第3話【虎】
昨日、めでたく初任務を言い渡され、因幡班を結成した雅達は、一時間程の打ち合わせを済ませ解散した。ちなみに帰りは検査等で疲れている灯を気遣った因幡が車で送ってくれた。
そして今朝、昇降口で落ち合った雅と灯は、人通りの少ない廊下をまわって教室へ向かっていた。
「おはよう雅ちゃん」
「おはよう」
灯のことだ、恐らく昨日はわくわくしてあまり眠れなかったのだろう。欠伸をして少し眠そうだ。
「それと…」
灯が手を左耳にやる。雅もそれに倣った。
〈…ん?ああ、私か?おはよう、二人共〉
二人―NOAHの局員全員に共通している―が耳に入れているのは、小型の無線機だ。向こうからは音声をそのまま、こちらからは骨肉振動で音を伝えている。そしてそれは班長である因幡と繋がっている。
「おはようございます」
〈昨日言った通り、任務中は基本的にいつでも私が待機しているから、何か異常があってもきちんとこちらで把握出来る〉
「はい、分かりました」
〈じゃあ、時間を見つけて他の字持ちを探してくれ〉
「了解です」
*
幸いにも事件当日槍ヶ崎の生徒が店内にいなかったおかげで、灯はまだ字持ちになった事が公になってないため、情報収集は灯に任せることにした。灯は探偵ごっこか何かのように、意気揚々と各クラスにいる自身の友人達の元へ聞き込みに行った。その一方で雅は唯一顔を知っている彼女の元へ向かった。
「ねえ」
振り向いた彼女は、細く艶のある鴇色の髪を耳にかけ、それから返事をした。
「…はい。あ―」
声を掛けたのが雅だと分かると彼女―
「平塚さん、だよね。私は―」
「森山雅さんですよね、知ってますよ。あなた、有名人ですから」
束が小さく笑う。つられて雅も笑い、それから一つ、皮肉を言う。
「やだ、やめてよ。平塚さんの方が有名人でしょ?Hanataba.さん」
「…!」
何かに勘づいたようにはっとした後、束は口を一文字に結び後退りをした。慌てて雅が引き止める。
「ごめん、待って。話があるの」
目を鋭くし、束は雅を振り返った。その目は辺りを細かく見回している。
「ここじゃまずいかな…場所を変えようか」
「…第2図書室。そこなら、人もほとんど来ないはずです。急ぎましょう、HRまであと20分もありません」
「あ―うん。行こっか」
図書室と銘打ってはいるが、そこは机と椅子が二つずつと処分予定の本が詰められた棚があるだけの、書庫とも言えない狭く簡素な部屋だ。
束に続いて雅も入ると、椅子には座らず束はそのまま奥の壁にもたれ掛かった。
「―それで、話って何ですか?私、あなたの彼氏と一緒に居たことなんてありませんよ」
恐らく以前にもそのような噂を立てられて問い詰められた経験があるのだろう。今の所雅に恋仲の相手は居ないが、それを確認する事も無く束はそう言ったのだ。
「…そんな話をしに来た訳じゃないんだけど」
モデル―と束は言った。確かに平塚束はHanataba.としてとある雑誌の読者モデルをやっている。すらりと細く白い手足、綿菓子のように甘く柔らかい笑顔。束は他生徒達の憧れだ。だが、その笑顔も雅の前では隠されてしまっていた。それでもその人形のように整った顔は崩れていない。
「なら、なんなんですか?」
「平塚さん、字持ちだよね?」
核心に触れると、束の肩がびくりと震えた。
「なんで…」
「なんで、か。…字持ちの勘、って言っても信じる?それとも笑う?」
などと冗談を言ってみると、束は肩を竦めた。
「…いいえ。そうですね、女の勘なんてものがあるくらいですから、そういうのもあるでしょうね」
「それじゃあ本題、私はNOAHの一員で、今NOAHは入局した字持ちの保護を主な活動としてる。こうして私が平塚さんのところへ来たのも、平塚さんにNOAHへ入局してもらいたいから」
「…確か、NOAHは唯一国から認められている機関、なんですよね?」
雅は頷いた。
「隔離所みたいなものだけどね」
「NOAHに入れば字持ちである事を国から承認されるという解釈で問題無いですか?」
「野良犬から飼い犬に変わるって感じかな」
束は唇だけ動かし何かを声に出さずに呟いた。考え事をする際の癖なのだろう。やがて、束は頷いて言った。
「―分かりました、NOAHへ入局します。ただ、一つ条件があります」
「条件?」
ここから先は話を通しておいた方がいいと判断した雅は、そっと耳に手をやり、無線機のスイッチを入れた。因幡がどうした?と言っているのには答えず、そのまま束の話の先を促す。
「私、元々モデルは年内でやめるつもりだったんです。だから、それまでは字を明かさないことをお願いしたいんです」
「何の字かは言えないってこと?」
「はい。せめて―それまでは知らないままでいて下さい」
*
〈では情報を整理する。5人の内1人はここ数ヶ月の間登校していなくて行方不明、もう1人は体調不良で長いこと欠席、雅が1人と接触。他の2人はこれから当たる、と〉
「平塚さんについては無線で聞こえていたと思いますが―」
「ああ。
「はい。そういう方向でよろしくお願いします」
「雅ちゃんは早くも一人ゲットしてきたんだね、流石!」
「灯ちゃんこそ、沢山情報集めててすごいよ」
「それにしてもあのHanataba.が字持ちだったなんてびっくりだよー!」
「ね。私も驚いちゃった」
言い終えると同時にチャイムが鳴った。とりあえず任務は一旦中断とすることにした。
「おっと。―じゃあ、次は昼休みか放課後だね」
昼休み、2人は昨日も合流した屋上階段で、通信中の因幡も交えつつ昼食を摂った。
登校していない2人にはまた日を改めて声を掛ける事にし、2人は
桐生は登校してはいるものの、やはり字持ちということで周りから浮いているのか、その風体はちぐはぐながら
着崩さず正しく着こなされた制服に、地毛が伸びて根元の黒くなった金髪、耳朶に左右合わせて三つのピアス。服装はともかく雅の中での(偏見混じりだが)素行不良なイメージに当てはまる―そんな容姿であった。
「桐生千尋くんだよね?」
「…あ?」
不機嫌そうに千尋はこちらを見やった。三白眼気味の瞳が自分達を捉える。
「アタシ達NOAH―知ってるよね?の局員でさ、今字持ちのみんなをスカウトして回ってるんだけど…そうそう!アタシも実は字持ちでさ!」
スカウトとはまた違うが、あながち間違ってないかと雅は口を挟むのをやめた。代わりに灯の言葉に補足していく。
「NOAHに加われば、入店規制のあるお店もいくつか入れるようになるし、社会的にも立場を認められるの。だから―」
「あのなァ、字持ちが言葉だけでどうにかなる訳ねェだろうが。役人か何かのつもりかよ」
束は言葉による説得に応じた、という情報は心に留め、雅は凄むつもりで言った。
「…じゃあ、どうするつもり?」
「そりゃあ言葉が駄目なら
千尋が立ち上がり制服の袖を捲った。右上腕にある【虎】の字に意識を集中させると、千尋の腕と足が形を変えた。ひと回りも大きくなり、全体を毛で覆い鋭い爪をもった、まさに虎の手足であった。
その変態していく様に暫し呆気に取られていた2人が我に返る瞬間には、もう千尋は窓を突き破っていた。
遠巻きに見ていた周りの生徒達から一斉に悲鳴が上がる。
「うそ―ここ三階ッ!」
「桐生くん!?」
慌てて窓の下を見ると、千尋は【虎】の字故か事も無げに着地し、挑発的にこちらを一瞥した。
千尋を追って二人も校庭へ出ると、千尋は既に全身を虎と化し、唸りをあげて二人に迫ってきた。
*
〈まずい―!〉
無線でその様子を聞き取っていた因幡は腹部左側に意識を集中させた。そして立ち上がると同時に周囲に指示を出した。
「森山・武藤が、接触した字持ち1名と戦闘になったみたいだ。私が行くが、念の為アレを用意しておいてくれ」
「ですがアレはまだ開発中で…」
「万が一だよ。暴れて収拾がつかなくなった場合にならない限りは使うつもりは無いさ」
そう言い残し、因幡は目では捉えられない速さで出ていった。
*
その一方で、二人も襲い掛かってきた千尋に応戦すべく字を開放した。
「初任務なのにちょっとハードじゃない?」
額に手を添えながら雅は言った。
「アタシ字持ちデビュー昨日なんだけど!」
右手を構え、灯も同意する。
間もなくやってきた虎(千尋)に雅は振動波―端的に述べるなら声の振動を字で増幅させたもの―で攻撃するが、虎の動きを追えず躱されてしまう。
「見えない筈なのに…流石ッ…!」
聴覚が強化されているのだろうか。或いは振動による微かな空気の動きを感じ取っているのかも知れない。その反射神経を超えられず雅はなかなか千尋にダメージを与える事が出来ない。
「これなら―」
雅が何かを仕掛ける前に虎は雅の目の前に辿り着き、鋭い爪を振り上げた。受け流そうと攻撃を加えるが虎の勢いを殺すまでには至らない。
(ダメだ―当たる…!)
これが当たってもきっと殺されはしないだろうと覚悟を決め、雅は食らうことを前提でまた攻撃の準備をした。
刺し違えるとまでは言わないが、限界まで自分との距離を詰めれば相応のダメージは与えられるだろうと踏んでの事である。
今の雅にはまるでスローモーションのように爪が近付いて見えた。自身の心臓の音だけが時間が正常に流れている事を知らせている。
だが、まだ一人、この状況を打破する事の可能な者が残っていた。
灯が目を閉じ、構える。
(雅ちゃんを…この手に吸い込むイメージ…!)
虎の爪が振り下ろされる瞬間、手を伸ばした灯が雅を転移させ、間一髪攻撃を躱した。
「灯ちゃん!」
「間に合った…!」
安心するのもつかの間、虎は前足で自分を支えると、その凶悪な爪を持った後ろ足で蹴りを打ってきた。
「やば―」
「灯ちゃん下がって!」
その攻撃には転移が間に合わず再び雅が前へ出ようとした時、因幡が飛び蹴りでやってきた。鈍い音が耳に届く。
「無事か二人共!」
「因幡さん!」
「マジ助かった〜…」
少し震える脚で立ち上がりつつ、雅は灯に手を貸した。虎の方を見ると、校庭を横断するように飛ばされた跡があり、その先で植え込みに力なく頭を突っ込んでいた。
「よし、無事だな。まずは―」
無線の音声から推察して、ここまで走ってきたであろう因幡は息一つ上げずに着ていたシャツを捲りあげた。
「ちょ、いきなりなにして―!」
程よく鍛えられた腹筋を飾るようにはっきりと【脚】の字が刻まれていた。
「私の字―【
さっきは気付かなかったが、因幡が驚異の速さでここに着いたのは彼女の字によるものだと気付く。気を取り直し、三人は頭を捻り始めた。
「そうだね、どうしようか…」
「…これを、作戦と呼んでいいのかは分からないけど」
雅が静かに手を挙げた。
*
校庭には因幡と灯の二人が残っていた。雅の姿はどこにもない。灯がある場所へ転移させたからだ。
「これ、いけますかね?」
「まぁ、確かに彼女の言う通り作戦と呼べるかは微妙だが、悪くは無いと思うぞ」
灯の問いに案外乗り気な様子で因幡が答えた。それを聞いた灯は内心得意になった。雅が暗に褒められたのを、自分の事のように喜ばしく思ったのだ。
やがて植え込みから起き上がった虎は因幡に伸されていたことに気付き、屈辱からか真っ直ぐ因幡へ向かってきた。それを因幡はひらりと躱し、校舎に沿って走り出す。それと同時に灯は後方に転移した。
「さあ、私に―付いてこい!」
雅の狙い通り虎は因幡を追い始めた。
これを以て決行された作戦の内容は、虎に校舎沿いに因幡を追わせ、コの字の校舎の真ん中にある中庭で待ち伏せした雅が音波で気絶させ、捕縛するというものだ。灯は先に雅を中庭へ転移させた後、虎の進路が逸れないよう横から追い立てる役を任された。
「そうだ、このままこっちへ来い!」
虎が因幡の前へ回り込もうとするのを、灯が手近にある石などで妨害する。
「はぁ…はぁ……」
灯は右手から全身に広がるような熱と疲労感を感じたが、走っているせいだと言い聞かせ、転移を繰り返した。
必死に灯が二人を追っていると、因幡が角を曲がった。目的地である中庭へ入ったのだ。
(よしっ!後は雅ちゃんが―)
中庭で一人待機していた雅は大きく息を吸った。ここならきっと、よく響くだろう。それに逃げ場もない。
果たして中庭へ飛び込んで来た虎へ向けて、雅はそれを放った。
「大人しく、寝てな―さいッ!!!」
雅がそう叫ぶと、その声は窓ガラスをびりびりと揺さぶり、木々を軋ませた。
校舎の中から野次馬をしていた生徒達からも悲鳴が上がる。
灯と因幡は何とか耳を塞ぐことが出来たが、虎はまともに喰らったせいか、暫しの硬直の後その場に倒れ伏した。同時に全身の虎化が解け、元の桐生千尋に戻った。
そこから先の展開は早く、千尋が倒れたその隙に因幡が通常よりも頑丈な手錠で千尋を拘束し、後から到着した護送車へ乗せた。
護送車に揺られて数分後、千尋が重たげに頭をあげた。
「―あ、千尋くん。起きた?」
千尋に気付いた雅が声を掛けると、千尋は不自由そうに体を揺すった。
「あァ?…なんだこりゃ…くそっ」
手錠に加え、足も簡単にだが拘束されたことで字も上手く解放出来ないようだ。
尚も体を揺すり続ける千尋に、灯が追い打ちをかけるように言った。
「千尋くんの負けだよ、大人しくお縄に―は、ついてるね、あはは」
その一言にすっかり脱力した千尋は、再び頭を垂れため息混じりに言った。
「…わァかったよ、NOAHに入局する。信用のない字持ちでも、約束は守る」
*
途中何度か拘束を解くように要求してきた千尋だが、その悉くを因幡にあしらわれたことで、仕方なく雅達の雑談に混ざることとなった。程なくしてNOAHに到着し、因幡がすっかり丸くなった千尋を連れて聖の元へ向かった。
一旦待機の指示を受け、雅と灯は前回使用した8階の会議室へ入った。
「今日一日で二人もスカウトできちゃったね、雅ちゃん。任務も戦闘も初めてなのに、アタシ達調子良くない?」
「―調子悪いでしょ」
「えー?そうかなぁ…。うーん…まぁ、油断は禁物だけど―って、み、雅ちゃん?」
灯の額に手を当て、雅が言った。
「そうじゃなくて、灯ちゃん、体調良くないんでしょ?さっきから顔色悪いよ」
努めて明るい声を出してはいたようだが、時間が経つごとにつれて灯の表情は苦悶を隠し切れなくなっていた。
「あはは…雅ちゃん、鋭いね」
灯が肯定すると、雅は泣きそうな顔をした。
「発現してから日も浅いのに字を何度も使ったからだ―ごめん、任務中気付かなくて」
「ううん、雅ちゃんは悪くないし、任務が終わってからのことだから…」
「でも―」
「慣れれば何とかなるって」
「…因幡さん、森山です。…はい、灯ちゃんが…はい、じゃあ、今日はこれで…はい、お疲れ様でした」
誤魔化そうとする灯を他所に、因幡に通信を繋げた雅が灯の現状を伝え、再び向き直った。
「灯ちゃん、今日はこれで終わりだから、医務室行こう?」
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