24話【解】
雅達が決意を新たにしたその翌日、槍ヶ崎特科高校では定期考査が始まっていた。
A組の千尋、B組の雅、C組の灯―それぞれが、それぞれの思いを抱えながら臨んでいた。
現代文のテストが終わり、雅は息抜きに廊下へ出た。他には誰もいない。
教室は次へ向けた最終確認や難問の答え合わせと、元よりやる気の無い者達の談笑で賑わっていた。同じ事を考えたのか、隣の教室から現れた鴇色の柔らかそうな髪が、とろりと雅を誘った。
「あ、平塚さん…」
「…森山さん。調子はどうですか?そっち、現代文でしたよね」
初対面の時には見せなかった微笑で、束は穏やかに訊ねた。
「まあまあかな。大問5はちょっと問題が悪いと思う」
「芳岡先生は少し回りくどいですよね」
くすくすと笑う束は相変わらず人形のように隙のない造形だった。
「あの…」
「なんですか?」
「ううん、ごめんね。何でもない。私と話して平塚さんが何か言われたら嫌だから、もう行くね」
雅が踵を返すと、決して引き留めるような素振りは見せずに束は短く、かつ小さく言った。
「応援してます」
まるで返事も求めていないような言い方に、雅はむしろ反射的に振り返っていた。
「―え?」
「近々私もそちらに伺います。そろそろお仕事が片付きそうなので、NOAHのお手伝いもさせて下さい。NOAHの後輩として、応援してますね」
鴇色の髪を撫でながら、彼女は長い脚をぴたりと揃え軽く頭を下げた。
これだけの容姿を備えた人間が自分の前で頭を下げているという光景がどうにも居心地の悪い雅は胃が震えるような感覚がした。
「…ありがとう、平塚さん。モデルのお仕事も頑張ってね。平塚さんみたいに可愛い人がプロ目指さないのは勿体無いと思うけど」
「これ以上嘘つくのも疲れちゃったので」
初対面時から何となく分かってはいたが、字持ちであることを隠しているらしい。束は言い終えた後、何事も無かったように細い顎筋をふいと背け、自分の教室へ戻って行った。それに倣って、雅も教室へ戻ることにした。
*
やはり義務教育であることが原因なのか、テストにはあまり真剣味のない生徒が多い。
もう次のテストまで間がないというのに殆どの生徒は面倒だ、帰りたい、と口々に言っている。雅達字持ちにはあまり関係がないものの、彼らは内申点というものが大事ではないのだろうか。
一人ため息をつきながら雅は席に着いた。そして、親友である灯を思うことで軽い現実逃避を始める。灯は大丈夫だろうか。
(勉強会しようかって言ったのにヤマ張るって言って聞かなかったし。せっかく…あれ―?)
ふと、何かに指先が触れたような、掴めなかったものに微かにだが届いたような気がした。
雅は何とかそれを逃さないように、思考を深く追おうとした。―具体的には、せっかくの後に自分は何と続けようとしていたのかを考えた。
―せっかく勉強を教えてあげようと思ったのに。
(あ―そっか)
雅は答えに辿り着いた。
(遠藤さんは…NOAHが恩着せがましく感じるんだ。だからきっとNOAHの存在が邪魔で…)
遠藤だけではない。久代基も、浅井紅麗もNOAHの在り方を正しいと思っていないのだ。
(認めたくはないけれど…私もきっと、どこかでそう思ってるんだろうな)
何故なら自分はその言葉に上手く反論出来ない。NOAHが保護すれば字持ちは人に奉仕する代わりに最低限の権利と存在価値を得られるのでNOAHに下ってください。―などと、どんなに飾っても見返りの少ない話に聡い字持ちは乗る訳がないのだ。昨日、なんとかしてNOAHで低年齢層の字持ちを保護したいと考えてしまった事を反省した。
まだ学生の身で、その上世間知らずな雅自身ですら薄らと感じていたくらいである。きっともっと大勢の字持ちがその事実に気付いているだろう。そう思うと、雅は自分の行為とNOAHの看板が恥ずべきものに思えた。
(NOAHの全てが間違っているとは思わない。…けど、このままじゃいけない。―だめだ、まとまらない……テストに集中しなきゃ)
ちりちりと疼く額の字を押さえながら、雅は回された未記入の答案用紙を受け取った。
*
三日続いた定期考査は無事に終わり、どうにか目の前の問題は片付いた。
結果はどうあれ解放感に包まれている灯が景気よくスイーツブッフェにでも行こうと言い出したが千尋に何気なく(というか多少悪意はあるだろうが)テストの手応えについて尋ねられるとあえなく閉口したので、三人はまっすぐNOAHへ向かうことにした。
学校からNOAHまでは最寄り駅から電車で六駅、そこからまた徒歩10分とそれなりの距離がある。つまり、移動で結構疲れるのだ。灯可愛がりの雅は、息抜きもなしにそれは少し可哀想だという抗議の意味も含めて千尋に言った。
「そういう千尋くんはどうだったの?テスト」
「少なくとも崖とは程遠い安全地帯にはいるだろうな」
暗に灯が崖っぷちだと言っているのだろう。先程可哀想だと贔屓はしたものの、雅もそれは否めなかった。
だが意地悪な言い方で親友を貶された以上雅にも反撃の余地があった。
「へぇ、流石。優秀な家庭教師さんといけないご褒美の約束でもした?」
雅にしては珍しい、下世話な冗談を聞いて、千尋は露骨に嫌そうな顔をした。
「お前な…冗談が悪趣味だ。どこでそんなの覚えてきたんだよ…」
「私、チューリップの名札じゃなくてNOAHのバッジ着けてるんだけど?」
とはいえ、今はそれも誇りとは呼びにくくなってはいるのだが。雅は内心ため息をついた。
話題を切り上げたかったのか、千尋は鞄から何かを取り出し灯へ投げ渡した。
「おっ…と。何?」
とりあえず受け取った灯はそれを改めて確認した。かさりと音を立てたそれはシンプルながら可愛らしいラッピングを施されたクッキーであった。小さな袋の為、中身は二枚だけであったが、ほのかにバターも香り美味しそうに見える。
「千尋くん…これ…」
千尋くんが作ったの?と尋ねようとしたが、よく見れば中に紙が一枚入っており、さらによく見れば「新装開店記念♡」と手書きで書かれており、結論から言えばそれは広告用のサンプル品であった。道端で配るティッシュのように、「よろしくお願いします」の言葉と共に誰彼構わず貰えるものだ。
その事実に気付いてしまった以上何も言えなくなった灯はただ千尋の言葉を待つしかなかった。
「やる」
もう二人は千尋の言葉の意味を汲み取ることに慣れてきたが、あえて組み立て直すとすれば、「NOAHに行かなきゃならないからスイーツブッフェには連れて行けないが、そんなに菓子が好きならこれやる。だから機嫌直せ」である。
雅と灯は二人顔を見合わせて、仕方ないとでもいうように笑みを交わした。
「ありがと、千尋くん。いただくね」
そう言って灯が包みを開け、中身を一つ頬張った。味は市販のそれに色がついた程度だが、優しさというスパイスが後から効いてきた。
「うん、美味しい」
こちらを向いてはいなかったが、千尋は満足そうに鼻を鳴らした。
「雅ちゃんも」
勧められたが雅は少し躊躇って言った。
「千尋くんは?」
「俺そんなに甘いもん好きじゃねぇ。…食えば?」
確かに今まで千尋が甘い物を好んで食べている所は見たことが無かった。第一好きなら貰ってすぐに食べているだろう。
千尋は文房具が好きなことは知っているが、食べ物は何が好きなのだろう。
「私もご相伴にあずからせてもらうね。千尋くん好きな食べ物は?」
「辛いもん」
「真っ赤なラーメンとか好きなクチか〜」
どちらかといえば甘味を好む雅は、その点においては分かり合えないな、と苦笑した。
「人の好みなんざ自由だろ」
そうだね。もちろん否定はしないよ、と雅は灯から受け取ったクッキーをかじった。
「…ん、美味しい。灯ちゃんは好き嫌いないよね」
「うん、何でも好き」
朗らかな笑みである。―が、それを少しばかり台無しにするようにその口元には食べかすが付いていた。
「んふっ…灯ちゃん。―付いてる」
思わず吹き出してしまったが、友としてそれは放っても置けない。そっと手を伸ばし、取ってやる。とどめに勿体無いからと、そのままそれを口に運んでしまった。
「ふぁ!?あ…ごめっ…あり…」
相当恥ずかしかったのだろう。灯は耳まで真っ赤に染め、俯いてしまった。
明らかに過剰反応気味な灯の様子に雅は首を傾げたが、気付けばNOAHの目の前に来ていた為、一旦その件は置いておくことにした。
「…なに騒いでんだ」
千尋に白い目で見られたことで灯も我に返り、やや猫背になりながらその敷居を跨ぐのであった。
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