三章 一節

 朝に霜が降り昼の空が鈍色に染まる時期、クチバシ医者は店の作業台でペンを走らせる。隅には人魚の水マッチや花煙草の箱が並ぶ。台を挟んでモスグリーンのコート姿のニエと向かい、打ち合わせをしていた。


「じゃあヘッドドレスは白系でブーケは赤系の花を探すね。原案が出来たらドレスショップに送るけど改めて打ち合わせしても良いかな?」クチバシ医者はノートに記す。


 頬を桃色に染めたニエは湯気が昇るマグを両手で包み頷く。


「寒くてごめんね。室温低くしないと花が開き切っちゃうんだ。君の家で打ち合わせしたいけど新婚さんだからなぁ。……幸せそうで良かった」


 俯きはにかんだニエはクチバシ医者の手を取ると字を綴る。


『本当にありがとう。クチバシ医者が先生に話さなければ写真撮らなかったと思うの』


「本当は式を挙げたいよね。君の旦那は悪魔だから神前式は無理だからなぁ。でも式服で撮影する事に頷いて良かったよ」


 ニエは微笑んだ。


「それよりも相談があるんだけど良いかな? ……西の山から帰った時に高熱を出してユウに看病して貰ったんだ。回復してから仕事が立て込んでまだお礼をしてなくてさ。プレゼントしたいんだけど何が良いかな?」


『クチバシ医者が想いを込めた物ならあの娘は何だって喜ぶわ』


「女友達だからこそ気の利いた物を贈りたいと思ってさ。ユウは半年で大人になった。でも彼女にとって僕はおじさんだもの。年下の子に格好つけたい訳さ」


『鈍感』深い溜め息を吐いたニエは唇を尖らせた。


「え。なんでさ?」


『なんでも。プレゼントかぁ……そう言えばユウ、手荒れが酷くて先生に軟膏を出して貰ってたような。先生の軟膏は効き目が抜群なの。お花の香りがするならもっと素敵よ。喜ぶと思うな。バラとかクチナシとか素敵な香りでしょうね』


「素敵だね! 喜んでくれるよね!」


『じゃあ先生に話しておくね。西の山の礼として一つクチバシ医者の願い叶えてやるって言ってたの。快諾すると思う。オイルを抽出するから明日お花をいっぱい持ってきてね』


「ありがとう!」


 クチバシ医者はニエの手を固く握り二、三度振るとドアまで見送った。


 帰宅したニエは床に散らばるワインの木箱を足蹴にし床板を剥がすランゲルハンスを見つけた。手伝おうとコートを椅子に掛け彼に近寄る。


「大量の花が来るのだろう。狭くて作業出来まい。整理して地下で行う。手伝い給え」


 頷くとニエは受取った床板を壁に立てかけた。地獄耳とはいえ何故花の香りがする軟膏の件を知ってるのだろう。クチバシ医者は一言も声にしなかったのに。


 小首を傾げ愛しい男の背を見つめていると笑われた。


「何処に居ても君の心の声は流れて来る。心を澄ませば私の心の声も聞こえるだろう? 今の君と私は精神的にも肉体的にもパスが繋がっているからな」


 ニエの頬は紅潮した。幾夜肌を重ね合わせても未だに慣れないものは慣れない。


「いつになれば慣れるのかね?」ランゲルハンスは喉を小さく鳴らして笑った。


 ニエは唇を尖らせる。


「いつまで経っても『先生、先生』だ。不肖の弟子を破門し優しい妻を娶ったと言うのに」


 ランゲルハンスは爪に火を灯すと地下へ降りようとした。ニエはささやかな反撃に出た。夫の背に向かって心の声を解き放つ。


 ──ア、ア、アロイス! あまり揶揄わないで下さい!


 初めて妻に名を呼ばれたランゲルハンスは振り向き微笑した。


「いつまでそこに居る気かね? ニエ、早くこちらに来給え」


 眉を下げ、頬を紅潮させ唇を尖らせる妻にランゲルハンスは手を差し伸べた。




 程なくして撮影の日は訪れた。街の写真館に隣接するデュラハンの服屋を貸し切り、バックヤードでニエは美容師にヘアセットとメイクを施された。床にはバニティボックス、真っ赤な冬バラやガーベラを投げ入れた花器が置かれている。


 眼球が無いので飾り立てないだろうと高を括っていた。しかし包帯を解かれ目許に化粧を施された。ヴァンパイアの美容師は再び包帯を巻いた。


 産毛を剃り、首筋、肩、背、胸許にまでファンデーションを塗られる。想定よりも時間が掛かった。コルセットを締めるので朝から何も腹に入れなかった事を後悔した。腹の虫が鳴く。鏡越しに美女の美容師に微笑まれてニエは項垂れた。


 白い箱を抱えたユウが裏口から入る。


「おめでとう、ニエねーちゃん! これ差し入れ」


 ドラゴンの紋章の箱を開くとパステルカラーのギモーヴが入っていた。


「お化粧すると真面な物食べられないでしょ? これならピックを刺して一口で食べられるし、お店に香りが付かないからデュラハンが大丈夫だって」


 ニエは鏡越しにユウに微笑む。微笑み返したユウは白いピックをベビーピンクのギモーヴに刺してニエに持たせた。ニエは口に入れると満足そうに微笑んだ。


 ユウは丸椅子に座して花嫁支度を眺める。


「ニエねーちゃん、いいなぁ」


 体に塗られたファンデーションを粉で押さえられつつニエは恥ずかしそうに微笑む。寂しそうに微笑み返したユウはドレスを纏うトルソーを見つけた。アイスグレーの薄い布が掛かり薄い青鈍色のレースが所々に縫い付けられた白いドレスだ。


「綺麗! 羨ましいな! ブーケは何色なの?」ユウには眩しい光景だった。




 冬バラをちりばめたドレスを纏い白花のヘッドドレスとヴェールを被り、ニエは店頭へ踏み出す。カーテンを閉め切った店内で瞳と同色のフロックコートを着て冬バラのブートニアを胸に刺すランゲルハンスに近寄る。彼はいつも通り本を読んでいた。


 着飾った妻を見遣ってもランゲルハンスは相変わらず仏頂面だった。赤い冬バラのブーケを彼は妻に渡した。


「ここで褒めると君の頬が冬バラのように染まるんでね。撮影後に囁くとする」ランゲルハンスはレースのグローブに包まれた妻の手を取り、服屋を後にした。


 夫妻が写真館で撮影している間、赤いコートを着たユウと黒いコートを着たクチバシ医者は白い息を吐き、外の窓から撮影風景を見守っていた。


「花嫁にブーケを渡し忘れるなんて本当に馬鹿ねトリカブトは」寒さで鼻を赤らめたユウは隣で佇むクチバシ医者を見上げる。


「うん。とんだドジを踏む所だった。君が気付いて良かった」クチバシ医者は苦笑した。


「ハンスさんにブーケを渡した事は評価するわ。……ところでこの後のアレは大丈夫?」


「うん。抜かり無く。僕は花器の撤収があるから終わったら行くよ」


「手伝うよ。人魚は先に行っちゃったから私が島まで連れて行ってあげる」


「ありがとう。助かるよ」


 微笑んだユウは再び窓の中の美しい花嫁を眺めた。


「ニエねーちゃん本当に綺麗。何百年も育んだ愛だもの。とっても幸せそう」


「良かったよ。幸せになって欲しいね」


「……これでいいの?」ユウはクチバシ医者を見上げる。


「え?」


「トリカブト、ニエねーちゃん好きだったじゃない」ユウは視線を窓へ戻し唇を尖らす。


「あー……好きって言うかちょっと『いいな』って想ってただけだよ」


「へぇ。意外。恋に破れて落ち込んでると想ってたのに」


「例え心から愛する人に出会っても僕は幸せに出来ない。現世に帰らなきゃならない。だから想いを伝えてこの島に置いて行くなんて事は出来ないよ」


「童貞の肯定?」


「どっ……誰がそんな言葉を教えたんだ!?」


「人魚」


「あいつは碌な事を教えない。いいかい? あいつから教わった事は全て忘れるんだ」深い溜め息を吐いたクチバシ医者はユウの顔を覗く。


「都合の悪い時だけおじさん振らないで。すっごくムカつく」ユウは顔をしかめる。


「君にとってみりゃおじさんだもの。びっくりしたよ。この夏、君やリュウがメキメキ成長して大人になったじゃないか。でも君と僕とは年が離れているさ」


「ランゲルハンス夫妻も年が離れているよ」


「そういう愛の形もあるの」


「じゃあ私とトリカブトは?」


 クチバシ医者を見上げたユウは頬を染める。クチバシ医者はユウを見つめる。


「……寒さで頬が真っ赤だ。……あ。真っ赤で思い出したけど秋に看病してくれただろ? そのお礼、渡しそびれていたんだ」


 俯いて唇を尖らせたユウに、クチバシ医者は冬バラが描かれた白いピルケースを渡した。


「何これ?」


「バラの香りの軟膏。作ったのは悪魔だけど香料やオイルはうちの冬バラ。君は手仕事をするだろ? 寝る前に塗って欲しいなと思って」マスクのレンズの内側で青白く光る瞳を細めクチバシ医者は微笑んだ。


「……ニエねーちゃんに吹き込まれたんでしょ?」


「あー……うん。バレたか。ごめん」


「いいよ。嬉しい。見返りなんて求めてなかったのに。ありがとう!」


 ユウが微笑むと撮影を終えた夫妻が写真館から出る。クチバシ医者とユウは拍手を贈る。


「おめでとうハンスさん! おめでとうニエねーちゃん!」


「おめでとうニエ! もう泣かすなよ悪魔!」


 ニエは二人に微笑み会釈し、ランゲルハンスは喉を小さく鳴らし笑った。


「何だね? 寒中二人仲良く眺めていたのかね? 中に入れば良いものを」ランゲルハンスはクチバシ医者を見遣る。


「うるさいな。邪魔しちゃ悪いから気を使ってるんだ」


「この男、少しは女性へ配慮するようになったのかね?」ランゲルハンスはユウを見遣る。


「全然です、ハンスさん。ダメダメです」ユウは首を横に振る。


 クチバシ医者は項垂れた。


「ところでハンスさん、ニエねーちゃん、この後の予定はありますか?」


 ランゲルハンスはニエを見遣った。ニエは首を横に振った。


「特には。何かね?」ランゲルハンスはユウに問うた。


「ささやかですが結婚を祝してアイアイエ島でお祝いの席を設けます。お二人とも来て下されば嬉しいのですが」


 ランゲルハンスは虚空を少し見つめたが微笑んだ。


「心遣いを無下に断れまい。出向くまでに時間が掛かるが良いかね?」


「ありがとう御座います! 皆も喜びます!」ユウは笑顔を咲かせる。


 ランゲルハンスは外気に晒され冷えたニエの肩を片手で抱く。


「大切な妻が冷えた。暖めてやらねば。君達は先に向かい給え。私達は遅れて行く」


 ニエは頬を冬バラのように染めた。ランゲルハンスは二言三言彼女に囁く。そして共に踵を返しデュラハンの服屋へ入った。


「うっわー、ラブラブ」ユウが頬を染める。


「ありゃ時間かかるぞ。ゆっくり撤収しよう」クチバシ医者は溜め息を吐いた。

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