三章 九節

 目覚めたクチバシ医者はカウチから身を起こす。結露した窓を手で拭うと雪が積もっていた。空は白い。クチバシ医者は伸びをした。サングラスを掛けると階下へ向かいフォスフォロが作ったスクランブルエッグを人魚と共に食べた。隈を作った人魚は付け合わせのパセリを睨みつつ咀嚼する。


 朝食を終えるとクチバシ医者はキルケーの寝室へ出向いた。青ざめた顔で眠るキルケーに向かい独りごちる。


「キルケーの夢を見たんだ。木の精のキルケーは皆の心配ばかりしていた。ユウが言った通り皆のお母さんみたいだ。……二度も死なせやしない。今度は僕達がキルケーを救うよ。だからもう心配を支えにするのはやめてくれよ。家族と笑い合う事を支えにして生きてよ」クチバシ医者は冷たいキルケーの手を握る。そして青白く光る瞳から一筋涙を流した。


「挨拶は終わったかね?」背後でランゲルハンスの声がした。


 キルケーの手を握り締めたままクチバシ医者は振り向かずに声をかける。


「……恥ずかしい所を見るなよ。もっとタイミングを見計らって来い」


「グッドタイミングだから声を掛けたまでだ」ランゲルハンスは唇の片端を上げる。


「もう発つのか?」クチバシ医者はキルケーの手を放すと立ち上がった。


「我が家に寄って支度をする。……君はとても汗臭いな。これでは鹿どころか人すら近寄らないと思うがね」


「じゃあ風呂貸してくれよ」


「構わん。手術前には身を清めなくてはならないからな」


「……手術?」クチバシ医者は眉をひそめる。


 ランゲルハンスは溜め息を吐く。


「……まさか両眼を引っさげたまま魅惑の金の鹿と対峙しようと思っていたのかね? 鹿と生身の眼が合えば地の果てまで追う事になるぞ」


「目隠しすればいいだろ!」


「古い神に取り上げられたらどうするつもりかね? 眼を取った所で問題無い。見てはならぬ物を見るという罪を犯したニエとて私が摘出した。ほぼ全ての物が見える」


「ほぼ全てが見えるって……罰にならないだろ」


「一番見たいものを見られないと言う罰だ。術を掛けた。摘出した眼球は罪を見つめる為のモチーフだ。彼女が何を見られないか知らないがね。安心し給え。取り出した眼球は入れ直してやる」


「……ニエは優しすぎるな。もし僕が弟子なら結婚なんて考えに及ばないよ」


「ニエは私の上を行く悪魔だ。片眼を奪ったからな」ランゲルハンスは肩をすくめる。


「え。何それ?」


「何だ? 君の夢日記に記されていないと思えば知らなかったのかね?」


「勝手に読むな!」憤慨したクチバシ医者はランゲルハンスの黒いルパシカの胸許を掴む。


 喉を小さく鳴らし笑うランゲルハンスはキルケーを見遣り『行って来る、お袋殿』と独りごちた。そして術を使いクチバシ医者諸共消えた。


 部屋には青ざめ眠るキルケーが微笑を浮かべていた。




 クチバシ医者が風呂から上がると既にランゲルハンスは隻眼を摘出していた。ニエが彼の空っぽの眼窩から流れる血を拭い、包帯を巻く。エメラルド色の両眼が入ったビーカーの隣には、鈍色の隻眼が入ったビーカーが並んでいた。夫婦のようだ。その側には一振りの剣が立てかけられていた。


 カウチに座すランゲルハンスはクチバシ医者に気付くと、血流が速いので時間を置いてから摘出する旨を伝えた。クチバシ医者は歯医者の待合室に居るような気持ちになり、包帯を巻いたランゲルハンスの眼窩を睨む。


「案ずるな。手ずから君の眼を取り出してやる」ランゲルハンスは微笑む。


 クチバシ医者は顔をしかめ丸椅子に座す。


「お前だからこそ心配だ。……痛いのか?」


「痛いのが良ければニエを薦める。不肖の弟子故に特別に痛いぞ」ランゲルハンスはニエに頬をつねられる。クチバシ医者は笑った。


 ランゲルハンスは鼻で笑う。


「処女の髪の件はどうなっているのかね?」


「……ユウには速達で報せた。だけどポストを覗いたら郵便物は無かった。察してくれ」クチバシ医者は俯いた。


「まあいい。無いならば時間はかかるが鹿殿にはこちらから出向くまでだ」立ち上がったランゲルハンスはクチバシ医者のサングラスを外し戸棚に入れる。そしてウィスキーに浸した脱脂綿を大きなピンセットで掴み、彼の眼の周りを消毒した。


「おい。血流が落ち着いてからやるんじゃないのか?」クチバシ医者は問う。


「気が変わった。ニエ先生と同じく痛くしてやるとしよう」


「この悪魔が!」


 ノックの音が響いた。来客に救われたクチバシ医者はサングラスを取りに行こうと立ち上がろうとする。しかしランゲルハンスが肩を片手で掴んでいるので身動きが取れない。


 素顔のクチバシ医者を気にとめずにニエはドアを開いた。そこには赤いコートを着てフードを被ったユウが顔をしかめて佇んでいた。ユウは素顔のクチバシ医者と視線が合う。琥珀色の瞳が見開かれた。しかし直ぐに険しい表情に戻ると足音を鳴らしてクチバシ医者が座す丸椅子へ無遠慮に近付いた。ランゲルハンスはユウのただならぬ怒りに気付くと場所を譲った。


 クチバシ医者と対峙したユウは青白く光る瞳を睨むと手を上げ、頬へ思い切り振り下ろした。クチバシ医者の頭の中で大きな音が鳴り響く。


 呆気にとられて眺めていたニエは口を手で覆う。彼女は肩に掛けたショールを落とした。ランゲルハンスは眉も動かさず眺めていた。


 瞳を潤ませクチバシ医者を睨みつけるユウは振り下ろした手を震わせる。クチバシ医者は引っ叩かれた方向に顔を向けたまま眼を伏せる。


 頬に一筋涙を伝わらせるとユウはポケットに片手を突っ込む。髪を束ねて作った髪文字を取り出すとクチバシ医者の頬に投げつけた。髪文字が彼の膝に落ちるのを待たずしてユウは踵を返す。ドア目がけてひた走り家から飛び出した。ニエは玄関に掛けていたモスグリーンのコートを引ったくるとユウの後を追いかける。


 クチバシ医者は膝に落ちた髪文字を見つめると優しく拾い上げた。


 ニエは街へ続く荒れ地の道でユウを見失った。こんな時は一人にしてはならない。ニエは泣きじゃくる自分にプワソンが胸を貸した事を思い出し、耳を澄ましユウを探す。


 洟をすする音が聞こえた。広大な花畑からだ。雪に埋もれかけた真っ赤な冬バラの茂みで赤いコートの塊が震えていた。身を潜め泣きじゃくるユウに近付くと背を優しく撫でた。


 ユウは徐に顔を上げた。琥珀色の瞳に溢れんばかりの涙を溜めている。


「……ニエねーちゃん」ユウはニエの肩に顔を埋めて泣きじゃくる。


 赤いコートのフードを下ろし、ニエはユウの短くなった美しい髪を撫でた。ランゲルハンスから事の顛末を聞いていた。ユウを芯が強い女性だとニエは心から尊敬した。アロイスに突き放されていた時にこんな事を頼まれたら髪を差し出せただだろうか。どんなに傷つくだろうか。長い髪を切るなんて一大決心だ。ついこの間まで少女だったユウが決するとはなんていじらしいのだろう。ニエは包帯に覆われた眼窩から涙を頬に伝わらせた。


 暫くしてユウは落ち着きを取り戻した。


「……ニエねーちゃん、ありがとう」眼の周りを赤く腫らした彼女はニエを見上げる。


 頷いたニエはモスグリーンのコートのポケットからクチバシ医者から預かった小さな箱を取り出してユウに渡した。


「これなあに?」


 微笑を浮かべたニエはユウの掌に『クチバシ医者から貴女へ』と綴った。


 ユウは白いリボンを解きロイヤルブルーの包み紙を剥がすと蓋を開ける。雪の結晶を象ったチョーカーが現れた。


「……覚えていてくれたんだ」瞳を潤ませたユウはチョーカーを首に掛けた。


 ニエは微笑み手を差し伸べた。頷いたユウは手を取りランゲルハンスの家へと向かった。


 両眼を摘出され包帯を巻かれたクチバシ医者は俯き、髪文字を握りしめていた。テーブルには眼球が入ったビーカーが三つ並んでいた。左端のビーカーには青白く輝く虹彩をした二つの眼球が沈んでいる。ランゲルハンスは消毒を済ませた道具を戸棚に仕舞っていた。


 玄関のドアが音もなく僅かに開く。


 ニエが様子を窺うと徐にドアを開いた。玄関に入るとニエの背に隠れるようにしてユウが入る。それに気付いたランゲルハンスは術を使って姿を消した。ニエはユウの肩を軽く叩くと足音を忍ばせ二階へ上がった。


 クチバシ医者の心は何処かを彷徨っているようで全ての気配に気付かない。


「トリカブト」ユウはクチバシ医者が座す丸椅子に歩み寄る。


 意識を引き戻されたクチバシ医者は漆黒の長髪を揺らして顔を上げた。


 互いが顔を向け合う。優しい静寂だ。しかしその静寂をクチバシ医者は破った。


「綺麗だ。そのチョーカー、よく似合っているよ」


 ユウは頬を染める。


「あ、ありがとう」


 クチバシ医者は微笑む。


「君が想ってくれた男がこんな顔でごめん」


 首を横に振ったユウは最愛の男を見つめる。


「さっき見た時は驚いたけど……私、あなたの顔も好き。あなたの包帯巻いた優しい手も好き。あなたが好き。片想いでも構わない。あなたを好きでいたい」


 既視感に捕われた。クチバシ医者は何かを言おうとしたが直ぐに忘れ、口をつぐみ悲しそうに微笑んだ。小さな溜め息を吐くと言葉を紡ぐ。


「……あの時言えなかった言葉を言うよ。ユウは本当に綺麗だ」


 鼓動を高鳴らせたユウは瞳を潤ませ足許を見つめる。クチバシ医者は立ち上がり剣と黒いウールのトレンチコートを取り彼女の横を素通り外へ出た。ランゲルハンスとニエが道に佇んでいた。ランゲルハンスはニエに何かを囁く。ニエは表情を曇らせたが夫を信用して頷いた。微笑んだランゲルハンスは妻を優しく抱き寄せキスを深く落とした。


 現場に立ち会ったクチバシ医者は急いで明後日の方向を向く。彼の存在に気付いたランゲルハンスがニエの唇から徐に口を離すと悪戯っぽく微笑んだ。


「支度はもういいのかね?」


「ああ。邪魔して悪かったな」


 夫の腕から離れたニエが頬を染める。ドアが開きユウが現れた。ニエはユウへ近寄る。


「思い残す事はないかね?」ランゲルハンスは問う。


「死地に赴くみたいに言うなよ。……色々あるよ。だから僕は戻って来る」


 ユウはクチバシ医者を見つめる。


 ランゲルハンスはニエに向かって『後を頼む』と手を挙げると、黒いコートを翻し黒い森へ続く雪道を歩む。クチバシ医者はユウに微笑みランゲルハンスを追いかけた。


 男達の背を二人の女はいつまでも見送った。

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