか。

一番受け入れて欲しかった人に届いた。その事実が胸に染み透った瞬間、千尋は込み上げる物を抑えられなかった。


「ッ…ぅ、わぁあ゙っ…あ゙ぁぁ…」


千尋は父親に縋り付き、小さな子供のように大きな声で泣く。こんなにも力一杯に感情を表す千尋を二人は初めて見た。決して恥ずかしい事ではない。むしろ祝福すべきことだとさえ思った。

気付けば雅も落涙していた。それを灯に悟られまいといつもの声色を装って言った。


「私達は先に出ようか」

「うん。因幡さんもそろそろ来そうだしね」


せっかくの親子水入らずだ。部外者は早々に立ち去るべきだろう。二人はそっと千尋の自宅を後にした。



*



「ごめんなさい…本当にごめんなさい…」


後日、鎮静剤の後遺症等もなく無事に登校してきた千尋に、開口一番雅は謝罪していた。理由は他でもない、あの事である。


「いいっつってんだろうが、しつけぇな」

「だって千尋くんのお家すごい立派だったし…壁にあんな大きな穴開けちゃって…お母さんもびっくりしてたでしょう…?」


怒りに任せ、桐生家の壁に風穴を作った事である。自然な流れで立ち去ってからその事を思い出し、雅は昨晩眠れなかった程気に病んでいた。対して千尋(とその家族)は二人のお陰で色々と吹っ切れたのだから感謝こそすれ弁償を求めたりはしないつもりであった。


「お陰でクソ親父の目も覚めたんだから気にすんな」

「念書取っていいから…」


未だ千尋のそばから離れず謝罪を繰り返す雅にいい加減うんざりとしている千尋は、机に広げられたノート類の見せつけるようにして言った。


「うるせぇな!次の期末で一教科でも評定下げたら活動自粛させられんだから邪魔すんな!」


NOAHの局員として、一人の字持ちとして。字を使っていく事は許されたが、それと学生の本分である学業は別であり、成績が著しく下がるようならNOAHでの活動は自粛させると言われたらしい。―言われてみれば、千尋の前回の順位は雅とそう差がなかった。

今までは恥ずかしかったのか堂々と勉強する姿など見せなかった千尋だが、今回の事でいっそ開き直ったのか、人前でも勉強をするようになっていた。―余談だが、千尋の成績の良さは学校にも貼り出されている以上折り紙付きで、時折クラスメイトが質問をしにくる姿も見える。


「ふふ、頑張ってね、35番の千尋くん」

「はぁ!?やっぱお前壁の修繕代弁償しろ!」


顔を真っ赤にした千尋が雅を掴まえようとするが、それをさらりと躱し、逃げるが勝ちだと雅は教室から出ていく。去り際に教室から微かな笑い声が聞こえてきたが、その心地よいこと。

良い風が自分達に吹いている。そんなふうに雅は感じた。

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