四章 一節

 羽を伸ばし過ぎた。日はとうに沈んでいた。夕日の残照が地平線を茜色に染め、青い闇に包まれた天に宵の明星が輝く。郊外から市街地へ繋がる高速道路を青年は艶消しの黒いクルーザーバイクに跨がり家路を急ぐ。


 久々の休暇だった。なけなしの給金を貯めて買ったばかりのクルーザーバイクで遠出しようと郊外のブリュワリーへ向かった。当日になって思い立った計画だ。バイクを転がして来たのでクラフトビールにありつけず、四本の小瓶を持ち帰るしか無かった。それでも楽しい休暇だった。レディである黒いロケットⅢとの初めてのツーリングだったので多少の誤算は何とも思わない。身許が定かでない自分の為に必要書類を揃えてくれたパンドラに改めて礼を言いたい。着替えてから店に顔を出そうと青年は考えた。


 瞬きの暇を許さず景色が変わる。青年は自分が疾風になり意識だけが置き去りになる感覚に捕われた。ジャケットを着ているとは言え凄まじい風と重力がぶつかり駆け抜ける。高鳴りを禁じ得ない。この瞬間ばかりは生に感謝した。何百年も昔、拝借した馬で大地を駆け抜けたが黒いレディはそれ以上に魂を高ぶらせる。


 市街地の標識が現れた。遠方を見遣ると観覧車の電飾が灯っている。青年はギアを落とし黒いレディを減速させ、市街地の出口へ駆け抜けた。




 四百キロ近い重量の黒いレディを押し歩く痩躯の青年が裏通りに現れる。レンガ造りの外壁のアパートに向かうと地下駐車場に黒いレディを停めた。近隣の古いアパートと共同なので数多くの車やバイクが停まっている。


 グローブを外した青年はヘルメットを脱ぐ。人魂のように輝く青白い瞳が闇に浮かび上がる。ジャケットのジッパーを下ろすと襟から一本の三つ編みを引っ張り出す。腰まで届く長さだ。それを解くと蒸れた頭を掻く。大分汗をかいている。こしの強い黒髪は普段は伸ばしている。しかし丸一日縛っていたので軽いウェーブが掛かっていた。


 黒いレディの革のサドルバッグからビール瓶を二本取り出すとヘルメットを抱え、地下駐車場を後にした。ホールへ向かい古いエレベーターに乗り込む。そしてヘルニアのように飛び出たボタンの三を押す。ドアが閉じるとモーターが低く唸り武骨な音が響く。青年は鼻を小刻みに動かした。錆びと汗の匂いが混じって不快だ。相棒に土産を渡してさっさとシャワーを浴びて店へ行こう。


 大きく揺れると三階に着いた。エレベーターを出た青年はブーツを踏み鳴らし、端の部屋の前で立ち止まる。入室不可の合図であるキスマークのキーホルダーが掛かってない事を確認してから解錠する。ブーツを脱ぎ、カウンターにヘルメットを置くと暗い短い廊下を歩む。廊下とリビングを隔てるドアの隙間から明かりが漏れていた。どうやら半休をとった相棒はリビングで過ごしてるようだ。青年は小瓶を抱えたままドアを静かに開けた。


 リビングにブロンドの髪の相棒はいた。彼は厳つい背を向けていた。しかし生まれたままの姿で、化粧の濃い女を組み敷きソファで事の真っ最中だった。女の唇から嬌声が漏れる。豊かな胸に唇を寄せていた相棒は青年に気付いた。彼は腰を動かしたまま振り返ると瞳を青白く輝かせて嫌な笑みを送る。


 気を害した青年はドアを閉めた。ブーツを乱暴に突っかけると玄関のドアを勢い良く閉める。階段を駆け下り地下駐車場に戻るとまだ熱を帯びる黒いレディに手を伸ばす。しかし気付いた。ヘルメットを部屋に置いて来た。戻るのは癪だ。諦めた青年はサドルバッグに入っていた残りの二本のビール瓶を抱え夜の街へ繰り出した。


 疲れた体を引きずりつつ河沿いの石橋まで繰り出した。青年は水面に映る街の光を眺める。ルールを守ってくれないので僕が恥ずかしい想いをしたじゃないか。ビールを全部飲んでやろうか。


 ポケットに突っ込んだ携帯電話が振動する。青年は液晶を覗いた。相棒からのメールが届いている。『悪かったって』と一言だけ記されていた。『ルール守ってよ。遭遇すると気不味い』と返信した。そして携帯電話をポケットに突っ込み踵を返す。土産も渡したいしシャワーを浴びたい。しかし携帯電話の振動が歩みを阻む。返信だろう。青年は液晶を覗く。『おう。じゃ二回戦おっぱじめる』


 長い溜め息を吐いた青年は気を取り直すと人気の無い河辺へ降り立った。瓶を地に置くと右手に巻いた包帯を解く。途端に青年は消えた。姿を透過させた青年は護岸のレンガに触れる。レンガが歪むと空間が開く。瓶を抱え歪んだ空間に躊躇いもせず入った。


 暗闇の中にライトに照らされた木製の重厚なドアが佇んでいた。側には小さな白い看板が掛かっている。『ステュクス』と古代ギリシャ文字が記されている。青年はステュクスのドアを開けた。薄明かりが灯る室内にはクルミのカウンターを挟んで色とりどりの酒瓶が所狭しと棚に並ぶ。棚の真上には大きな虫食いの長い一枚板が掲げられていた。間接照明が数多くの酒瓶と一枚板を照らす。


 奥のカウンターに瓶を置くと手慣れた手つきで包帯を巻き、席に座す。するとブロンドの髪をシニヨンにまとめたバーテンダーの女が現れた。長身の女は紫色と鈍色が混じった不思議な瞳で青年の姿を捕える。そして優しく微笑むと妖艶なハスキーボイスで挨拶した。


「いらっしゃいませ、タナトス様。久し振りの休暇は如何でしたか?」


「こんばんは、パンドラ。本名で呼ぶと誰か居たら気不味くなるよ。特にクローンの子孫達が居たら……ね」タナトスと呼ばれた青年は照れ臭そうに微笑んだ。


 瞳を閉じて微笑み、パンドラは頭を下げた。


「失礼致しました。他にお客様はいらっしゃらないのでご安心下さい。では改めましてローレンス様、愛しの黒いレディとの遠出は如何でしたか?」


 ローレンスと呼ばれた青年は頬を緩める。


「うん。ゾクゾクした。馬に乗る以上に心地良かった! 体を風が凄まじい速さで駆け抜けて心臓が置いていかれる感じ。だけど心臓がバクバク鳴ってああ生きているんだなって」


「左様で御座いますか。黒いレディも乗り物好きなローレンス様と共に地上を駆け抜けるのならば幸せでしょう。私もローレンス様の計らいで愛称を付ける事が出来て光栄です」


「本当にありがとう。身許が定かではない僕の必要書類を面倒見てくれたお蔭だよ!」ローレンスは青白く光る瞳を細め、パンドラの冷たい手を握った。


 手を握られ振り回されたパンドラは微笑みを崩さない。興奮から醒めたローレンスは青白い顔を赤面し手を離した。


「ご、ごめん」


「まあ。いいえ」


 パンドラは白い手で口を覆って笑うと、今日は何をお召しになりますか、と問うた。


 ローレンスは四本の小瓶を彼女の前に並べる。


「持ち込みなんて無粋でごめんね。ブリュワリーへ行ってお土産買ったんだ。パンドラにあげるよ。免許や書類の世話をしてくれたお礼には足りないけど、いつか何かで返すから取り敢えずこれは取っておいて」


「まあ、四本もで御座いますか。しかしこれはお勤めのパートナーでいらっしゃるイポリト様へのお土産では御座いませんか?」


「いいよ。あいつったら酷いんだ。僕を揶揄うんだ。ハウスルールを守らないから僕が恥ずかしい想いをしたんだ。このビールは君に飲まれた方が幸せだよ」


「まあ。ご立腹なさったローレンス様を拝見するのは久し振りです。造物主がいらしてローレンス様とお話した半年振りくらいですね」


「意地の悪い悪魔も僕を揶揄うから、ポンポン怒っちゃうんだよ。あ……悪く言ってごめん。悪魔といえども君を作った親だものね」


「いいえ。事実ですし親と言うよりも私にとっては神に近い方ですから」


 パンドラは錬金術によって鋳造されたホムンクルスだった。夢魔のランゲルハンスが女性に化け男に跨がり、採取した精液でパンドラを鋳造した。ランゲルハンスと彼の知人であるハデスの命に彼女は従った。人の死を管理するタナトスとヒュプノスを世話する者……つまりまとめ役として歪んだ空間に拠点を構え雑役をした。知的で優しい彼女の周りには死神達が集い、万の事を相談する。彼女はランゲルハンスに頼み、皆が楽しめるようにとバーを開き死神の社交場とした。


「本当に感謝してるよ。だからこそ受取って欲しいんだ」ローレンスは頭を下げる。


「頭をお上げ下さいませ。私は皆様の笑っているご様子を眺めるが好きで勤めてます。死神の始祖の貴方様に親しんで頂けるなんて、私こそ感謝せねばなりません」


 ローレンスは頭を上げると悲しそうな瞳で微笑んだ。


 彼は太古から存在する死神の一柱だった。本名はタナトスと言った。夜を司る女神ニュクスから生まれた死神は二柱いた。一柱は死の切っ掛けを与え、昏睡状態に陥れる『眠り』を司るヒュプノス。もう一柱は肉体から断ち切れぬ魂の尾を切る『死』を司るタナトスだった。太古の昔は人間が少なく二柱だけで魂を冥府へ運んだ。しかし人間が増えるに従い二柱では仕事に手が回らず死神を増やす他無くなった。


 死神とは忌み嫌われる仕事であり、他に仕事を請け負う者は現れなかった。しかし死はなくてはならない。ヒュプノスとタナトスは冥府の最高神ハデスに相談した。人間と交わり能力を持った子供を生ませ、死を司る仕事をさせよ、とハデスは命じた。多忙に嫌気がさしていたヒュプノスは子孫を増やし仕事をさせた。しかし非業の死を遂げた魂を運ぶ事が多いタナトスは子孫に辛い思いをさせたくないと一柱で仕事を続けた。


 速い大きな歯車と遅い小さな歯車は噛み合わない。当然死のサイクルに支障が出た。ハデスは鍛冶を司る神のヘパイストスに秘密裏にタナトスのクローンを作らせ仕事を手伝わせるよう仕向けた。タナトスは憤り悲しんだが死のサイクルが正常に動作する様を眺め、諦めを感じた。クローンが人間と交わり子孫を作る中、せめて直系の子孫だけは同じ想いをさせまいと女と交わる事を良しとしなかった。一方ヒュプノスの始祖はエリュシオンに迎えられ幸せに暮らした。ヒュプノスやタナトスのクローンの子孫も次世代を作っては交代する条件下で死を認められた。子孫を残さないローレンスは死すら認められなかった。


「やめてよ。僕は年をとり過ぎた臆病者なだけさ」


「いいえ。仕事を続けていらっしゃるローレンス様は勇気のある方です」パンドラは微笑みつつ瓶を頬に寄せると瞳を閉じた。


「……ごめん。それ冷えてないんだ」ローレンスは苦笑する。


「左様で御座いますね。では冷えるまでお土産話をお聞かせ下さい」パンドラは氷と等しく冷たい胸に四本の瓶を赤子のように抱える。


 彼らは酒の肴や共通の知人の話に花を咲かせた。三十分経つと冷たいパンドラに抱かれた瓶は飲み頃になった。パンドラは瓶を高く掲げグラスの中程までビールを注ぐ。泡が落ち着くのを眺めていると重厚なドアが開いた。来店したのは先程女遊びをしていた男、ヒュプノスのイポリトだ。彼は青白く輝く瞳で店内を見渡すと片手を挙げた。


「よっ。悪ぃ悪ぃ。悪かったって」イポリトはローレンスの隣に座すと背を叩く。


「なんでここだと分かったんだ?」ローレンスは泡が落ち着いたグラスに残りを注ぐ。


「じいさんの家出場所っつーたら、アパートの向かいのじじい酒屋かここしかねーだろ?」イポリトはパンドラから冷えたビール瓶を受け取ると一気に注いだ。


「飲んだくれみたいに言うなよ、助平が。それに何度も言うけど僕はじいさんじゃない」


「太古の昔から生きてりゃ立派なじじいだろ。ってか、汗臭ぇな!」


「シャワー浴びようと思ってたんだよ。それを君が変な風に阻止するから汗臭いまま来ちゃったんじゃないか。君だってアレだ、その……なんて言うか、アレだ。男と女の臭い……つまり、アレだ。獣臭い」頬を染めたローレンスはパンドラに聞こえぬように呟いた。


 いい年して頬を染め猥談する相棒を見たイポリトは豪快に笑った。そしてビールを一気に飲み干す。


「っかぁー。仕事終わりのビールは美味い! 女とやった後なら尚更美味い!」


 ローレンスは『レディの前だろう』と窘めた。しかし肝心のレディ・バーテンダーは『それはよろしゅう御座いました』とイポリトに微笑んでいた。変わり者の悪魔が鋳造した所為か、パンドラは少し変わっていた。


 ローレンスとランゲルハンスは古い友人だった。仕事に疑問を持ち嫌気が差していた頃、ローレンスはランゲルハンスと出会った。彼は魔界を追放された夢魔だった。ハデスを裏切ってみないかと囁かれたのが友情の始まりだ。死亡や生命の危機に陥った魂をランゲルハンス島まで運ぶなら面倒を見ようと彼が話を持ちかけたのだ。悔恨残る魂なら悩みの無い国と銘打ったエリュシオンへ送られても満足は出来ない。制限時間はあるが現世に戻るチャンスを与えてやると言うのが彼の言い分だ。


 当初ローレンスは聞く耳を持たなかった。しかしこの世に悔恨残す魂を送る度に優しい心根のローレンスは話が気になった。そしてついに契約を結んだ。ローレンスは数多くの魂の救済する代わりに死後の自分の魂を悪魔に渡す事を承諾した。


 ランゲルハンスは水脈を通じて島へ魂を運ばせた。魂を管理し、一度死に瀕した魂達に救済や死、島への永住権を選択させた。時には悩み時には喜びを感じる心豊かな現世のような生活を送らせた。ローレンスは気持ちを汲んでくれるランゲルハンスを気に入り、ランゲルハンスも聖なるマゾヒストのローレンスを気に入り、友情を結んだ。


 数年経った後に不正に気付いたハデスはローレンスを咎め、悪魔との契約に怒りを露わにした。しかし契約は破れない。形式裁判を行い、ローレンスを厳重に注意した。ハデスは心根の優しいローレンスに重罰を与えられなかった。冥府の最高神とはいえハデスは年長のローレンスに礼を尽くしていた。しかしこれ以上問題を起さぬようパートナーとしてある血筋のヒュプノスを代々監視役につけた。その末裔がイポリトだった。


 ローレンスがグラスに口を付けると、ビールを飲み切ったイポリトがパンドラにもう一本無いかと問うた。


「君ばかり飲むなよ」ローレンスはイポリトを窘めた。


「悪ぃ悪ぃ。しかしパンドラの姐さんも酒飲みだな。グラスが空だ。じいさんはビールでもちびちびとしか飲まねぇもんな」


「イポリト様、残りをシェアしませんか?」パンドラは口を掌で覆い淑やかに笑う。


「そいつは姐さんが飲んでくれ。俺には何かスカッと飲める奴作ってくれよ」


「畏まりました」パンドラは棚からドライ・ジンの瓶を取るとカクテルを作る。


「なあ、じいさん」イポリトはローレンスに話しかけた。


 ローレンスはグラスの五分の一を減らした。胃が弱いので炭酸負けしてゲップが出そうになるが我慢する。


「向かいの酒屋のじじい、そろそろ死ぬぞ」


 ローレンスは眼を見開く。しかしイポリトの真剣な表情を見据え瞳を伏せた。グラスの残りのビールを一気に呷る。


「……そうか」ローレンスはゲップを吐いた。


 カウンターではパンドラが氷を入れたグラスにジンを注ぎ、ステアする。


「午前の仕事はそれだ。知己の人間相手だと慣れた仕事たぁ言えやり切れなくてな。つい商売のおねーちゃん呼んじまったって訳さ」


「あ、そう」


 パンドラはグラスにライムを落とすとジンバックをイポリトに差し出した。


「……死ぬ前にもう一度彼に会いたい。僕の恩人だから」ローレンスは独りごちる。


「個人的な感情で会うのはやめろ。じいさんは情に流され易い」


 ローレンスはハデスに支給された携帯電話を取り出すと液晶を覗いた。死亡日リストには酒屋の老人の名はない。


 イポリトはジンバックを呷るとカウンターに紙幣を置き、店を出た。残されたローレンスは空のグラスを見つめる。ジャズが流れる店内にはグラスを拭く音が響いていた。

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