31話【憶】

いつからだろう、自分が嫌いになったのは。自分を認められなくなったのは。―分かっている。小学五年生の自分は何故、腕に痣が出来た事を両親に話してしまったんだろう。

だと言うのに。

どんなに蓋をして、見ないふりをしたくても、深い闇に沈められた自分の意識は真っ直ぐにその記憶誤ちを辿っていく。死にたくなる程、鮮明な記憶。


「父さん、母さん、何かおれ腕にアザできた」

ですって!?」


あの日、俺は何気なく両親にそう言った。瞬間、両親の―特に母親の顔が青ざめた事をよく覚えている。


「見せなさい、千尋!」


怒ったような顔で母さんは俺の腕を掴んだ。痛くて、痣が出来るほどだった。母さんは、俺の右腕に薄ら浮かび上がった【虎】の字を見た途端、父親に縋って泣き出した。訳が分からなくて、俺は父さんの方に近寄った。


「と、父さん…おれ何かしたの…?なんで母さん泣いて…」

「近付くんじゃない!!」


父さんは母さんを俺から庇って怒鳴った。

その後すぐにはっとして俺を抱き締めようとした。けど、きっと怖くて出来なかったんだと思う。その両腕が俺に触れる事は無かった。あの瞬間は、とにかく悲しかったような気がする。


「ご、ごめんな千尋…ごめんなぁ…」


床に蹲って泣く父さんと、顔を手で覆って声も無く泣いてる母さん。俺は何か悪い事をしたんだと思って、必死で謝りながら泣いた。


「とっ、父さん…母さん…ごめんなさい…ごめんなさい…っ」


きっと、その夜はずっとそうしてたと思う。その次の日の朝、母さんは俺の腕に包帯を何重にも巻いて言った。


「この痣のことはね、誰にも言っちゃ駄目よ。それと、明日からはずっと長袖を着なさい」


何て答えたらいいか分からなくて、俺はただうんと頷いた。それからの数日間は、本当に毎日長袖を着て、痣の事は誰にも言わずに過ごした。

―そして、あの日がやって来た。

あの時は算数の授業だった。分数の問題を解いている時、前の席に座ってた奴が俺の方を向いた。それに気付いて俺がそいつの方を見るとあいつはにやっと笑って言った。


「お前、なんで最近ずっと長袖着てんの?」

「…別に」

「お前ビョーキなんだろ、うつすなよ」

「違うよ」


これ以上腕のことを言われたくなくて、俺はそいつを睨んだ。けど益々そいつはにやついて、そばかすの目立つ鼻を摘みながら言った。


「嘘つけ、腕がドロドロになってんだろ?うわっくせぇ」

「だから違う!」


叫んだ時、痣のある腕が熱かった。

俺があまりに必死に否定するからあいつも意地になったんだと思う。あいつは俺に掴みかかってきた。


「じゃあ袖捲って見せてみろよ!」

「やめろ…っ!」


痣のある腕を庇うように下がったけど、そいつに腕を引っ張られて焦った俺は、振りほどこうとして思い切り力を込めた。その瞬間、頭が真っ白になった。


「ちょっと、桐生くん達何やってるの…」


遠くの方で担任の声が聞こえた。近くの方で、さっきまでにやにや笑ってた奴が腕から血を流して泣き叫んでた。


「ぎゃあああッ!」

「はぁっ…はぁ…」


恐る恐る腕を見たら、毛むくじゃらで縞模様で、真っ黒で大きな爪を生やした腕がぽたぽたと血を垂らしてた。


「…っう」


絶叫。俺の、周りの、あいつの、担任の。

色んな声が重なって、教室はパニック状態だった。

俺が小学校に通った最後の日だった。

―頭が痛い。


「……っ…ぁ…」


千尋はぼうっとする頭を何とかしようともどかしげに首を振った。立ち上がろうにも、椅子に縛り付けられた体は動かない。それ以上に、頭が働かず、体と切り離されたかのようにずっしりと重いのだ。

千尋の様子に気付いた白髪の目立つ男は、千尋にとって見覚えのある細い筒状のそれを手に近付いてきた。


「……千尋…?眠っていないと駄目だろう」


重い頭を上げ、男を睨む。「クソ親父」と言ってやったつもりが、声が出ない。体に力が入らないせいだ。


「もうNOAHには行かせない。世間から責め立てられるのはもう沢山なんだ…!」

「…痛っ……」


首に鋭い痛みが走り、視界がぼやけていく。

自分がしている事は悪い事なのだろうか。訊ねることも出来ないまま、千尋は再び闇に落とされた。



*



「―でもさ、雅ちゃんって千尋くんの家知ってるっけ?」


灯と合流し、いざ千尋の家へ向かおうとした二人であったが、肝心の住所を押さえていなかった。どうしたものかと雅は一瞬思考が停止する。教師に聞いたところで答えてくれるとは思えない。―が、そう考えたのと同時に束からの言葉を思い出す。


「職員室に言って聞いてみようか」

「あ…ならアタシが聞いてこよっか」


灯は雅を気遣ってそう言ったが、今雅は試してみたいのだ。あの時自分を踏みにじるような物言いで貶した教師は、今も自分を恐れているのか、蔑んでいるのか、雅は知りたいと思っていた。


「ううん、私が行くよ。灯ちゃんは待ってて」

「…うん。あ、鞄アタシ持っとくよ」


灯は悟ったように笑い、雅を送り出した。


「ありがとう。行ってくるね」


失礼しますと一言告げ、職員室敵地に赴く。教師達はその目立つ菖蒲色の髪に驚き、はっと視線をそちらへ向けた。

逆に雅はそのいくつもの視線の中からあの日授業を行っていた社会科の教師を探す。一人、気まずさを隠しきれずにいる女性の教員が目につく。…彼女だ。


「あの、長妻先生、ちょっと聞きたいことがあるんですけど、いいですか」

「あら…も、森山さん…どうしたの?」


彼女は社会科の教師とA組の担任を兼ねている。つまり、千尋の自宅は知っているはずなのだ。


「桐生くんが今日お休みだったから、プリントとかあれば届けようかなと思いまして」


あえてにこやかに雅は切り出す。長妻は雅の目を見ずにいつもの調子で言った。


「そ、そうね…字持ち同士だものね」

「字持ちでも、字持ちじゃなくても、友達なら当然だと思いますよ」


雅の声が微かに怒気を孕んだのに気付き、長妻は誤魔化すようにPCを叩いた。千尋の住所を探しているのだろう。


「いや、そ、そんなつもりじゃ…」

「先生、この間のトンネル事故のニュース、ご覧になりましたか?」

「え、ええ。…あ」


社会科の教師らしくニュースは一通り見ていたらしく、長妻は頷いた。そして、何かに気付いたように顔を上げた。その視線は雅と交わっている。


「あれ、森山さん達が…NOAHが人命救助と瓦礫処理を手伝ったんですってね」

「はい。…私達の事は、やっぱり怖いですか?危険で飼い慣らせない猛獣と同じでしょうか」


雅としてはここまで訊ねるつもりは無かった。ただ、すんなり千尋の自宅を教えてくれればそれで試しは終わると思っていたのだが、こちらを見てくれた事が予想外でつい口が滑ってしまったのだ。

長妻は一瞬周りの教師達を気にすると、プリンターから出てきた紙を雅に寄越して言った。


「……これ、桐生くんの住所。使ったらすぐに処分しなさいね」

「…ありがとうございます」


やはり束の言う程の信頼には至っていなかったのか、と雅は肩を落とした。だが目的は果たせたので良しとしようと踵を返すと、長妻が雅にだけ聞こえるよう小さな声で呟いた。


「…怪我には気を付けるようにね……」


思わず雅は目を見開いた。振り返るが、長妻は既に自分の仕事に戻っていた。返事の代わりに、雅は大きな声で言った。


「失礼しました!」

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