三章 十二節

 木々の間を飛ぶアンジェルに抱えられたクチバシ医者は新雪を眺めていた。辺りは真っ白だ。眼球が嵌まっていれば痛めただろう。雪上に動物の足跡が続くのを眺めていると雪原に出た。金色の大男が剣を引きずり歩いている。大男はクチバシ医者に気付くと睨んだ。


 クチバシ医者は下ろすように頼んだ。止まったアンジェルはクチバシ医者から手を離す。クチバシ医者は新雪に落下し、顔をしかめて起き上がる。


「確かに下ろせと言ったけどやり方ってものがあるだろ!」


 空中に浮かぶアンジェルは軽やかに新雪に降り立った。


「話し合いで現れた水の精霊と違うのだな、貴様は」太陽神はアンジェルを見遣った。


 舌打ちしたアンジェルはクチバシ医者の背後に隠れる。


「悪魔はどうしたんだ?」


「いないのだから察しないのか?」太陽神は白い瞳でクチバシ医者を見据える。


 クチバシ医者は唇を噛む。アンジェルが背を叩き、憎悪しないよう注意を促す。


「……僕は話をしに戻ってきたんだ。確かに鹿の友達の君に黙って角を持って行くのは無礼だった。ごめん。でもどうしても角は必要なんだ。友達が窮地に陥ってそれを必要としている。角さえあれば助かる。君だって鹿が病気になったら助けたいと思うだろう?」


「どうとも思わんな。己にしてみれば病に臥せり死ぬのは羨ましい限りだ」


「……頼むよ。悪魔だって言ってた。復讐は何も為さないって。例え君が悪魔を土に返しても僕は復讐を誓ってはいけないんだ。悪魔は……ハンスは土の精霊だった仲間に復讐して後悔した。僕はハンスの忠告に耳を貸したい。皆が笑って幸せに暮らすのを眺めたいだけなんだ」クチバシ医者は眼窩から涙を流す。


 太陽神はクチバシ医者を見据え剣を構える。アンジェルはクチバシ医者から離れた。


「……僕は剣を交えたくない。お願いだ」クチバシ医者は首を横に振る。


 笑みを浮かべた太陽神は剣を振り下ろす。クチバシ医者は体をかわすと腰に下げていた剣を引き抜く。両者とも間合いをとり互いの顔を見据える。


「それが君の返事かい?」


「……貴様は何者だ?」


「僕は人殺しだ」


「なら葬ってやろう!」間合いを詰めた太陽神は剣を弾くと胸許を狙う。クチバシ医者は返された剣で太陽神の剣を弾いた。


 戦闘が始まった。静謐な雪原に金属同士が打ち合う音が響き渡る。


 クチバシ医者は圧されていた。剣技の素人と玄人の差も然る事ながら太陽神の逞しい体躯が打ち出す重い一打一打に圧倒される。早くも呼吸を乱したが視界の端でアンジェルを探した。彼女は何処にも居ない。良かった。僕が倒れたら次は彼女に牙を向けるだろう。この場に居ない方がいい。欲を言えばハンスの許に駆けつけてくれれば良いんだけど。


「よそ見するな!」


 怒鳴り声と共に強烈な突きが腹に当たりかける。仰け反ったクチバシ医者は新雪に尻を着いた。雪に転がったクチバシ医者に太陽神は剣を突き立てようとする。クチバシ医者は体を転がし剣先から逃れた。しかし剣は黒髪の一部を捕えて切る。クチバシ医者は新雪をすくうと払い上げた。太陽神は視界を阻まれた。


 クチバシ医者は平原から木々の間へ逃げ込む。卑怯でもクソでもいい。あんなデカ物には到底敵わない。だったら逃げるまでだ。フォスフォロに教えて貰った事は剣技だけではなく、生き延びる為の知恵もその一つだった。


 雪を払った太陽神は顔をしかめ、木々の間に消え行く黒いコートを睨む。武人の風上にも置けぬ卑怯者が。己を撒けると思ったか。姑息な手を使いやがって。


 髪の長い男は森に消えた。


 太陽神はその場から離脱しようとした。その刹那、既視感を覚えた。……黒装束、長い髪、あいつは女児の魂を攫った男ではないか。そうだろう、きっとそうだとも。絶対に殺す。太陽神は唇を歪めて微笑むと光の粒子となって消えた。


 クチバシ医者は狭い木々の間を縫うようにひた走った。雪に足を取られそうになるが細脚を高く振り上げて走る。剣を構え対峙した時は圧倒的な体格差に絶望したが、自分は細く身軽な分逃げるのには有利だ。このまま駆け抜ければハンスに出くわせるだろう。


 悪魔は死なない。ハンスは言っていた。土になる前に見つければ森を離脱する知恵を貸してくれる筈だ。人魚だって悪魔の許に駆けつけている筈だ。


 白い息を弾ませ走っていると数メートル先に光の粒子が現れた。人の形を取った粒子から金色の大男が現れる。クチバシ医者は脚を止めると鞘を払い、剣を構える。


「逃げられると思ったか?」太陽神は喉を小さく鳴らして笑う。


「うん……ちょっと期待したけど、甘かったよ」


 太陽神は剣を捨てる。そして喉から短剣を引きずり出し構えた。


「己は殺さないと気が済まないようだ。悪を成敗するのは己の使命だ。ぞくぞくする。早く殺されて己に悪魔をいたぶらせてくれ」


 再び金属と金属が打ち合う音が森に響き渡った。


 クチバシ医者は長い剣身で攻撃を防いでいるのにも関わらず動きづらい事に気付いた。しかし時既に遅かった。太陽神は間合いに入ると剣をかわし短剣を胸に突き刺そうとした。クチバシ医者はそれを交わすと剣を落としてしまった。


「クソが!」


 剣を拾わせる暇も与えず太陽神は胸目がけて短剣を突く。クチバシ医者は反射的に体をかわすが短剣がかする。分厚いウールのコートが破れた。


 太陽神は身の軽さに腹を立てクチバシ医者を睨む。


 クチバシ医者は肩を上下に揺らし呼吸を荒げ、窮地に陥った脳内で懸命に思考を巡らせる。狭い森では剣は役に立たない。短剣を握った相手には殺意がある。逃げるのもダメときた。かくなる上は肉体を用いて攻撃するしか無い。しかし体格の差は明らかだ。僕みたいなヒョロ吉が攻撃した所で無駄だろう。死ぬより他ないのだろうか。


 長い溜め息を吐くと愛しいユウを思い出した。出立の前に彼女が掛けた言葉が甦る。


 ──私、あなたの顔も好き。あなたの包帯巻いた優しい手も好き。あなたが好き。片想いでも構わない。あなたを好きでいたい。


 その言葉に全てを思い出した。ユウの顔、言葉、今まで見た夢、爛れた右手、青白く光る瞳が脳内で一直線に並ぶ。記憶が堰を切って流れる。脳内のスクリーンに様々な顔が映し出される。無二の相棒、店主の女、愛しい双子、酒屋の老人……。懐かしく愛しい仲間達を想い出し、責務を想い出す。心臓を掴まれ引き抜かれたようにショックを受けたクチバシ医者は息を止め、目許の包帯から涙を滲ませた。


 僕は帰らなければならない。意を決しコートの袖を捲ると右手の包帯を解いた。包帯は螺旋を描いて新雪に落ちる。包帯が巻かれていた跡には爛れた皮膚が覗く。


「覚悟は出来たか?」クチバシ医者を睨みつける太陽神が問う。


「……ああ。やっと自分の正体を思い出したよ」


 太陽神は丸腰のクチバシ医者の間合いに入り、短剣を胸に突き立てようとした。しかしクチバシ医者は太陽神の両手首を捕えると全身の力を込めた。


 弱々しい力で何が出来る。太陽神は高を括った。しかし縛から手を振り解こうにも力が入らない。逞しい体躯をよじるがびくともしない。爛れた右手と白い左手に掴まれた両手首は金色の輝きを失って白くなり、血の気を失う。感覚を失った太陽神は短剣を落とした。


 太陽神はクチバシ医者を見下ろす。彼は唇を噛み締め眉根を寄せ、包帯が巻かれた空っぽの眼窩から涙を流していた。太陽神の両手は手首同様に血の気を失い、肉が腐り落ちる。腐食は広がり、腕や肩までも浸食する。


 クチバシ医者は両手を離した。


「貴様は何者だ!? 何をした!?」太陽神は腐臭を漂わせ、動かなくなった両腕を下げて問う。体は腐敗する。最早首や胸までも腐っていた。


「……僕は人殺しだ。島に来る前も、これからも」クチバシ医者は爛れた右手を翳して太陽神に触れた。


 両腕が腐り切り骨を晒し新雪に落ちた。全身の腐食は止まらない。顔を腐らせた太陽神は次第に薄れ行く意識の中で真に欲していた事を思い出した。


 ……やっと死ねるのだな。


 全身が腐敗して姿を現した逞しい骨はバランスを崩し、音を立てて落ちた。金色の光を放つ魂が骨から尾を引く。クチバシ医者は魂の尾を爛れた右手で刈る。すると魂は骨から離れ粒子を撒きつつ宙へ消えた。新雪には太陽神が着ていた白と金地の衣が落ちていた。クチバシ医者はその場に崩れ落ち、深い眠りについた。


 暫くの後に三人の女が現れた。


 アンジェルはクチバシ医者を置き去りにした後、荒れ地まで飛びニエとユウに二人の男の治癒を頼んだ。ドラゴンに姿を変えたユウにニエは飛び乗ると先導をアンジェルに頼んで辿り着いた。


 倒れたクチバシ医者を見て気が動転したユウは揺さぶり起そうとしたがニエに制された。


 ニエは彼の口に手を翳して呼吸の有無を確認した。特に目立った外傷は無かったので気を失っていると判断した。ニエは爛れた右手を見遣る。彼女は出立前、ランゲルハンスに言われた通りにモスグリーンのショールを彼の右手に巻いた。ニエはユウの手を取ると気を失って深い眠りについただけだから看護して、と伝えた。頷いたユウはクチバシ医者に頬を寄せた。ニエは顔を新雪に向けた。


 体格の立派な骨が転がっている。もしや夫ではないかと気が動転しかけた。しかし『後を頼む』と言われた以上心を乱してはならない。ニエは霊体化したアンジェルに顔を向けた。アンジェルは分からない、と首を横に振る。


 ニエは頭蓋骨に素手で撫でた。骨の山の下には白地と金地の布の塊が落ちていた。見覚えがある。ニエは記憶の糸を辿り布の塊を見つめ思い出した。生前小国で生活していた時、自室に掛けられていた太陽のタペストリーの布だ。


 包帯から涙を滲ませると何百年も前の習慣だった太陽神への祈りを捧げ、彼の死を悼んだ。涙が頬を伝って骨に落ちると骨と布の塊は光の粒子と化し、空へ舞う。それを見届けたニエはユウとアンジェルに夫の捜索の手伝いを頼み、その地を離れた。


 森の奥で倒れる夫を見つけたニエは血だらけ口に手を翳した。呼吸が浅い。早く治療しなければ土に戻ってしまうだろう。彼女はアンジェルに頼み力を合わせて夫をドラゴンの背に乗せると黒い森を後にした。


 帰宅したニエはクチバシ医者の看護をユウに任せ、アンジェルと二人で夫に刺さった剣を引き抜くと治療を施した。消毒し、傷を縫うと彼の口に井戸水を含ませる。早い回復を促す為に地下の井戸まで運びたかったが体力的に無理な相談だ。アンジェルの提案で大きなワインクーラーに井戸水を注ぐと、カウチで眠る夫の側に置いた。白かった頬に少し赤みが差す。ニエは胸を撫で下ろした。


 アンジェルはクチバシ医者のコートから取り出した鹿の角を渡した。ニエは頷くとランゲルハンスが眠る大きなカウチの側で製剤した。出来た薬を霊体化したアンジェルに渡すと彼女はアイアイエ島へと飛び去った。


 緊張の糸が切れたニエは途端に睡魔に襲われた。深く眠る最愛の男の膝に顔を乗せ、自らも眠りについた。




 クチバシ医者は自宅のベッドに寝かされていた。


 ユウは固く絞ったタオルでクチバシ医者の首筋を拭いた。彼女は彼が起きるのをひたすら待った。テーブルにあった齧りかけの青林檎を持ち彼の顔を見つめる。


 私は知ってる。素顔を見てやっと思い出せた。


 クチバシ医者は飢餓に陥った生前のユウとリュウに菓子を与えた青年だった。


 初恋の騎士様があなただったなんて。あなたに勇気づけられ私とリュウはどんなに嬉しかっただろう。魂が肉体を離れあなたの腕に抱かれ島に送られどんなに恋しかっただろう。


 琥珀色の眼を細めて涙を流し、ユウはクチバシ医者の頬を撫でる。天使のように優しいあなたが記憶を取り戻したのなら心を痛めても現世へ戻るよね。忌み嫌われる仕事でもやる者がいなれば皆が困ると心に言い聞かせるよね。狂う程に辛くても胸が張り裂ける程に悲しくても、あなたはあなたの存在を信じる者が居なくなるまで使命を全うするんだよね。


 あなたは帰らなければならない。帰ってしまえば私は会えない。


 それでもいい。好きでいさせて。


 ユウはクチバシ医者の齧りかけの林檎を一口齧る。そして自らが着ていた黒いブラウスのボタンを外し床に落とした。慎ましい胸が露わになり鎖骨の間で雪の結晶を象ったチョーカーのチャームが揺れる。ユウは深く眠るクチバシ医者に跨がりキスを落とした。


「……ごめんね。今から始まる事はあなたも知らない、誰も知らない、私だけの事実なの」


 ユウはクチバシ医者の第二ボタンまで外されたシャツを手に掛け、ボタンを外す。


 窓の外では白い空から小雪が音も無く降り積もった。

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