26話【鍛】
一旦男女分かれて更衣室へ戻ると、因幡と黒宮がそれぞれNOAHに備え付けられているスポーツウェアを貸し出してくれた。それに着替えた後再び合流し、一行は改めてトレーニングルームへ向かった。―女性陣の一部がせっかく着替えたのに、と零したのは言うまでもない。
壁全体が緩衝材と思われる少し柔らかい素材になっている、窓のない部屋―それがトレーニングルームについての精一杯の説明だ。何せ器具らしい器具もなく、鏡もないのだから、それ以上言及することが出来ない。
「こんな何もねぇ部屋だったのかよ」
「まあ、ジムとはまた別だからな。あ、ちなみに筋トレがしたいなら隣。こっちは道場みたいなもんだから」
「なるほど」
それでようやく合点がいった。ここはあくまで模擬戦やら組み手やら試し撃ちをするための部屋であって、スタミナや筋肉を鍛えたいなら用途が違うらしい。
筋トレなら雅は習慣づけを行っている最中の為、無理に増やす必要はないだろうと思いこの部屋に残ることにした。
ところが意外にも皆ジムへ行く気配はなく、各々その場で軽い体操などを始めていた。
「お?森山、準備体操くらいはしといた方がいいぜ」
「あ…はい」
黒宮に促され、慌てて雅も床に座り柔軟体操を始めた。
「みんな、血の気が多いよなぁ」
黒宮が屈伸をしながら周りを見渡して言う。
血気盛んというよりは、体力が有り余っているのではないだろうか。と雅は推測する。学生組はテスト期間でろくに運動も出来ていないのだ。―千尋に至っては確かに血の気が多いのかも知れないが。
などと考えている内に各自準備が整い、それを見計らって黒宮が言った。
「さて、せっかくだし無差別にやり合おうぜ」
雅は前言撤回を決め込んだ。一番血の気が多いのは黒宮本人である。本人はその事に気付いているのだろうか。内心呆れながらも今更不参加とする気はなく、雅はほんの僅かにだが早くも字に熱を通し始めていた。
やるならば、いつだって本気でやるべきだ。
「眼帯野郎ぜってぇぶっ潰してやる」
「よし千尋、本気で来ていいぞ。手ぇ抜いても訓練になんねーしな」
「言われ…なくても、なッ!」
合図などなく、先手必勝とばかりに千尋が黒宮に飛び掛かった。【虎】の字を解放し膝から下を虎の脚に変じると、その脚力で大きく飛び上がる。黒宮の死角を狙って、爪を鉤爪のように鋭く尖らせるとそのままそれを振り下ろした。
「器用になったな!」
黒宮はさも嬉しそうに言うと軽く前傾姿勢をとった。そして腕を庇うように抱くと、後一歩で爪が届くというところで千尋が床に叩きつけられた。
「がぁッ…!?」
「いっ…てて。これ失敗すると俺もちょっと痛いんだよなー…」
「げほっ…ごほ…ぅ、え…っ」
半ばえづくような呼吸を繰り返し、千尋は蘇芳色の瞳を揺らした。まだ立ち上がれるほど回復出来てはいないようだ。
そんな千尋を嘲るように黒宮は言った。
「忘れたのか、俺は【影】の字持ちだ。影ってのは、身体中に潜んでるんだぜ」
「いっぺん床からの景色見せてやるから…はぁ…っ覚悟しろ」
「お前こそもう一度床とキスするか?」
喧嘩早い二人を横目に、灯が雅に尋ねた。
「み、雅ちゃん今の何…?」
「多分、千尋くんのふ、服の中の…影から黒宮さんが自分の手を出して床に引っ張り下ろしたんだと思う…」
「それにしたって…馬鹿力…」
そのおかげで千尋へのダメージは少しばかり軽減されたらしい。千尋は再び黒宮に向かっていった。
「本当に―」
「余所見していていいのか?」
その声と共に薙ぐように視界に現れたのは、しなやかながら剛健な、因幡の脚である。
「ちょっ…あぶな…!」
灯の前に立っていた雅は慌てて衝撃波で勢いを相殺するが、因幡に怯む様子はない。
「黒宮が無差別と言った以上、こちらでも始めさせてもらうぞ」
あくまでこれは模擬戦である。だが、その気迫たるや凄まじく、因幡は見切れないほどの蹴りを繰り出してきた。
だが手数の多さでは雅も負けない。
「全部、返します!」
雅は空気を震わせると因幡の蹴りを弾くようにタイミングを合わせて撃ち出した。
次々と相殺されていく自分の蹴りを見ながら、因幡は内心驚いていた。
(私と同じ先天性で、生まれつき字が使えたとはいえ…)
打ち合いを止める合図のように、因幡が一際大きく脚を薙ぐ。
(戦闘に関しては素人のはずのこの子が、前線でやってきた私に付いてくるなんて)
雅もそれに合わせるように大きく息を吸い込んだ。
(局長といい、この子は一体―)
破裂音のような激しい音が、全員の動きを止めた。
「はぁ…はぁっ…」
「ふぅ……」
「雅ちゃん、すごい!」
「ああ、今のはかなり本気でやったつもりなんだが」
そう言う因幡に息を切らした様子はない。
「いえ…目で追うのに精一杯で…反撃なんてする隙もなくて…」
「付いて来られないと思ったんだ。正直ちょっと焦っ…わッ!?」
因幡だけではなく、雅と灯もその瞬間は大きく驚いた。因幡の背を取ったのは他の誰でもない、蒼亜だったからだ。
「俺の字は戦闘には向いていないからな。―焦ったのはちょっと、ではないだろう?」
蒼亜の動きは、完全に因幡の隙を突いたそれであった。
因幡の後ろに回り込むと、蒼亜は腕を因幡の首に絡ませぐっと締め上げた。
「くっ…」
不意をつかれた因幡は得意の蹴りを繰り出そうにも首を押さえられているせいで迂闊に動くことも出来なくなった。
拘束を緩めることなく、蒼亜は言った。
「俺の字【真】は、真実ならば覗けないが、その言葉に少しでも嘘があれば心を読むことが出来る」
「…嘘があれば、心が読める?」
雅が思わず繰り返す。
「ああ」
「そ、蒼亜っ、一度離してくれないか…!聞きたいことがある」
因幡がもがくと蒼亜は慌てて因幡から離れた。もがいた勢いで少し首が絞まったらしく、因幡はむせながら蒼亜に尋ねた。
「げほっ…そ、蒼亜は以前、浅井紅麗に真意を聞くと言っていた。今の話を聞くと、【真】の字を使えば少なくとも紅麗の言動に嘘がないかは分かったんじゃないか?」
「結論から言えば、紅麗は自分の意思でああなった」
「そうか…」
因幡が落胆の色を瞳に浮かばせると、いつの間にかこちらへやってきていた千尋が言った。
「遠藤の方は?」
「すまない、あの時俺は遠藤と顔を合わせていないからそこまでは…」
「ああ、そういやそうだったな。悪ぃ」
「…何にしろ、紅麗の企みは俺が止めなくては。そのためにも、強くならなくてはな!」
蒼亜は大きく一歩踏み込むと、千尋へ向けて殴りかかった。
「お前そんなに肉食系じゃなかっただろうが!」
回避の間に合わない千尋は蒼亜から背を向けるように回転すると、そのまま勢いを乗せ、蒼亜へ回し蹴りを返した。
手加減はしたものの、まともに肩で受けてしまった蒼亜は膝をついた。
「ぐっ…!」
「やるじゃん千尋」
黒宮はひゅうと口笛を吹いた。
その動作を咎めるように千尋が黒宮を睨みつけると、黒宮は肩を竦めた。千尋はちっと舌打ちをしてから言った。
「お前はある程度慣れてるみてぇだから一筋縄じゃいかねぇだろうが、こいつは基本的には根っからのインドア派だろ。NOAHに来てから随分テンション高ぇけどな」
「俺が弱いのは否定出来ないな…。ところで千尋…お前今字を使ったか?」
「あ?勿論使ったぞ。自覚してるから言うが、俺の字は使用範囲が狭い分使うタイミングを選ばない」
「…俺も何か、新しい使い方を考えてみるか」
「字っていうのは想像力さえあれば何でも出来るもんだぞ」
「そうか…例えば」
蒼亜は【真】の字を解放すると、千尋の肩をがしっと掴み、その瞳を真っ直ぐに見つめた。
「お、おいなんだよ…」
「桐生千尋。俺が今からする質問に、お前は真実でしか答えることが出来ない」
その言葉は隙間に流れ込む水のように千尋の中に入り込み、気付けば千尋は小さく頷いていた。
「一つ、お前は俺のことが嫌いか?」
「…嫌い、じゃ、ねぇよ」
「ちょっと待てその会話」
黒宮の突っ込みも虚しく、蒼亜はさらに質問を投げ掛けた。
「二つ、家族と仲はいいか?」
「…悪い。特に、今は、親父と」
「…そうか。もういいぞ、千尋」
まるで催眠を解くように蒼亜が手を叩くと、千尋ははっとして手を口元にやった。
「お前ッ…何聞いてやがる…」
「千尋くん…」
千尋が字持ちになった当時、家族と諍いがあったことを、雅は知っていた。それ故に、父親と仲が悪い、という言葉を雅が聞き逃す事は無かった。
「…ッくそ、頭ん中では分かってたのに、聞かれた事の答えがそのまま口をついて出た」
「なるほど、この方法は有効なようだな」
うんうんと頷きながら手応えを感じている蒼亜に呆れながらも、気が散ってしまっては訓練もままならないと休憩に入ることにした。
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