三章 十一節

 アンジェルはクチバシ医者を抱え木々の中を飛び続けた。抱えたお人好しの男はいつもの大人しい様子とは打って変わって叫び続ける。


「離せ! あの馬鹿を助けないと!」


 アンジェルはクチバシ医者を抱える手に力を込めた。そう思うのはアンタだけじゃないわよ。アタシだって善人の悪魔を救ってやりたい。だけどフォスフォロとケイプの気配が森から消えた今、願いは聞いてやれない。自分はプワソンに騙され悪魔と契約を交わした。泳げる能力と引き換えに悪魔の命に従い力を貸さなければならない。


 クチバシ医者は豊かな胸をどつく。


「頼む! 離してくれ! 友達を助けないと!」


 宙で立ち止まったアンジェルはクチバシ医者を見つめた。


「頼むよ。僕は君の子分だろ。話くらい偶には聞いてくれよ。……あいつは友達なんだ。あいつはそう思ってないけど僕にとって友達だ。皆に囲まれて微笑むあいつを眺めるのが好きだ。放っておけないよ。あいつが土に戻ったらニエだって、キルケーだって、パーンだって、皆悲しむ。僕だって悲しいよ。友達を失いたくない!」


 クチバシ医者の目許の包帯から涙が滲む。


「本当は……君を友達だと思ってる。だから頼むんだ。某かの事情を抱えているかもしれない。無理を承知で頼んでいるんだ。お願いだ! 僕を離して欲しい!」


 アンジェルの視界でクチバシ医者とリュカが重なる。


 ──二度と、会えなくなっても、いいのかい? アンジェルと、俺、友達、だろ?


 俯いたアンジェルは地に足をつけクチバシ医者を解放した。


「ありがとう」


 アンジェルの視界でクチバシ医者とリュカが再び重なる。


 ──ありがとう、アンジェル。


 アンジェルは鼻を鳴らすとクチバシ医者を抱えた。そして来た道を振り向きランゲルハンスの許へと飛び立つ。驚いたクチバシ医者はアンジェルの顔を覗くと微笑んだ。




 金色の大男は新しい剣を引きずり、新雪を歩んでいた。足跡には緑が芽吹き命萌えいづる春の箱庭となった。


 精霊と男を見失った。神力で探したいが遠くへ行ったので捜索出来ない。しかしあいつらは島に居る他無いのだから遅かれ早かれ捕えられるだろう。


 空を見上げる。遠方は厚雲に覆われ小雪が舞う。しかし頭上は不自然に晴れていた。


 疲れた。穏やかな生活を送れると思いきや、まだ神としての使命に燃えるとは。


 生前、大男はある小国の太陽神として崇められた。太陽神自身には性別すらなかった。当時小国を支配した人間は男だった。権力の象徴として担ぎ出すには太陽神は男が良かった。故に男の姿で描かれ、いつしか太陽神自身も男と定めた。太陽神は姿を定められたばかりか勝手に作られた神話も気に入らず、太陽神の花嫁とやらは更に気に喰わなかった。


 太陽神は武芸と狩猟を愛した。夢中になれば自分を忘れられた。大地や山谷に入り弓を取り獲物を射止め食した。一方で命を愛した。大地を駆ける小さな命と共に自らの象徴である太陽が地平線に沈むのを眺めるのも好きだった。彼は孤独を愛した。


 何代もの君主に担がれた太陽神はある君主の命により神殿に住まう事になった。孤独や静寂を愛する太陽神にとって煩わしい所だが人間が決めた事なので従う他無かった。神殿では武芸や狩猟は行われないので退屈な日々を送った。


 流れぬ水は淀みやがて腐る。長く続いた体制は腐臭にまみれ脆弱になった。建国した頃の君主は民草を第一に考え国の発展を願った。しかし近頃の君主は汚職や淫行に耽り、民草は重税に疲弊する。民は太陽神と君主を憎んだ。太陽神を敬う者は次第に数を減らし神殿に仕える巫女の数も激減した。


 太陽神は心を痛めた。人によって生み出された存在にしか過ぎず自ら民草に手を差し伸べられない。餓えや病で倒れる民草を眺める他なかった。彼は当代の君主を憎悪した。己はこの世の全ての善にして全ての悪を許さぬ神だ。太陽神は君主を呪った。悪政を敷く君主を幾代も憑き殺した。


 そんな折変わった外見の女児が神殿に引き取られた。燃え盛る朝日や夕日のような髪色で白い肌をした緑色の瞳が美しい女児だ。もの言えぬ彼女は毎朝夕の太陽神への祈りを欠かさ無い。親代わりの中年の女に優しく接していたかと思えば、中年の女に小言を吐く補佐役の向こう脛を蹴る程にお転婆だ。太陽神は女児を甚く気に入り、彼女を眺める事が日課になった。こんな女なら側に置いても飽く事はあるまいと思った。


 しかし幸福は長く続かなかった。小国は混乱の渦中に投じられた。日照りにより地は割れ作物は枯れ、民草は腐れ病に犯され人を焼く匂いのしない日は一日たりとも無かった。


 新しい君主はこれを太陽神と配下の神々の怒りと判断した。君主は太陽神の花嫁である茜色の髪の女児を生贄として捧げるよう命じた。


 太陽神は顔をしかめた。災害等は自然の摂理であり自分の所為ではない。命を捧げられたとて何もしてやれない。何も出来ない自分に立腹したがどうにもならなかった。


 彼女の命の灯火は消えた。彼女の魂は黒い長髪を翻した黒装束の者に持ち去られた。女児や神官、補佐役が殺され太陽神を心から信じる者は消えた。太陽神は君主や民に憎まれた。人によって殺された彼は女児の魂を追うようにして小国を離れた。程なくして支えを失った小国は隣国に攻め入られ、地図上から名を消した。


 彼女の魂を追った太陽神は闇に包まれた大河を彷徨っていた。黒装束の者を見失い、冥府を彷徨い、戸惑っていた所をハデスに救われた。太陽神は彼女の魂の在所を問う。ここは国を統べていた神が留まる所ではないとハデスは告げ、エリュシオンへ逝くように諭した。そこは神に愛された者や国を追われた神が住む、悩みや不安がない国だ。しかし太陽神は首を横に振る。最期まで自分を信じた女児に会いたいと。説得を諦めたハデスは彼女が行く予定のランゲルハンス島へと太陽神を送った。


 黒い森に腰を落ち着けた所に来たのが悪魔だ。話を聞き出した悪魔は共に手を取り暮らさないかと持ち掛けた。太陽神は足を着ける地が悪魔の体である事実に愕然とした。悪と手を結び悪の体に住まう事など以ての外だ。しかし彼女の魂が島に運ばれる事をハデスに聞いていた。舌を噛み千切りたい衝動を抑え悪魔を追い出し彼女が現れるのを待ち続けた。


 賑やかな場所は嫌いなので森での生活は居心地が良かった。武芸に励み、狩猟し気ままに暮らした。やがて孤独を愛する金の鹿と友になり時折共に眠った。それが彼に許された唯一の慰めであった。


 ある日、三元の精霊が現れた。風の精霊、火の精霊、水の精霊だ。彼らのまとめ役の火の精霊は微笑み、仲間になりたいと伝える。かつて自分の配下の神とされていた四元素と姿を同じくした精霊に太陽神は問うた。何故、土の精霊はこの場にいないかと。


 精霊達は返答に困る。


 悪魔の差し金だと気付いた太陽神は怒りを露わにし、剣で火の精霊を突く。精霊達は消えた。悪魔の仕業に違いない。


 太陽神は疲れ切っていた。担がれ憎まれ、この島でも宥めすかされるのは心が痛い。いっそ死にたいがこの島では神は神にしか殺せない。自分を葬る者など誰もいない。しかし流れを止めた水のように淀んで腐る事だけは高いプライドが許さなかった。腐って神として形骸化するならば悪を滅してからだ。女児の魂も第二の生を得て暮らせるのならば執着はしまい。狂気に黒ずみ理性を捨てた彼にとって唯一の望みは、不死の悪魔を永遠に殺し続ける事だった。


 ……その為には悪魔の金魚の糞が邪魔だ。きっと助けに来るだろう。


 立ち止まった太陽神は剣を新雪に突き立てクチバシ医者を思い出す。無二の友の鹿に礼を尽くし、剣を抜かず声を掛けたあの男は、初めて声を掛けた時の悪魔に似ていた。あの男は何者なのだろうか。白い息を吐き、腕を組んで思案するが答えは出ない。


 まあいい。仲間とすれば殺すまでだ。太陽神は剣を引き抜くと歩みを進めた。

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