三章 十節

 真っ新な雪道にブーツを踏み下ろす音だけが聞こえる。ランゲルハンスとクチバシ医者は白い息を吐く。黒い森はその名の通り黒い樹皮の針葉樹が並び、白銀の世界にコントラストを与える。しかし白い空から降る雪に針葉樹は霞む。


 大分歩いた気がする。クチバシ医者は息を弾ませる。黒い森に入ってから何時間経ったのか何処に居るのか、歪んだ空間では見当もつかない。ひたすらランゲルハンスの後を追いかける。大男のランゲルハンスは大股で新雪を足早に進む。しかしクチバシ医者は彼程背丈がないので足跡を頼りに進む。追うだけなら楽だが気を抜くと凍土に足を捕えられる。柔らかい新雪に背から転び黒いコートや青いマフラーに雪が被る。


「雪と戯れる程に余裕があるのだな」振り返ったランゲルハンスは喉を小さく鳴らし笑う。


「馬鹿言え。僕は寒いのが大っ嫌いだ。背が引きつりそうになる」クチバシ医者は衣服と長い黒髪に付いた雪を払うと再び足跡を踏みしめる。


 ランゲルハンスは鼻で笑うと再び歩む。そして髪や肩に薄く降り積もった雪を払った。


「何処まで歩くつもりなんだ?」クチバシ医者は問う。


 振り返ったランゲルハンスは唇の前に人差し指を立てる。近くの針葉樹の樹皮を指差して小声で語りかけた。


「見給え、樹皮が剥がされている。食料が尽きて栄養価が低い樹皮を喰った跡だ」


 ランゲルハンスは樹皮に鼻を近づける。


「……古くはないようだ。クチバシ医者よ、ドラゴンの娘の髪を出しておき給え」


 クチバシ医者はアクアマリン色の髪文字を取り出す。髪文字は艶やかに輝く。


 針葉樹が姿を現す度にランゲルハンスは具合を調べて回った。手持ち無沙汰になったクチバシ医者は握っていた髪文字をなんとなく鼻に近付た。甘い香りがする。


「止め給え。香りの成分が抜ける。劣情を催すなら赤ずきんと二人きりの時にし給え、オオカミ君」鼻を鳴らしたランゲルハンスは幹を撫でる。


 髪文字を下ろすとクチバシ医者は気不味そうに笑った。


「なあ」


「何かね?」


「昨日、古い神に出会ったら一戦交えるかもしれないって言ったよな。……話し合いで互いの落ち所を見つけられないのか?」


「……以前私が森を所有していた時に突然貴奴が住み着いた。ニエが島に来るより少し前の話だ。貴奴は水脈から現れた訳では無い。四大精霊と私以外に水脈以外から現れた者などいなかった。私は話を聞く為に当時は誰でも立ち入る事が出来た森に足を踏み入れた」


 雪が舞い落ちる空をランゲルハンスは見上げる。


「貴奴には名は無かった。しかし記憶はある。貴奴が言うにはある小国で崇められた主神らしい。神とは人間が生み出した絶対的権力の象徴にしか過ぎない。貴奴は権力者に悪用された。小国の民は治まらぬ天災や事故、圧政に苦しみ、貴奴を憎んだ。一方神に仕える事を生業とする者は貴奴を愛し敬った。しかしある事件により神官が殺され生贄も汚されかけた。信仰は完全に破綻し、圧政を敷いた国王も外部侵略によって殺された。生きる場所を失い、ある者によって島に導かれた事を打ち明けた」


「ある者って?」


「私は哀れな神に手を差し伸べた。しかし貴奴は私を憎悪した。無理も無い。私は悪魔だ。貴奴の信仰は悪を憎み正義を為す事で魂の救済を掲げたからな。交渉は決裂し戦闘になった。認めるのも口惜しいが貴奴は凄まじく強かった。私は辛うじて荒れ地に逃れついた。そして森に結界を張り魔術師以外が立ち入れば二度と出られないようにした。無論貴奴は黒い森から出て来る事はなかった」


 ランゲルハンスは溜め息を吐く。


「……しかしこのままではいけないとも考えた。貴奴の配下である四柱神に似た三大精霊を送り話し合わせた。しかし貴奴は私の差し金と気付き激昂した。怒りの矛先はまとめ役のフォスフォロに向かった。貴奴は彼の霊力を弱めた。千里眼で一部始終を見ていた私は術を使い、三大精霊を引き上げさせた。……フォスフォロには悪い事をした」


 クチバシ医者は風呂上がりにビールを呷るフォスフォロのグロテスクな尻尾を思い出す。


「だから……僕をフォスフォロの許に送り、剣を習わせたのか?」


「復讐心が何を為せるというのかね? 彼の器は小さな物ではない。あくまでも自分を守る剣だ。……君を殺させはしない。何があっても私を信じてくれ」


「なんだよ、死戦に赴くみたいな事言ってるんじゃ」


 ランゲルハンスは唇の前で人差し指を立てクチバシ医者の言葉を遮った。クチバシ医者はランゲルハンスが顔を向けている先に注意を向ける。


 いつしか雪は止んでいた。金色の光が黒い木々の間から新雪を照らす。光源が近付く。


「いよいよお出ましだ。古い神に愛された魅惑の鹿殿だ」ランゲルハンスは一歩引いた。


 新雪を踏みしめる音と共に白い瞳の金色の鹿が現れた。体表から金色の粒子を放っている。凛とした鹿は二人の男を見かけると瞳を細めてお辞儀をした。鹿の神々しさと愛らしさに魅了されたクチバシ医者はお辞儀を返した。


 ランゲルハンスは呆れる。


「眼を置いて来た君が当てつけられて如何するのかね?」


「……全くだ。肉眼で見ていたらいつまでも一緒に居たくなるに違いない」


「ドラゴンの娘の髪で惹き付けろ。その間に角を少し拝借し給え」


 ランゲルハンスはクチバシ医者の背を押す。クチバシ医者は転びかけたが体勢を立て直し鹿に近付いた。鹿は鼻を鳴らす。クチバシ医者は再度深くお辞儀すると声を掛けた。


「こんにちは。僕はクチバシ医者。君を探していたんだ。僕の話を聞いて貰えるかな?」


 ランゲルハンスは片手を額に当てる。違う、そんな事をしろと言ったのではない。


 鹿は徐に瞳を閉じ、開けた。クチバシ医者は膝を折る。


「素敵な角を分けて貰えるかな? ほんの少しで良いんだ。大事な友達が床に臥せっているんだ。角があれば薬を作れる。そこの大男や大男の奥さん、僕の大事な友達は皆、病気の友達に元気になって欲しいって願っているんだ」


 瞳を閉じた鹿は思案するように佇む。暫くすると瞳を開けて首を下げ、角を差し出した。


「分けて貰っても良いのかい?」


 クチバシ医者が問うと鹿は徐に瞳を閉じ、開けた。


「ありがとう」


 クチバシ医者は振り返る。ランゲルハンスは術で出した糸鋸を持って腕を組んでいた。


「親切な鹿だな。分けてくれるって」クチバシ医者は微笑む。


「君は何処までも優しい男だな。まるで天使か聖人様だ。君の願いなら鹿も聞きたくなる。いや、優しさよりも体が清いのが受けたのか?」ランゲルハンスは糸鋸を差し出す。


「童貞で悪かったな」


 糸鋸を引ったくったクチバシ医者は首を下げる鹿に髪文字を差し出した。


「現れたのが男でごめんね。ここに来られなかった女の子の髪を持って来たんだ。姑息な手を使って君を呼び出してごめん。それだけ事態は逼迫してるんだ。でも髪を切った女の子にとって重大な決心なんだ。彼女の気持ちに免じて僕達を許して下さい」


 鹿は髪文字の香りを嗅ぐと口に入れて咀嚼した。


「どうしよう、食べちゃった。お腹壊さないかな?」クチバシ医者は振り返る。


「神に愛された鹿だからな。平気だろう」


 クチバシ医者は微笑むと角に手を添え糸鋸で少しばかり断った。角の先を切除されている間、鹿は瞳を閉じて大人しく頭を垂れていた。角を切り終わると頭を上げた。


「ありがとう。これで友達は助かるよ。君のお蔭だ」


 鹿は鼻を鳴らすと尻を向ける。森の奥へと消えた途端、再び雪が二人の男の肩に舞い落ちる。


「何が起こるか分からない。早急に離脱する。腕に掴まれ」


 ポケットに角の破片を仕舞ったクチバシ医者は歩み寄る。その刹那新雪に日が反射し辺りが光に包まれた。空が晴れ渡る。立ち止まったクチバシ医者は辺りを見回すが血相を変えたランゲルハンスに乱暴に腕を掴まれ引き寄せられた。


「遅かったか!」舌打ちしたランゲルハンスはクチバシ医者を背後に隠す。


 息する間もなく、ランゲルハンスと同じ背丈の大男が現れた。金色の光を放った大男はランゲルハンスに肉薄する。


「逃げられると思ったか? 一瞬の希望からの絶望の味は甘美だろう?」


 冷たい息を吹きかけられたランゲルハンスは顔をしかめる。彼の背からクチバシ医者が顔を出す。金色の大男は白い瞳でクチバシ医者を見つめた。


 クチバシ医者は声を失う。金と白い絹の衣装を纏った大男の容貌はランゲルハンスに瓜二つだ。しかし纏う雰囲気はランゲルハンスの幽玄で清廉な物とは違い、生の力に溢れてはいたが何処か黒ずんでいた。


「……き、君が古い神なのか?」出した頭を掴まれて戻されそうになりながらもクチバシ医者は金色の大男に問うた。


「誰の許しを得て口を開く?」


 眼を細めた大男は人差し指を弾く。するとクチバシ医者は金色の刺縄で後ろ手に縛られ膝を折り、新雪へ頭を伏す。悲鳴を上げたいが某かの力によって口を閉ざされた。


「相も変わらず力技を使うのだな」足許で膝を折るクチバシ医者を見遣りつつランゲルハンスは大男に声を掛けた。


「何故、許しを得ずしておれの鹿の角をくすねる?」


「善良な男が鹿に許可をとった」縛されたクチバシ医者をランゲルハンスは足蹴にする。


「許すものか! 三大精霊とやらを仕向け騙そうとするばかりか供物をくすね汚したな!?」


「騙すつもりは毛頭ない。君の配下の神に近い三大精霊ならば心を開くと思ったから丸腰で寄越した。ニエは私の井戸から現れた。ルールはルールだ。記憶を取り戻した彼女が君の許へ駆けつけなかったのならそれまでだ」


「それでも供物は供物だ! 悪魔ごときが触れていい物ではない!」


「それは残念だったな。君の許へ仕向けるように努力はしたがね。とうとう手を付けてしまった。愚かで優しくて可愛い妻だよ全く」ランゲルハンスは喉を小さく鳴らし笑う。


「下郎が!」


「何とでも言い給え。彼女の身にもなれ」


 ランゲルハンスは背を向け屈んだ。金色の大男は天を仰ぐと喉に手を突っ込む。体液にまみれ嫌な光を放つ一振りの剣を咽頭から引き抜く。クチバシ医者は拘束を解くランゲルハンスに注意を促そうと、開かぬ口から声を上げた。


 剣を握った金色の大男の影が忍び寄る。


 金色の刺縄で掌に傷をつけたランゲルハンスは口内で術を詠唱し、大男の方へ素早く振り向く。そして傷口に息を吹きかけ、滲み出た血液を大男の顔面に飛ばした。舞った血飛沫は無数の遣い魔に変わる。遣い魔達は大男の顔面に張り付くと視界を阻む。


 大男が遣い魔達に気を取られている内にランゲルハンスはクチバシ医者を解放し、逃げるように促した。


「置いて行けるかよ!」クチバシ医者は怒鳴る。


「行くんだ! 私が時間を稼ぐ。結界は一時的に解いた。真っ直ぐ走れ。ニエに角を渡せ。ニエなら製剤出来る!」


「馬鹿野郎! 友達を置いて行ける訳ないだろ!」


「早く行け! この鳥頭がっ……」怒鳴り返した瞬間ランゲルハンスは体勢を崩し筋骨逞しい背を丸める。背には剣が刺さっていた。


 二人の前で大男が仁王立ちする。彼は背から剣を引き抜くと白い瞳を細めて血を嗅ぐ。


「誕生日が命日なんて愉快だなぁ、ランゲルハンス」


 クチバシ医者に支えられたランゲルハンスは口から血を流し、しかめ面を上げる。


「ああ、貴様は死なぬのだったな? 不死故に治癒の術も掛けられない。ぞくぞくするよ。永遠に悪魔をいたぶり、神としての正しき光を示せるなんて」大男は微笑む。


 よろめき後退ったランゲルハンスは唇の片端を引き上げ笑むと血を新雪に吐き付けた。そして血脈である井戸の管理者の名を叫んだ。フォスフォロ、アンジェル、ケイプは吐き付けられた血から各々の元素を象った霊体で現れた。


「力を貸してくれ」火焔を象った男、水鞠が集まった女、花弁を巻き上げる風を象った男にランゲルハンスは顔を向ける。


 フォスフォロとケイプは一も二もなく金色の大男目がけて飛び掛かる。しかしアンジェルは血達磨のランゲルハンスの方を向き静止していた。


「頼む」体勢を崩したランゲルハンスは新雪に片膝をつき頭を下げる。


 水鞠を飛散しつつアンジェルは飛び立ち、呆然とするクチバシ医者を捕えた。眼にもとまらぬ速さで戦場を離脱し森の出口を目指す。抱えられたクチバシ医者は叫び、暴れた。


 フォスフォロとケイプは大男の両腕を捕え、動きを封じる。すかさずランゲルハンスは長い詠唱をする。しかし大男は縛を振り切る。精霊は直ぐに体勢を立て直した。疾風は烈風と化し大男を切り付け、火焔は業火と化し肉を焼く。しかし大男が光り輝く左腕を払うと精霊は光の粒子と化し霧散した。剣に付いた血を払い大男はランゲルハンスへ歩む。


 顔をしかめたランゲルハンスは口を閉ざす。すると大男の剣が作った血溜まりから血色の瞳を煌煌と輝せる三つ首のヘルハウンドが出現した。血糊がこびり付き、牙が覗く口から火焔と涎を垂らしたヘルハウンドは唸る。


 ランゲルハンスが顎を引くのを合図にヘルハウンドは大男の喉笛に襲いかかる。鋭い牙が捕えようとした刹那、大男は三つ首の付け根に手を掛ける。手の甲に血管が浮かぶ。小刻みに震えるヘルハウンドが苦悶の鳴き声を上げる。骨が折れる嫌な音が辺りに響く。ヘルハウンドは黒い粒子となり宙に霧散した。


「時間稼ぎは終わりか?」片膝をつき詠唱を続けるランゲルハンスを大男は見遣る。


 肩を上下に揺らし荒い呼吸をするランゲルハンスは口から血を滴らせる。唇を引き結び金色の大男を見上げた。白い息を吐き詠唱を続けた。


「……光、古より影蝕まん。されど影無くして姿を示せぬ。さてまた四元も相対す物無くして姿を示せぬ。光は光に。影は影に。風は風に。火は火に。水は水に。土は土に。共に生まれ、共に帰らん。今、その姿をば我に示せ」


 ランゲルハンスは天に向かって咆哮した。顔や手の皮膚から血管が脈を打ちつつ浮き上がり、眼窩を覆う包帯は破れ口から血と体液を滴らせる。コートの背が破れ、逞しくしなやかな漆黒の翼が現れた。空洞の眼窩から小さな遣い魔達が飛び出し、裂けた口からサーベルのような犬歯を剥き出す。犬歯同様に伸びた爪は血糊がこびり付き、闇色の髪から山羊の角が覗く。引き締まった尻から鞭のような尻尾が現れた。


 理性を失った彼は悪魔そのものだった。先程まで暖かい血液を送っていた心臓は熱を失い、冷たくなっていた。


 間合いを取った大男は剣を構える。


 再び天に咆哮したランゲルハンスは自分を貫こうとする剣を物ともせずに牙を剥き大男に襲いかかった。鋭い左手の爪が頭を捕え牙は喉笛を狙い、右手は心臓を捕えようとした。


 その刹那、ランゲルハンスの胸の内で声が響いた。


 ──止めて!


 愛する妻の声に理性を引き戻され、動きを止めた。


 ──アロイス、止めて下さい。あなたがあなたに戻れなくなります。


 ランゲルハンスは大男から左手を離すと自らの胸に触れた。かつてパーンに刺され、ニエの髪で傷口を縫合した痕が熱を帯びている。彼は眼窩から一筋、涙を流した。


 大男は隙を突き、間合いを取るとランゲルハンスを貫く。胸と手を貫かれたランゲルハンスは崩れ落ちる。新雪に血溜まりが広がる。冬バラを思い起こさせる程に鮮やかな大輪の血溜まりだ。大男は鼻で笑うとアンジェルがクチバシ医者を連れ去った方向へ歩んだ。彼が姿を消すと再び空は白くなり小雪が舞い落ちた。


 新雪に身を委ねるランゲルハンスの頭から角が消えていた。貫いた剣は墓標のようだ。


 最後の力を振り絞り、彼は妻の名を呼ぶと長い息を吐いた。投げ出された左手の薬指の指輪が光る。降り積もる小雪は一人の悪魔を優しく包み込んだ。

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