三章 二節

「遅いわねぇ」


 屋敷の一階の大客間でソファに凭れ掛かった人魚が大欠伸した。


「衣装を脱いだり支度したりと時間はかかるさ。夫婦の時間を削ってるんだからもう少し我慢してお上げ」隣では衿を抜いた留袖を着付けたキルケーが両脚を流す。


「分かってるわよ」人魚は組んだ脚先から脱ぎかけのヒールを揺らした。


 正装のフォスフォロがグラスを二脚持ち、やって来た。


「やあ美しいセニョリータ、セニョーラ。ジュースは如何です?」


「げぇっ。うるさいのが来た」眉根を寄せた人魚は手で追い払う真似をする。


「お初にお目にかかります。カナが心を許す大魔女キルケー殿」人魚にグラスを持たせたフォスフォロはキルケーの手の甲にキスを落とした。


「あんたがフォスフォロだね?」キルケーは笑う。


「如何にも」


「肩肘張らなくていいよ。最近頻繁に遊びに来ているようだね。隣でブーたれてる娘が楽しそうに話してるよ」


「それは光栄だ」フォスフォロは微笑む。


「楽しそうになんて話してないったら!」唇を尖らせた人魚はキルケーを睨む。


「あんたカナって言うのね。私も呼ぼうかしらね?」


「呼んだら噛み付くわよ!」眉間に皺を寄せた人魚は頬を染めた。


 笑ったキルケーはフォスフォロと視線が合う。


「私は少し疲れていてね。あんたがこの娘の相手をしてくれると助かるんだけれどもね」


「喜んで。セニョーラ」フォスフォロは片手を胸に添えて眼を伏せる。


「ちょっと! 勝手にこんな奴に押し付けないでよ!?」人魚は立ち上がる。


 フォスフォロは人魚の腰に手を回しエスコートする。人魚は胸を肘で小突く。


「二度と泣かすんじゃないよ」


 その場を遠ざかるフォスフォロは人魚の肩を抱き、親指を立てた。


「離しなさいよ、馬鹿」人魚はフォスフォロを見上げる。


「元気なカナは素敵だなぁ。それに今日はドレスを着てとても綺麗だ」フォスフォロはサウス・シー・グリーンのカクテルドレスを着た人魚を見つめる。


「アンタが押し付けるから仕方なく着てやったの。それに今日はニエが主役だし、失礼の無いよう着てやるわよ」人魚はジュースのグラスの一脚をフォスフォロに持たせた。


「グラシャス」フォスフォロはグラスに口をつける。


 人魚はフォスフォロを見つめる。


「何だい? 髭はきちんと剃ったつもりなんだけどな」フォスフォロは顎に触れる。


「……アンタ、髪切ったの? 長髪が落ち着くって言ってたじゃない」


 フォスフォロは短い髪に触れると人魚に背を向けた。


「今日はアップスタイルにしたんだよ。ほら」


 髪は後頭部でまとめられ、コルクやシーグラス、貝殻装飾のバレッタで留められていた。


「心配してくれたのかい? 嬉しいなぁ。折角だからカナから貰ったバレッタを使いたいと思ってね。今日が初めてお披露目なのさ」


「それはどうも」


 仲睦まじいフォスフォロと人魚をキルケーはソファから微笑み眺めていた。そこにスリーピースのクチバシ医者とクリーム色のドレスのユウが現れた。二人は隣に座す。


「こんばんは、キルケー」二人は口を揃える。


「久し振りだね。クチバシ医者にユウ」


「主役の二人、時間掛かるって。それにね、とってもラブラブ。気温が上がっちゃうくらい」ユウは頬を染める。柔らかな髪を巻いていた。


「そうかい。それは良かった」キルケーは微笑む。


「お屋敷を貸してくれてありがとう」クチバシ医者は頭を下げた。


「ランゲルハンスとニエは私の家族だからね。歪な関係だった二人が幸せになって嬉しいよ。あんたの時も貸してやるよ。あんたもユウも私の家族だからね」


 ユウは少し俯いた。クチバシ医者は頭を横に振る。


「僕は結婚なんてしないよ。恋愛すら無理さ。現世に帰らなきゃならないもの。皆が笑って暮らしているのを眺めるだけで僕は幸せさ」


「律儀なこった。金貨十枚を次月に耳を揃えて返す男だからね、あんたは。あげたつもりだったんだけどね。時には律儀さが人を傷つけるって覚えておきな」


「僕、お金返さない方が良かった?」


「馬鹿だね。周りをよく見て考えろってこった。それにランゲルハンスの次に金持ちの大魔女様だ。金貨十枚を手放した所で屁でもないよ」


「うん。キルケーは凄いよな。それなのに気さくなんだもの」


「馬鹿。本当に何も分かってないね、あんたは」


 苦笑したクチバシ医者は大輪の花で飾られた大客間を見渡す。中央の長テーブルにはリュウとユウ、プワソン、フォスフォロが腕を奮った御馳走が所狭しと並べらていた。ケーキの側でリュウとケイプが百面相の対決をしプワソンに呆れられ、ワイナリーから来たディオニュソスとクルーラホーンは花冷えブドウや茜ブドウの出来について話し、笑顔のフォスフォロは人魚に話しかけ、壁に凭れた人魚は空のグラスに気付かず口をつけていた。


「皆笑ってる。幸せだな」クチバシ医者は独りごちた。


 和やかな沈黙をキルケーが破る。


「ユウ、とっても可愛いねぇ。クリーム色のドレスがアクアマリン色の髪に映えること! あんたは勝ち気だけど優しい雰囲気がニエに似てるね」


「ニエねーちゃんに似てるだなんてとっても嬉しい。私の憧れの女性だもの。キルケーが勧めてくれたクリーム色のドレスを着たけど大丈夫かなぁ? ニエねーちゃんが好きなのって白とかクリーム色とか優しい色だもの。被ったら困るなぁ」ユウは眉を下げる。


「大丈夫さ。ニエの家族の私が言うんだから間違いない」キルケーは微笑む。


「良かった。ありがとう」ユウは微笑み返した。


 キルケーは自分達を眺めていたクチバシ医者を睨む。


「ほら! あんたもユウに言う事あるだろ!? 気が利かないね!」


 唐突に怒られたクチバシ医者は肩を跳ね上がらせる。


「え……あ、うん。ドレス似合っているね」


 はにかんだユウはありがとう、と呟く。


「まったく。口が回るのも嫌だけどあんたは少しフォスフォロを見習った方がいいよ」

 キルケーが溜め息を吐くとランゲルハンスとニエが突如として大客間に現れた。招待客達は拍手を贈り口々に祝いの言葉を掛ける。


「ナイスタイミング」説教から救われたクチバシ医者は本日の主役の許へと歩き出した。ユウは後を追う。キルケーは夫婦の許へ向かう二人をソファから見守った。


 クチバシ医者は夫婦に声を掛ける。


「二人共、遅くなるって言っていた割りに早い到着だな」


「ニエが急かすからな。もう少し夫婦水入らずの時間を過ごしても良かったのだがね」正装したランゲルハンスはニエの腰に手を添える。


「あ、そう」クチバシ医者は鼻を鳴らした。


 冬バラのブーケを持ったニエは頬を桃色に染めて夫と友人のやり取りを眺めた。ユウが近寄るとニエは微笑む。


「改めておめでとう! イブニングドレスもとっても綺麗! ドレスの色が被っちゃうかなって心配したけど良かった! ニエねーちゃん、大人な雰囲気もとっても素敵!」


 手放しで褒められたニエは小首を傾げ、顔を伏せはにかんだ。彼女は髪を結い上げ耳に金鎖のタッセルピアスをし、背が開いた黒いイブニングドレスを着ている。左手の薬指には燦然と輝くエンゲージリングとマリッジリングを嵌めていた。


「エロいな。ハンスの野郎の趣味だな」


「実にエロい」ケイプとリュウが口々に言う。しかし二人はプワソンに頬をつねられた。


 頬を真っ赤に染めたニエはブーケをユウに渡した。驚いたユウはニエを見上げる。


「え……これ、私に?」


 頷いたニエは薬指の指輪を示してから掌を返し、ユウを示した。


「……『次はユウの番』って……きゃあ! いいの? 幸せのお裾分け、いいの?」


 ニエは微笑み頷いた。


 ソファから徐に立ち上がったキルケーが近寄る。


「ニエ、おめでとう。そんな笑顔が見られるなんて私も幸せだよ。沢山幸せにして貰いな」


 ニエは頷くと微笑んだ。


 ケイプとプワソンと話していたランゲルハンスはキルケーに気付くと話し掛けた。


「わざわざ屋敷を貸してくれたのだな。礼を言う」


「あんたの為じゃない。ニエの為さ。あんたは私に強力な術をかけて真実を口止めさせたからね。その代償でぶん取った屋敷はニエの為に使わないとね」キルケーは鼻を鳴らす。


 ランゲルハンスは喉を小さく鳴らし笑うとニエを見遣る。フォスフォロの背に隠れて祝いの言葉を掛ける人魚にニエは微笑んでいた。


「幸せにしておあげ」キルケーは微笑む。


「言われなくとも」ランゲルハンスは口の端を少し上げて笑った。


 クチバシ医者の一声によって歓談は終わる。ランゲルハンスの古い友人であるディオニュソスとクルーラホーンが乾杯の音頭を執りパーティーが始まった。夫婦は各々の友人の輪に引き込まれ別々の時間を送ったが、時折心の中で会話をした。


 ニエはキルケーに二階へ誘われた。屋敷では普段、一階二階の区別も無く動物達が好き勝手走り回り飛び回る。しかし今日は一階の大客間でパーティーを開くので大人しく二階で過ごしていた。動物達は皆、祝いの言葉を掛けたいとニエを待っていた。


 ワイナリーの主人達に囲まれた夫にニエは心の中で、動物達に会いに行って来ますと声を掛ける。そしてキルケーと共に二階へ上がった。大客間を去る妻の後ろ姿をランゲルハンスは視界の端で見送り、言葉を交わす。


「何だ? ニエちゃんが気になるのか?」ランゲルハンスの視線の先をディオニュソスが読み取る。酒臭い息を吐き丸まると太った巨体を揺らし、満面の笑みを浮かべる。


「二階にもニエを祝いたい者達がいるらしい」ランゲルハンスはグラスに口をつける。


「気だての良い娘だからな。あの娘の幸せを皆、祝いたくなるさ。お前が手を付けないなら僕が幸せにしてやろうと思ったのに」ランゲルハンスに声を掛けたのは目許が涼やかな少年のクルーラホーンだ。赤いインパネスコートに映える亜麻色の髪が美しい。


「巫女でもねぇのに何百年も常処女だなんて酷いぞ。毎年欠かさず手伝いに来るから他の娘達に心配されてたんだぞ」ディオニュソスはランゲルハンスに脂ぎった顔を近付ける。


 ランゲルハンスは喉を小さく鳴らして笑い、押し返す。


「来年から手伝えない。来秋は西の山小屋で共に過ごそうと考えている」


「安心した。二度とあの娘一人でワイナリーに来させるんじゃない。一度夫婦で遊びに来い」クルーラホーンはランゲルハンスを小突く。


「気が向いたらな。少し酔った。風に当たる」ランゲルハンスはグラスを持ち庭へ向かう。


「あいつ、うわばみじゃなかったのか?」ディオニュソスはクルーラホーンに問う。


「居づらくなって逃げやがったな」クルーラホーンは舌打ちをした。


 ランゲルハンスは大窓を後ろ手で閉めると夜の庭に出た。冬の夜風は冷たく頬を切るように撫でる。植え込みとハーブ畑を夜風が軽く揺らす。少し歩くと石造りの階段に座しワイングラスを傾け、満天の星を眺めた。


 窓を開ける音がした。軽い足音がこちらへ向かう。ランゲルハンスはワインを一口飲むと振り向きもせず、足音の主に声を掛ける。


「酔い覚ましかね? クチバシ医者よ」


「げっ。一番会いたくない奴に会っちゃったよーだ」


「まあ座り給え。主催者君」ランゲルハンスは酔っ払ったクチバシ医者を隣に促す。


『あーあ』と独りごちたクチバシ医者は気怠そうに隣に座した。


 暫く夜空を眺めたがランゲルハンスが沈黙を破った。


「君には気を遣わせたな。礼を言う」


「お前の為じゃない。ニエの為。以前から食事会を開きたかったんだ。ニエの結婚がタイミングよく重なって良かったよーだ」クチバシ医者は鼻で笑う。


「ありがとう」ランゲルハンスはグラスに口を付けた。


「……きっと明日は気温が急上昇して虹色の蝉が鳴いて、ピンクのイルカに乗った裸のサンタクロースが黒炭を配りに来るんだろうな」


「私とて素直に礼くらい述べる」ランゲルハンスは喉を小さく鳴らして笑った。


「あーあ、隣が馬鹿でかい男じゃなくて可愛い女の子だったら良かったのになぁ」


「……君は何故、あの娘の気持ちを無視する?」


「……あの娘って?」クチバシ医者は問いに首を傾げた。


「双子のドラゴンのユウだ」


「あー、ユウね。ユウ。急にでっかくなったよね、ユウ。ポンポン怒るけど可愛くて、子猫みたいにふにゃっとして甘い香りがするんだー。お菓子の妖精みたいだねぇ」


「何故彼女のひたむきな想いを無視するのかね?」


「えー……やっぱりユウ、僕の事好きなの?」


「君は鈍感なのかそうでないのか、どちらだね?」


「ニエにも鈍感って言われたよ。僕は鈍感だー」クチバシ医者は機嫌良く鼻歌を歌った。


 ランゲルハンスはワインを一口飲む。


 クチバシ医者は鼻歌を止めた。


「ニエの差し金だな? 早速尻に敷かれたな。ざまー見ろだ。……うーん。彼女、僕とユウをくっつけたがってるからな」


 ランゲルハンスは鼻で笑った。


「……気付いてたさ。ユウに出会った時から感じてた。びっくりしたよ。妬いて大人の女性の目つきで睨むんだもの。あんな小さな子が年離れた僕を好きになるんだもの」


「ほう。自覚はあるのか」


「この夏、急に大人になったのもアレだろ? 恋をして心が成長したから体も急成長したんだろ。この島じゃそんな事が起きてもちっとも不思議じゃない」


 ランゲルハンスは相槌の代わりにワインを一口飲む。


「……笑われると想うけどさ、僕もユウに会った時から感じてた。胸が甘く疼いたんだ。……看病してくれたり休日に僕を手伝ってくれたり、とても可愛いよユウは。元気でひたむきで素敵な女性だ。僕はユウが好きだ。でも彼女に応えちゃいけないんだ」


 ランゲルハンスはクチバシ医者を見遣る。クチバシ医者は膝に片肘をつき、片手でマスクを支えている。


「……僕は現世に帰らなければならない。元所属者のユウを島に残して」


「勝ち気なあの娘が想い通りになるかね。あの娘から危険な匂いが漂う。……島であの娘と幸せに暮らせば忘れる事もある」ランゲルハンスはクチバシ医者を見つめる。


 クチバシ医者は首を横に振る。


「記憶を失っても帰らなければならないって魂が叫び続けるんだ。ユウを愛して島に残ってもきっと魂は叫び続ける。苦しくて狂ってしまう。ユウに悲しい想いをさせる。だからユウを無視して魂の叫びに耳を貸すしか無いんだ。……可愛い女の子を弟子として……娘として育てたお前なら分かるだろ? 触れたいけれども触れたら壊れるんだ」


 ランゲルハンスは星空を眺める。


「僕はユウが好きだ。でもこの想いは決して伝えない。僕は帰らなければならない。きっとやらなければならない事があるんだ」


「……分かった。もう何も言うまい」ランゲルハンスはワインを呷った。


「なんでこんな事話したんだろうな。だから酔うのは恐いんだ。気持ちが軽い今ならお前に話せそうだ。相談したいから聞いてくれよ」クチバシ医者は深い溜め息を吐く。


「何かね?」


「シュリンクスもお前に相談したんだろ、夢の事。僕も頻繁に夢を見るんだ」


「ほう」


「色んな夢を見る。人が死ぬ夢が多いんだ。色々な国で色々なシチュエーションで。最近は同じ夢を見る事が多い。事件現場で茜色の髪をした女の死体が出て来るんだ。夢は現世の記憶だろ? 僕は某かの方法で多くの罪無き人を手に掛けた殺人鬼なのかって」クチバシ医者は俯く。


「人を殺めた魂も島には存在する」


「僕は一体何者なんだ? 人殺しなんて嫌だ。僕は皆が笑って幸せに暮らしているのを眺めるのが好きなんだ」


「考え悩むのは所属者の役目だ。残念だが私は話を聞いてやれるだけだ」


「やっぱり答えを聞けないか。でも聞いてくれてどうも」


「私が礼を述べる事を責める割りに君だって礼を述べるではないかね」


 クチバシ医者は鼻を鳴らす。ランゲルハンスは喉を小さく鳴らし笑った。


 しかしニエが発した心の声が和やかな雰囲気を切り裂いた。


 ──アロイス! 助けて下さい、キルケーが、キルケーが……!


 普段おっとりとしたニエが発する悲痛な声に驚き、ランゲルハンスは立ち上がる。驚いたクチバシ医者は彼を見上げる。


 ランゲルハンスはニエに問う。


 ──どうした?


 ニエは直ぐに答えた。


 ──キルケーが倒れました……!


 狼狽えるクチバシ医者に構わず、ランゲルハンスは術を使い屋敷の二階へ向かった。

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