29話【救】

黒宮の言葉の意図が雅には理解出来ていなかったが、その言葉に確かな信頼を寄せていることで、そうしなければと口より先に体が立ち上がった。


「なら、アタシが一緒に…」


灯が言いかけ、すぐさまそれを黒宮が制した。


〈忘れんな、武藤。今のお前の任務は瓦礫に埋まった怪我人を助けることだ〉


雅には付いて行きたがる灯が、黒宮の言葉にはっとした。雅が以前言った優先順位のことを思い出したのだ。

任務で優先順位を誤る事は却って他のメンバーを危険に晒す恐れもある、と。

灯はぎゅっと目を瞑った後、雅の方へ右掌に刻まれた【移】の字を向けた。


「―分かった。アタシはここで自分の仕事をする。…雅ちゃん、ついていけないのはごめんだけど、頑張ってね」

「ありがとう。…灯ちゃんなら、出来るよ」

「…うん!―【移】…。…いってらっしゃい」


いつものように元気一杯な声ではなく、灯はとても静かに雅を送り出した。

いつものように側にいられない悔しさと、決意の表れである。

ばっと顔を上げ、そして灯は大きく息を吸い込んだ。


「…ッよし!武藤灯、やります!!」


混乱する現場によく響く、それは澄んだ声だった。

その声の余韻を耳に残しながら、崩壊したトンネル内へやってきた雅は辺りを見回して呟いた。


「…結構暗いな……」


暗闇というのは嫌でも恐怖を掻き立てるものである。字持ちでない救命士達は自分達よりも過酷に恐怖と戦っているのだろう。

暗いトンネル内を一歩進むと、それだけで大きな音になって響いた。それを聞きつけ、蒼亜がこちらへやってきた。


「来たな、雅」

「蒼亜さん、黒宮さん」

「今やばいのはこの人だ」


黒宮が視線で指した先には、岩石に挟まれたのか、片脚が明らかにおかしな方向へ曲がった状態で代わる代わる心臓マッサージを施されている白髪混じりの初老の男性がいた。無論意識はなく、彼はぴくりとも動かない。


「う…」


その見慣れない光景に思わず雅は口元を押さえた。あまりにショックだったのか、怖気づいてしまった雅はその場から進めずにいた。


「しっかりしろ。お前がやるんだから」


黒宮は雅の肩を押した。押されるがままに雅はよろめく。


「で…でも、私心臓マッサージなんてやったこと…」


戸惑う雅に、黒宮は漸く自身の考えていたであろう目論見を話した。


「そうじゃねぇ。さっきAEDが駄目になったって言ったろ。お前がやるのはその役目だ」

「除細動を…私が、ってことですか?」

「覚悟は早く決めろよ」


覚悟―その言葉に雅は胃が震えそうになった。自分が手を出すことで、関わることで、最悪の事態に陥るかも知れない。その可能性に触れる覚悟が有るのか、黒宮は問うているのだ。

雅はようやく実感した。それが、命に触れる重みであると。

脳裏に、遠藤と因幡のやり取りが過ぎる。自分が失敗すれば―遠藤の様な人をまた生み出してしまう。

未だ覚悟が出来たと言えていない雅を、急かすような目で黒宮が見ていた。その視線に雅は更に動揺してしまい、とうとう俯いてしまう。すると、ずい、と黒宮の前に蒼亜が立ち、雅の目をしっかりと見ながら言った。


「雅なら、出来る」


耳に新しいそれは、雅自身が先程灯に言った言葉であった。その言葉に雅はぐっと踏ん張れるような気持ちになった。

逃げたいと思ったのが嘘のように感じるほど、雅は真っ直ぐに歩き出した。


(―私なら、出来る)


雅は懸命に心臓マッサージを続けている救命士達の輪に近付いた。掛け声は止まない。


「代わります。私がやります」


【音】の字に意識を集中させると、額に熱が集まり雅の体を熱く燃やした。もういつでも字を使う準備は出来ている。


「お願いしますっ…」


ぜえぜえと息を切らしながら佐久間が言った。これだけの時間、彼らは必死に命を繋ぎ続けてくれていたのだ。

それに応えなければいけない。今の雅にはプレッシャーすら追い風になっていた。


「はい…!」


雅は汗ばむその手を、男性の心臓の位置へ触れた。

それと時を同じくして、トンネルの外では搬送準備を整え待機している救命士達と、因幡、千尋が灯を囲んでいた。


「武藤、血の匂いが濃くなってる!急げ!」


千尋の字によって強化された嗅覚で、どうやらいよいよ猶予は無くなったらしいことが告げられた。


「―分かってる!…絶対、助けるから…!」


灯は再び字を解放し、イメージの切り出しから始めた。

字の質や精度は想像力の強さで変わる。灯は先程一瞬だけ確認出来た男性の姿を思い出し、それをベースにイメージを固めていった。今の灯は雅が隣にいなくとも、冷静に字を使いこなしていると言えるだろう。同じように瓦礫の隙間を進むように視ていく。果たして、見覚えのある男性が瞼の裏側へ浮かび上がってきた。


(よし…見つけた。今度こそ…)


後は始点と終点を結び、転移させるだけである。ズームアウトするように、男性を通す道を逆算する。

灯がぎゅっと目を瞑ったのを合図に、現場は固唾を呑んで灯を見守った。


「【移】…ッ!」


一瞬空間が歪んだかと思うと、そこには肩をパイプか何かに貫かれたような傷を負った男性が呻きながら倒れていた。


「やった……」


灯は額に浮いた玉のような汗を袖で拭うと、感動と安堵によって震える脚で何とか立ち上がった。瓦礫に隙間があったお陰だろうか。奇跡的に怪我も命に関わるようなものではなさそうだ。男性を急いで搬送する救命士達も、口々に称賛と喜びの声を上げていた。あれだけ非現実的な瞬間を見届けたというのに、恐怖する様子が見られないのは、やはり日々の仕事たたかいに鍛えられているからだろうか。


「よ…よかったぁ…」

「武藤、良くやった!後はゆっくり休んでいてくれ」

「お疲れ」


因幡と千尋に労われ、灯は思わず泣きそうになってしまった。その様子に因幡が今度は戸惑った表情で灯の肩をさすった。


「ど、どうしたんだ?」

「いえ…何でもないんです…ただ」


灯はせり上がってくる涙を必死に堪え、精一杯の花を咲かせた。


「こんなアタシでも人の役に立てたのが、嬉しいんです!」


灯は以前から、自身が因幡班の足を引っ張っていると思い一人悩んでいた。その悩みを解決するにはやはり、手っ取り早く任務で成果を上げることであった。一つ自信のついた灯は、誇らしげにはためくコートを力強く自分ごと抱き締めた。


「私達は再び瓦礫の撤去作業に入る。雅が抜けた分を桐生に任せるが、いいか?」

「ああ」



*



男性の胸へ手を当てた雅は、規則的かつ細かな振動を心臓へ伝えた。ほんの一瞬のことである。

びくり、と男性の体が大きく跳ね上がった。AEDの使用時と同じように男性から離れていた救命士達は、再び心臓マッサージと人工呼吸に力を注ぐ。ほとんど祈るような気持ちで、雅は額左側の字に手を触れた。

不意に、彼らが動きを止めた。―まさか、と雅は思った。最悪のパターンが頭に過ぎり、掛け声のこだまだけが残る。


「―やった…呼吸が戻った!」


佐久間が振り返り言った。だがまだ安心は出来ない。雅は歓声を上げたい気持ちを必死に抑えた。そんな雅の様子など構わず一刻も早く撤退しようと用意する黒宮を尻目に、蒼亜は雅の元へ近付いてきた。


「よくやった、偉いぞ。雅は出来る子なんだな」


わしわしと菖蒲色の髪を乱暴に撫で、蒼亜はまだ立てないでいる雅の腕を取った。そのまま引っ張り上げられると、雅は照れ笑いを浮かべた。


「そ、蒼亜さん…ありがとうございます」

「森山、蒼亜、早く出るぞ」


既に黒宮の半身は岩陰に埋まっている。


「あ、はい!」


男性を連れ、一行は無事にトンネルから戻った。ほっと一息つきたいところであるが、まだやる事は残っている。

NOAHの面々は瓦礫の処理に走る中、トンネルから出るなり救命士達はまたすぐに自分達の成すべきことを、と怪我人の搬送に回って行った。一気に人の減った現場に佐久間だけが残っていたのを雅は気にしていたが、そんな事を口にする暇など無く次から次へと粉砕作業は待っている。

ようやく専門職に任せても手間なく済みそうなレベルにまで片付いた瓦礫を背に、佐久間が言った。


「皆さん、この度は本当にありがとうございました。要請に応えてくれて、更に私達だけでは難しかったかも知れない方の救助まで行ってくれたお陰で、この事故で死者を出すことは無さそうです」


代表して、因幡が前へ出る。


「いや、そちらが医療活動に専念してくれたからこそだ。こちらこそ、感謝する」


佐久間は元々垂れ目がちだった目尻を更に下げ、申し訳なさそうに言った。


「…実は皆さんへ要請を送るまで、こちらではとても揉めていたんです」

「だろうな。事故の処理に字持ちを使うなんて、一般的に考えりゃ正気の沙汰じゃねぇ」


黒宮の言う通り、としては、この判断は異常だったといえる。


「ええ…そうかも知れませんね。ですが、皆さんに任せたという判断は正しかったと思います。私の一存で決められる事ではありませんが、個人としては今後も是非、NOAHを頼らせて頂きたいと思っています」


周りの反対を押してNOAHを呼んだ佐久間が、この後何かしらの処罰を受けるであろう事は容易に想像がつき、雅はその言葉を素直に受け取る事は出来なかった。だが、同じように感じているであろう因幡はその言葉を飲み込み、清々しく微笑んだかと思うと、右手を差し出し握手を求めた。


「そう言ってもらえて私達も嬉しいよ。何も起きないのが一番だが―また何かあれば呼んでくれ。可能な限り力になろう」

「ええ、宜しくお願いします!」


佐久間はその手を力強く握り返した。この握手が後に大きな意味を持つことになるとは、誰も予想だにしていなかった。


「では私達も引き上げるとしよう。黒宮、頼めるか?」

「うぃーす。ところで佐久間、お前帰りどうすんの?みんな先に戻したみたいだけど」


今、この場にいるのはNOAHのメンバーと、佐久間だけである。つまり―


「あ…そういえばそうですね、はは…」


佐久間にはここから帰る足がない。よくこれで現場指揮を任されたものだと雅は内心呆れた。無いものは仕方がないと、黒宮が近くまでは送ると提案した。同行するのが病院までなのは他の患者達を混乱させてしまうからという気遣いからの提案である。

特段断る理由もない為、佐久間はそれに甘える事にした。



*



黒宮達がその場から消えるまでその様子を眺めていた者が、一人。元気よくはねる濃鼠色の髪を後ろで束ねた少女は舌打ちの後、乾いた声で言った。


「NOAHなんて―あたしは認めない…!」


その眼には誰も映らない。砂を纏う風だけが彼女を慰めるように頬を撫でた。

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