三章 八節

 屋敷の大客間でクチバシ医者は夜半まで稽古をつけられた。


 くたびれ切ったクチバシ医者は暗い二階の客室に戻る。ピューロに片肘を突き、カウチに座し降り積もる雪を眺める。


 手加減をしないフォスフォロの稽古に耐えて少しは様になったが風呂に入るのも億劫な程に疲れた。汗だくの体で横になればインテリアを愛するキルケーが憤慨するに違いない。怒られても良い。もう一度話をしたい。皆に囲まれ笑うキルケーをもう一度見たい。


 枝付き燭台の火が揺らめく。廊下の古時計が十二時の鐘を打つ。いよいよ明日が今日になった。少し眠れば鹿を探しに行かねばならない。下手すれば好戦的な神と剣を交えなければならない。憂鬱だ。


 気を紛らわす為に便箋を手に取るとこの間見た夢を綴ろうとペンを取る。日付を記そうとして手が止まる。先程日付が変わった。今日は何日だろうか。アールヌーボー調の卓上カレンダーを見遣ると十二月二十五日だった。


 クリスマスか。多々ある信仰の一つである神の子の誕生日か。ランゲルハンス島では信仰心を持つ者、持たざる者、神と対極的な立場に居る者、様々な者がこの日を過ごしている。黒い森の古の神もこの日を過ごしている。


 人々に生み出され担がれ、都合が悪くなれば捨てられ朽ちるのは想像を絶する孤独だろう。人々を愛し教えを説いても時代と共に曲解され、歪んだモチーフとして担がれるのは身を焼かれる屈辱だろう。幸せを与えるでなく在り方を説き、期待されるだけ期待され人々から憎まれるのは八つ裂きにされる程の苦痛だろう。


 黒い森の古の神をクチバシ医者は知らない。しかし神の胸中を察すると心根の優しい彼の胸が痛み、青白く光る瞳から涙が一筋流れた。


 クチバシ医者は瞳を閉じた。




 その晩もクチバシ医者は夢を見た。


 緑深い森に一本の巨木が生きていた。幹は脆弱だが三人の大人が手を繋いで囲える程の太さだ。巨木は無数の枝を天へ差し伸べる。葉が生い茂る枝では鳥が歌い、虫達が生活する。足許では多くの根が土から顔を覗かせる。根元は化粧を施したように苔が生えていた。


 二人の少年と一人の少女が森に現れた。ブルネットの少年は木登りが得意らしい。彼は巨木へ駆け寄り、幹に足を掛け太い枝に腕を伸ばし登る。地上から足を離すと小鳥達は驚いて飛び去る。粗末な服を着たブロンドの少年と少女は身長の何倍もの高い位置にいるブルネットの少年を見上げ笑顔で拍手を贈った。柔和な顔立ちのブロンドの少年は焚き木を抱えていた。その隣の少女は少年のシャツを握り、微笑んでいる。


 ブルネットの少年は太い枝に膝を掛け逆さ吊りになって手を離した。高価な服のポケットから懐中時計やチョコレートボンボンが落ちる。少女は瞳を覆った。眉を下げたブロンドの少年は逆さ吊りするブルネットの少年に今直ぐ降りるよう勧めた。


 しかしブルネットの少年は勧告を無視した。彼は上半身を揺らしおどける。危ないから止めて欲しいと少女は懇願する。ブロンドの少年は今直ぐ降りるように大声で忠告する。


 穏やかな友人を怒らせた事に気不味くなり、ブルネットの少年は巨木から降りようとした。体を起こそうと上半身に勢いをつけた瞬間、バランスを崩して落下した。少女は悲鳴を上げ、ブルネットの少年は瞼を閉ざす。しかし固い地上に嫌な音は響かなかった。


 葉を茂らせた太い枝に受け止められブルネットの少年は呆然としていた。落下した瞬間に黒髪の美しい女性が見えた。無茶はおよし、と微笑んだ気がした。彼女は直ぐに消えた。


 ブロンドの少年が駆け寄り声を掛ける。先程よりも低い位置にいるブルネットの少年は我に返り、無事を伝え謝った。そして体勢を立て直し巨木から降りる。駆け寄った少女がブルネットの少年に怒る。ブルネットの少年は『ごめんごめん』と笑った。三人は踵を返し巨木を後にした。振り返ったブルネットの少年が巨木を見上げる。あの美しい女性は居なかった。葉が風にそよぎ歌を奏でるだけだった。


 三人は時折巨木の側で戯れた。いつも小鳥や野うさぎ等の動物達が集まっていた。焚き木拾いの途中で、木の実拾いからの帰りで、叱られて気不味くなって、様々な都合で立ち寄ったが飽きる事は無い。ブルネットの少年はその都度巨木に昇った。自分を助けた美しい女性にお礼を言いたい。しかし会えなかった。


 時は過ぎ少年達は大人になった。ある年大嵐が来た。畑の麦は薙ぎ倒され村の家は殆どが全壊した。森では幹の中が脆くなっていた年寄りの巨木も倒れた。


 嵐は過ぎた。少年から成長したブルネットの青年は家族を失い、家を失い行く宛も無く巨木の前に佇む。青年の足許では幹を横たわらせた巨木が亡骸を晒していた。ブルネットの青年にブロンドの青年と乙女が歩み寄る。ブロンドの青年はブルネットの青年の震える肩を叩くと自分の肩を貸す。乙女は横たわった幹を撫でた。


 数ヶ月後ブルネットの青年は森に家を建てた。町の裕福な家に生まれ学があった青年は薬草を育て、薬を村人に分け与える一方で町では高値で売った。乙女と夫婦になったブロンドの青年の力を借りて巨木の幹を切り、森の家まで運ぶ。ブロンドの青年は幹を何に使うのかと問う。しかしブルネットの青年は『別に』と肩をすくめた。


 村のブロンドの夫妻に子供が生まれた。生活に追われる夫婦は暫く森に住むブルネットの青年を訪ねる事はなかった。


 製剤の合間にブルネットの青年は乾かした幹を彫り、等身大の女の像を造った。巨木から落下した時に見えた巨木の精だ。数年掛けて像を彫り上げるとリビングに立たせる。上等の布を巻き、もの言えぬ人間として彼女を愛し共に暮らした。町へ出る度に美しい布を買い、リビングで製剤をする時には彼女に手順を優しく聞かせ仕事をした。


 生活が落ち着いたブロンドの青年が森の家を訪ねた。青年は驚いた。森に引きこもった親友が巨木から像を彫り妻のように扱っているのだから。貧しいブロンドの青年は金持ちで変わり者の親友の気がいよいよ狂れたと思った。しかし正直で真摯な親友を失うには惜しい。ブロンドの青年はブルネットの青年同様に女の像を人として扱った。


 月日は更に過ぎる。ブロンドの夫妻の許に孫が生まれた。ブルネットの青年は老人になった。髪の大部分が白い物で覆われた。老人は夢を見た。巨木の幹を破り出た若く美しい女が自分の世話を焼き、子供をあやして少し低くも美しい声で歌うという夢だ。


 孤独な老人は涙を一筋流して目覚めた。ベッドで夢を反芻していると何処からか歌声が聞こえる。思い通りに動かし辛い体を徐に起こし、壁に手をつき老人は寝室を出た。


 リビングに向かうと片付いていた筈のテーブルに湯気が立ち昇る料理が所狭しと並んでいた。リビングの側のかまどを見遣る。若い女が背を向け歌っていた。老人の気配に気付いた女は振り返る。艶やかな黒髪を少年よりも短く切り、南天の実のような唇と白い肌をした女だった。闇色の瞳を細めた彼女は近付く。老人を椅子に優しく座らせて朝食を食べるよう促した。


 像を置いた場所を老人は見遣る。しかし何も無い。昨日老人が像に巻いた美しい布と同じ服を女が着ていた。全てを理解した老人は瞳を潤ませると深い溜め息を吐いた。そして温かい朝食に手をつける。満足そうに微笑んだ彼女は家事に手をつけた。


 こうして巨木の精の女と老人の生活は始まった。


 老人は女にフレイヤと名付けた。そして薬草と製剤の知識を与え、自分の代わりに薬を作らせ町へ売らせに行った。『売り上げで服を買いなさい』と全てを託したがフレイヤは薬の売り上げをそのまま持ち帰り老人に渡した。何故金貨を使わないのかと老人は問う。フレイヤは『あんたが買ってくれた布が沢山あるから服なんて要らないよ』と答えた。老人は何か欲しい物があれば勝手に金貨を使いなさいと勧めたがフレイヤは首を横に振る。彼女は『金貨では買えない物だよ』と答えた。それは何かと老人は問う。フレイヤは『あんたの子供さ』と答えた。


 月日が経ち男の子と女の子が生まれた。老人は子供に囲まれて眼を細める。フレイヤは老いた夫の代わりに薬草を育て製剤し、村人に分け与える一方で町では高値で売る。その金で書物を買っては子供達に字を教え、薬草の育て方や調剤を丁寧に教えた。


 フレイヤは魔術も扱った。巨木の彼女を人間として扱った夫の強い祈りの所為だった。祈りが通じ彼女は巨木から出た。強い祈りが魔力と化したのだ。彼女は夫に感謝した。美しい物を与えてくれた事、像を彫り巨木から出してくれた事、そして彼が子供の頃からずっと愛してくれる事、全てに感謝した。恩を返したかった。古木のような夫の手を握り、何かして欲しい事は無いかと尋ねる。しかし夫は首を横に振り『お前が木から出て子供まで設けてもう何も望む事は無い』と答えた。


 子供達は勉強に熱心な一方、遊びにも夢中だった。時折村を訪れては素性を隠してブロンドの老夫妻の孫と遊ぶ。帰宅した子供達がその旨を老父に話す。老父は古木のような顔に涙を伝わらせ幾度となく頷く。フレイヤはかまどの前に佇みその様子を見つめていた。


 ある日彼女は子供達に夫の手を引かせ、薬草の知識を学ぶようにと森深くへ散歩に行かせた。三人の後ろ姿を見送ると彼女は陣を描き、悪魔を呼び出す。大男の悪魔はシャベルに足を掛けていた。穴を掘っていたようで長い外套を土で汚している。


「なんだい? 悪魔ってもんは墓穴を手ずから掘るのかい?」フレイヤは問うた。


「君を埋める為の穴と言ったら?」悪魔は床にシャベルを突き刺し涼しい顔で問い返した。


「やってみな。術で洪水起こして立派な体躯を沈めてやる」


「恐い恐い。しかし戯れ言を聞かせに呼び寄せた訳ではあるまい」悪魔は喉を小さく鳴らし笑う。


「夫や夫の親友夫婦を若返らせたい。彼らが友人としての時間を暖められるように」


「ほう。そんな願いで死後の魂を売り渡すと言うのかね?」悪魔は鈍色の両眼を細める。


「あんたにとってはちっぽけだろうが私にとっては家族の幸せが一番さ」


「……私にも年頃の娘が居てね。君の気持ちは分からないでも無い。叶えてやろう」悪魔は手を喉に突っ込み羊皮紙を出すとフレイヤにサインを迫る。


 しかし彼女は拒んだ。


「高等な魔術を教えろ」


 悪魔は眉をしかめる。


「君は先程、願いを言ったではないかね」


「自分がしたい事を言ったまでさ。あんたの問いに諾とも答えてない。もう契約書に文面書いちまったんだろ。消えないんだろ? 今言った願いを付け加えればいいからさ」


「……してやられたな。良かろう。その悪知恵気に入った。願いを二つとも叶えてやる」


 悪魔は犬歯で親指を切り付けると滴った血で文を書き足した。フレイヤも犬歯で親指を傷つけると契約書に署名した。


 契約書を丸めて飲み込んだ悪魔は外套の裾から黒猫を出す。


「魔術は遣い魔が教える。陣無しで召喚出来れば手ずから教えてやろう」


「黒猫だけなんて喧嘩になっちまう」フレイヤは眉をひそめる。


「何かね?」


「チビ達、私に似て動物が好きだから取り合いになっちまう。遣い魔とは言えもみくちゃにされて死んじまうよ」


 悪魔は瞳を閉じる。実子では無いが娘である弟子も幼い頃は子豚のぬいぐるみから手を離さず勉強していた。瞼を開け、鼻を鳴らすと外套の裾から子豚を出す。


 フレイヤは黒猫と子豚を抱きかかえ悪魔に微笑む。


「……もういいかね? こんなに話したのは久し振りだ。気が疲れた。帰って休みたい。あと魔力の件だが」


「悪魔は魔女に魔力を与える時にファックするんだろ? 私は遠慮するよ。あんたは好い男だけど好みじゃない。旦那が一番さ」


 悪魔は喉を小さく鳴らし笑う。


「私もお喋りな魔女とはご免だね。それに私は夢魔だ。交われば魔力を奪う。君の魔力の源泉は家族を思う心だ。家族を大切にし給え」


「言われなくとも。あんたもお嬢ちゃん大切にしなよ。……でも呼び出せたのが階級の低い夢魔だとはまだまだ勉強出来そうな事はあるね」


「位は下から数えた方が早いが参考になるまい。魔界を抜け出した変わり者だからな」


「じゃあ何だい? 私は死んだら地獄でも魔界でもない所に逝くのかい?」


 悪魔は唇の端を片方引き上げて笑うと姿を消した。フレイヤは黒猫と子豚を抱え、魔導書が置かれている陣を見つめた。


 夕方子供達の手を引いた夫が帰宅した。夫はフレイヤを見た瞬間に彼女を抱きしめた。白髪は艶やかなブルネットに戻り痩せ細った体には肉がつき、皺肌も瑞々しく戻っていた。


 その晩もフレイヤは家族で食卓を囲んだ。愛する子供達、そして若返った夫の話を聞いた。子供達の話では泉の畔で休憩した老父にすくった水を飲ませた所、若返ったらしい。相槌を打ちつつフレイヤは優しいまなざし注ぐ夫に微笑み返した。


 次の日夫は水差しを持って泉へ出掛けた。


 子供達の相手を交代でするよう遣い魔の子豚と黒猫にフレイヤは頼むと、悪魔が残した魔導書を読み勉強した。子供相手に疲れた黒猫が戻ると、子豚と交代させて黒猫から魔術を教わった。そして子豚が戻ると黒猫と交代させ子豚から魔術を教わった。


 その晩も食卓は賑わった。夫は嬉しそうに話しかける。彼女に言われた通りに泉の水をすくい老いた親友夫婦に飲ませた所、自分同様に若返ったそうだ。しかし親友の息子夫婦に飲ませても何も起こらなかったらしい。夫はフレイヤに何故かと問うた。フレイヤは『私はあんたの笑顔を見る為なら何だって出来るのさ』と微笑んだ。


 それから三日と置かずにブロンドの夫婦が森に越して来た。家を建てるまでフレイヤの家に世話になった。ブルネットの青年はブロンド夫婦に妻を紹介した。フレイヤを見て事情を察したブロンドの青年は開いた口が塞がらない。何も知らないブロンドの妻は気さくなフレイヤと直ぐに打ち解けた。日中二人の妻はカーテンやテーブルクロス、シーツ等のリネンを縫い、子供達は子豚と黒猫を追いかけ回して過ごす。夫達は木造の家を隣に建てた。六人は慎ましく幸せに暮らした。


 フレイヤは魔術の勉強時間を昼から夫達が寝静まる夜に移した。魔術を自分の物にすると夜行性の動物を引き連れ、夜な夜な森の奥で悪魔を呼び出し高等魔術や医術を学ぶ。村人の病や怪我を魔術で治癒し、医者の代わりを務めた。無論貧しい者からは一切金を取らないが金持ちの商人からは金を取った。村の麦畑の為に肥料を買い与え動物達の餌の為に金を使った。


 夫やその親友夫婦、村人はフレイヤが魔術師である事に気付いていたが口に出さなかった。世間では村ぐるみで告発を行い魔女狩りが横行していた。沢山の罪亡き者が拷問や火刑によって殺された。しかし良き事に力を注ぐのならばそれもまた良しと彼女を認めた。村人達も彼女を白き魔女として敬い、魔女狩りの手から守った。その頃にはフレイヤは森の奥に小屋を構え、魔道を学び調剤し自分の道を歩んでいた。


 時々悪魔とも話した。ある晩悪魔を呼び寄せたフレイヤは、いつもとは違う出で立ちの悪魔の背に笑って問うた。


「今日はどうして女の姿をしておいでだい? 男の寝込みを襲うつもりかい? うちの旦那や親友の旦那を襲うのは止めておくれよ」


「偶には女のなりをしたい時もある」作業台に腰掛けた背の高い仏頂面の女は鼻を鳴らす。


「嘘おっしゃい。サキュバスがばばあの許に来るかね。男の姿に戻れないんだろ?」


 燭台に灯された火が揺らめく。


 背を向けた悪魔は鼻で笑う。


「君は察しの良い大魔女だな。お察しの通り不具合が生じて男に戻れない。これでは幾日も帰れまい」


「お嬢ちゃん、帰りをずっと待っているんだろ? 何とか理由を話してみたらどうだい? 素直でいい娘なんだろ。分かってくれるよ」


「短期間で人命を救う程に成長した君の方が弟子として遥かに優秀だがね。確かにアレは素直でいい娘だ。その素直でいい娘に手を焼いているのだ」


「なんでさ?」フレイヤは手許に視線を向けたまま問う。


 振り返った悪魔は作業台で調剤を続けるフレイヤを睨む。彼の鈍色の瞳は隻眼になり、片方の眼窩は黒い眼帯で遮蔽されている。


「私を慕うあまりに禁を破って死にかけた。自ら魔道に引き込んで言うのも気が引けるが、膨大な魔力を有するのにアレは調節するセンスが無い。このまま私を追いかけていれば自滅する。悪魔とは言え私は父親代わりだ。娘が滅ぶ様など見たくはない。破門されたと思って出て行くのを待っている」


「……娘ねぇ。いい加減父親代わりを辞めたらどうだい? 憎からず想ってるんだろ?」


「馬鹿な事を。神代ではあるまい。娘を妻にする父親など今の時代は狂気の沙汰だ」


「あんた好い男だね。妻にするだなんて覚悟決めておいでだね」


「その予定もそのつもりもない」


「そうかいそうかい。あたしはただ『いい加減父親代わりを辞めたらどうだい?』って聞いただけさね」フレイヤは顔を上げる微笑んだ。


 悪魔は唇を噛む。


 フレイヤは視線を手許に戻す。


「私は随分年寄りの巨木の精さ。旦那がチビっころの時代から知ってるよ。木登りされて無茶したのを助けてやったものさ。息子みたいなもんだけど息子じゃない。年こそ離れてるけどね、人間と精霊に血の繋がりはない。あんたとお嬢ちゃんだって悪魔と人間だろ。愛し愛されるのには充分さ」


「……どうにも君は狡猾だ。話すと疲れる。今日は帰るとする」悪魔は立ち上がると黒い外套を翻して消えた。フレイヤの瞳に映った後ろ姿はいつも通りの男の姿だった。


 その年も頭を垂れた麦が収穫の時期を待ち侘びていた。しかし穂は例年と違った姿だった。金色の穂は黒い悪魔の爪を生やしてそよぐ。村からの往診帰りに黒猫の遣い魔や野うさぎを連れ通りがかったフレイヤは異変を見抜いた。フレイヤは直様、村長の家へ向かうと麦を諦めるよう引っ越すように忠言した。麦を口にすれば命は無いと。しかし村長や村人は首を縦に振らない。麦を納めなければ殺される事、引っ越す金もない事、そして余った麦を口にしなければ餓死する事を悲痛な面持ちで話した。


 夫に話を通したフレイヤは夫婦の財を差し出しす代わりに村の徴税を免じて欲しいと役人に交渉した。しかし差し出した財では足りない。取りつく島が無く諦めざるを得なかったフレイヤは町人や村人に麦を口にしないよう達した。


 悪魔の爪が生えた麦は刈られ町と王都へ流れた。口にした者は手足が壊死し、精神に異常をきたし、妊婦は流産した。麦から村人を守ろうとフレイヤは私財を投じて食事を振る舞った。ブルネットの青年に贈られた高価な布や指輪を手放し金貨に替える。しかし財は直ぐに底をついた。フレイヤは巨木の精故に食事をしなくとも平気だが日に日に痩せ細る家族や村人達を見ると胸が痛む。もう何も出来ないのだろうか。フレイヤは唇を噛んだ。


 その晩久し振りに森の小屋で悪魔を呼び出した。


「皆を救いたいんだ。力を貸しておくれ」


 作業台に腰掛けた悪魔に懇願する。悪魔は隻眼を閉じ、腕を組んでいる。


「皆、私の家族なんだ。困ってるのを見捨てておけないよ。お願いだ。今直ぐ私の魂をやっても良い。力を貸しておくれ!」眉間に皺を寄せる悪魔にフレイヤは膝を折る。


 悪魔は徐に瞳を開けた。


「……魅力的な相談だが如何する事も出来ん。君は既に魂を売り渡した。……それに生死は私の領分ではない」


「知恵を貸して貰うだけでもダメなのかい?」


「……一時凌ぎだが手立てならあるにはある」悪魔は顎を擦る。


「それは何だい!?」


 鼻先に迫った彼女を悪魔は離す。


「何でもする覚悟はあるかね?」


 フレイヤは頷いた。


 フレイヤはその晩深く眠った家族の手に僅かに残った金貨を握らせた。ブルネットの青年と子供達、そしてブロンドの夫妻に魔術を使い遠方の国へ送った。大魔女とは言え多人数を遠方に移動させるのにはこれが限界であった。


 翌日フレイヤは村長宅へ出向くと自分を異端審問官に売り渡すよう進言した。村長は首を横に振る。しかしフレイヤは麦に生えた黒い爪は自分の所為だと嘘の主張をした。それでも村長は首を横に振る。薬を施し病人や怪我人を救い、薬の売り上げで麦の生育に力を貸した高潔な大魔女を売り飛ばす事は出来なかった。村長は『気持ちだけ受取るよ。この土地で生まれた者はこの土地で死ぬのが本望さ』とフレイヤを帰した。年老いた村長の妻は会話を扉の隙間から息を殺して聞いていた。


 フレイヤは村人を不幸に陥れた魔女を演じる事に決めた。彼女は村人に害を与えない程度に困らせる悪戯を考えた。夜が明けると悪戯の材料の薬草を摘みに出掛けた。歌いつつ薬草を摘む。腕に通した籠には薬草と野苺が沢山入っている。木漏れ日が揺れる。スカートの裾には黒猫と子豚の遣い魔や野うさぎが集まり、肩には小鳥が止まり見守っていた。フレイヤは目を細める。もう直ぐ幸せな時間が終わる。一つ一つの命が愛おしい。


 何処からとも無く来た異端審問官と兵士によって幸福は破られた。無遠慮な足音に驚いた小鳥達は飛び去り、野うさぎは逃げる。子豚と黒猫はフレイヤを見つめる。彼女が顎で合図をすると彼らは悲しそうに森の奥へ消えた。


「遅い。昨日は私から出向いてやろうとしたのに」兵士に拘束されつつフレイヤは異端審問官を見遣る。


「密告があった。裁判にかける」異端審問官はフレイヤを見下ろす。


「望む所さ。大魔女の最期にはピッタリさね」鼻で笑ったフレイヤは兵士に引きずられて行った。薬草畑には薬草と野苺が沢山入った籠が落ちていた。


 王都の委員会に連行されたフレイヤに告発文を読み上げた異端審問官は可否を問う。彼女は概ね認めた。罪を認めない者が多く、認めても『お前らの方が悪魔だ』と叫ぶ者がいる中、彼女の態度は委員会を驚かせた。しかし一つだけ罪を認めなかった。悪魔との性交だ。身に覚えも無い罪を並べ立てられ認めたが性交の件に関しては首を縦に振らない。


 悪魔との性交が無ければ魔女と断定出来ない。異端審問官をフレイヤは睨みつけた。


「私はやっちゃいない。あたしの体は旦那のもんさ。誰にも組み敷かれるものか!」彼女は異端審問官に唾を吐き付ける。彼女を縛った縄を握る助手に蹴り飛ばされ意識を失った。


 拷問部屋で目覚めると裸で椅子に座らせられていた。手足は縛られ感覚が無い。拷問官が鉄錐を取り出し彼女の白い肌に刺そうとする。


「……何の真似だい?」朦朧とした意識でフレイヤは問う。


「さあね」


「……刺せば引っ込む仕掛けの錐でホクロを刺すつもりだね。痛みが無ければ悪魔との契約の痣ってか。……契約書は悪魔が飲み込んじまったよ」


 拷問官は肩のホクロに鉄錐を刺す。フレイヤは瞳を閉じた。


 魔女の椅子、水責め、振り子等様々な拷問を受けた。しかし表情を崩さず呻き声も漏らさない。フレイヤは巨木の精故に痛覚が無い。共に拷問にかけられる男女が悲痛に叫ぶ中、彼女は面倒臭そうな表情を浮かべ拷問官を腹立たせた。


 拷問官は異端審問官に訴えた。『拷問をかけても無駄だ。最後の罪を認めない。これだけ罪状があるなら直ぐに火刑に処すべきだ。放っておけば呪い殺される』と。


 翌日に火刑が執行された。火刑台に縛られたフレイヤと共に無実の罪で処される女は憔悴し『やっと死ねる』と独り言を呟いていた。指を詰められ少しの振動でも悲鳴を上げる男は群衆の瞳に怯えていた。


 フレイヤは哀れな二人に声を掛けた。


「地獄でも魔界でも無い所に逝くんだよ。良かったら付いておいで」


 男はつぶらな瞳に涙を浮かべて小さく頷いた。女は力なく返事をした。


 溜め息を吐いたフレイヤは火刑台から群衆を見渡す。皆ざわめき瞳を輝かせ火刑を今や遅しと待っている。狂気だ。狂気が瞳を曇らせている。私は狂気に憑かれた時代に殺されるのか。狂気に近い祈りによって生まれ、魔女狩りの狂気によって死ぬなら一興だ。思い残す事はない。愛する男の子供を産み自分の道を歩み、人々の役に立ち死ぬなら本望だ。遠方の国に置いて来た家族や親友達が心配だけど幸せに暮らせるだろう。


 執行人が火刑台に上がると群衆は歓声を上げる。しかし異端審問官が罪状を読み上げると静まった。フレイヤは遠くを眺める。一人の男と目が合った。美しい黒髪を伸ばし青白く光る不思議な瞳をした痩せ型の男だ。彼はフレイヤと目が合うと瞳を閉じ頷いた。化けた悪魔が魂を奪いに来たのだろうか。


 最期の一分が与えられたがフレイヤは叫ぶ。


「勿体振らずにさっさと殺しな!」


 群衆は歓声を上げた。唇を噛んだ異端審問官は火刑台を降り処刑人に合図を送る。処刑人は火を放った。


 炎に蝕まれたフレイヤが最期に目にしたのは青白く光る不思議な瞳をした青年だった。

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