三章 三節
二階の自室のベッドに寝かされたキルケーは青ざめていた。枕許ではニエが血の涙を流し、ユウが彼女の肩をさすっている。遣い魔の黒猫や子豚、キルケーの家族である数多くの動物達がベッドを囲み見守る。壁際ではフォスフォロに肩を支えられた人魚が血色の瞳を潤ませ、青ざめた寝顔を睨む。ワイナリーの主人達、ケイプ、プワソン、リュウは動物達に気を遣い廊下で無事を祈っていた。
気が動転したニエの代わりに助手をクチバシ医者が務めた。湯を張った盥を抱えた彼は診察を終えたランゲルハンスに問う。
「どうして倒れたんだ?」
「過労だ。ここ最近調剤を私に頼っていたろう。ドラゴンの娘も、わざわざ私の家を訪ねて軟膏の調剤を頼んだ程だ。養生する事だ」ランゲルハンスは濡れ手をタオルで拭く。
両腕を抱いた人魚は唇を噛み締め爪を立てる。
「……いつもならさっさと調剤してお喋りを聞かせるんだけどそれも無かった。調剤に時間がかかって、ぼーっとしてた。街の薬局に搬出する量も減ってた。疲れた顔でソファに寝そべってたわ。でも近寄ると元気な振りをするの。……もっと早く支えれば良かった」
「自分を責めるな」フォスフォロが人魚の肩を叩いた。
「生前からキルケーは無理をする性質だからな。私とニエの件が丸く収まり肩の荷が降りた所に疲労が蓄積したのが重なったのだろう」ランゲルハンスは小さな溜め息を吐いた。
キルケーの手を取ったニエは力なく握る。するとキルケーの瞼が微かに動いた。瞼が徐に上がると瞳が覗いた。
「……ニエか」キルケーはかすれ声を発し、気怠そうに辺りを見渡す。
「大分疲れていたようだな」ランゲルハンスはキルケーの顔を覗く。
キルケーは状況を即座に理解した。
「……ああ。倒れたんだね。ニエ、ランゲルハンス、ごめんよ。折角の祝いの席を台無しにしちまった」
ニエは首を横に振る。
「気に病むな。休み給え。調剤の件も案ずるな。薬局には暫く私が請け負うと伝えておく」ランゲルハンスは椅子に座す。
「悪いね。甘えるよ」キルケーは力なく微笑んだ。
「アタシが面倒見るわ。泊まらせて貰うわよ。動物達の世話も掃除もアタシがやる」人魚がキルケーを見据えた。
「世話って……あんた、家事も満足に出来ないくせに面倒なんか見られないだろ?」
人魚は顔をしかめた。
「セニョーラ、俺も残ります。彼女に出来ない事を俺が、俺に出来ない事を彼女がやります」フォスフォロは微笑んだ。
「そうかい。安心した。任せるよ」
キルケーは一度瞳を閉じると徐に瞼を上げ、ランゲルハンスを見つめた。ランゲルハンスも表情を変えずに彼女を見つめる。キルケーは静かに頷く。
「……もう一眠りしてもいいかい? とても眠いんだ」
一同は頷くと動物達を伴って部屋を出た。
祝いの席はお開きになった。ニエやユウも屋敷に残り看病をしたかったがプワソンに窘められ帰宅した。ワイナリーの主人達は見舞いの品を送ると約束し街の宿泊施設に戻った。
クチバシ医者は表情を曇らすユウとリュウを家へ送り、店へ戻った。二階へ上がったクチバシ医者はピューロのカウチに腰を掛け項垂れる。キルケーの具合に気付かず、屋敷の大客間を借りた自分を恥じた。しかし既に過ぎた事は戻らない。明日花を持ってお見舞いに行こうと窓から外を眺め、何の花にしようかと思案した。
向かいのランゲルハンス宅では二階の明かりが灯っていた。心を痛めたニエが眠れないのだろう。あの夫婦にも悪い事をした。溜め息を吐くとカーテンを閉めた。
窓の外の道には青白い月明かりが降り注いでいた。
翌日、自宅に保管していたフォスフォロの着替えや白い寒牡丹、ニエからの見舞いのポプリと手紙を携え、クチバシ医者は小舟を漕いでアイアイエ島を目指した。
ニエも本当は共に見舞いに行きたかったようだ。しかしランゲルハンスが製剤作業に追われていたので手伝った。ランゲルハンスは見舞いを勧めたがニエは首を横に振った。彼女は見舞いに行きたかったが妻として夫を支えたかった。
クチバシ医者はキルケーの屋敷を訪れた。いつも走り回っていた動物達が廊下に座している。遣い魔の子豚が彼を出迎えた。クチバシ医者は子豚にフォスフォロと人魚を尋ねた。子豚は伝えた。人魚はキルケーを一晩中見守り、先程やっと眠ったらしい。掃除を終えたフォスフォロは人魚を客間に運び、動物達の食事を用意しているそうだ。
子豚の後に従ったクチバシ医者はキルケーの自室を訪れた。彼女は昨夜と変わらず青ざめた顔で眠っている。枕許では遣い魔の黒猫が主人を見つめていた。クチバシ医者は枕許に手紙とポプリを置いた。そして着替えが入った袋を床に置く。
「花を活けたいから水場を貸してくれるかな?」
子豚は頷くとバスルームへ案内する。子豚の後からアンティークの赤い壷を咥えた大型犬が現れ、共に向かった。クチバシ医者は水切りすると水と栄養剤を入れた赤い壷に寒牡丹を投げ入れた。
壷を抱えバスルームを後にすると黒猫とフォスフォロに鉢合わせた
「具合はどう?」クチバシ医者は問う。
「眠ったままさ。余程疲れているんだろう」フォスフォロは溜め息を吐く。
子豚と黒猫は寝室へ戻った。二人の男も後を追う。
「着替えを持って来た。ニエからはポプリと手紙。見舞いに来たかったようだけど悪魔の手伝いもしたいみたい」
「ニエはちゃんと奥さんしてるんだな」フォスフォロは微笑し寝室のドアを開けた。
クチバシ医者はスツールに赤い壷を置く。子豚と黒猫は主人の寝顔を見つめていたが男達に気付くと部屋を出た。
「明日は店を閉めてから来るよ。必要な物ある?」クチバシ医者は問う。
「グラシャス。明日は大丈夫だ。明後日食料を買って来てくれないか? 食料がないんだ。昨日のパーティーの残り物で明後日まで凌げると思う」
「食べ物がない?」
「動物達の物はあるんだ。しかし人間様の食料はないのさ。セニョーラは仙人みたいに霞でも食べているのかね」
「まさか。悪魔に初めて会った時にあいつの手料理をキルケーと食べたぞ。君やリュウにキッチンを貸した時に食材が捌けたんじゃないのかい?」
「いや。流石に場を貸して貰うだけで有り難いから食材は持ち込んだよ」
二人の男はキルケーを眺めて思案する。
「夜中、人魚が漁ったとかは?」クチバシ医者は問う。
「まさか。彼女は一睡もせずにセニョーラの枕許にいたよ。隣に俺が居たから間違いない。俺も眠ってないし」フォスフォロは眼元をこする。隈ができていた。
「ごめん。君が起きるまでキルケーを看てるから眠りなよ」
「大丈夫だ。仕事の納期に遅れそうで三徹ぐらいはしょっちゅうしてる」
「仕事って火マッチの?」
「ああ」
「……マッチで思い出した。頼まれていた花煙草の試作が出来たんだ。水マッチで吸うタイプだからシガーは水分を含んでる。火マッチでは吸えない。良かったら試してくれ。体に害はない。味が良ければそのまま商品化させる」内ポケットから花煙草の箱を出すとフォスフォロに渡した。
「グラシャス。仕事が早いな。セニョーラが回復したら外で吸うよ。願掛けだ」フォスフォロは人魚の横顔ラベルの箱を受取るとクチバシ医者の肩を叩いた。
二日経った夕方、クリスマスリースをドリュアスの店へ卸しクチバシ医者はアイアイエ島へ向かった。屋敷にはランゲルハンス夫妻が見舞いに訪れていた。
クチバシ医者はフォスフォロに食料が入った紙袋を渡した。フォスフォロの背後では人魚が体を隠し、顔を覗かせる。苦手なランゲルハンスがいるので彼女は仕方なくそうしていた。代金は後で返す、とフォスフォロは約束した。しかしクチバシ医者は首を横に振る。自分の代わりに彼がキルケーや動物達の面倒を見てくれるからだ。
丸椅子に座すニエの隣に佇むランゲルハンスにクチバシ医者は声を掛ける。
「製剤は落ち着いたのか?」
「ああ。しかし季節柄、病が流行する。遣い魔を残した。客が来たら伝えるよう命じた」ランゲルハンスは青ざめたキルケーの寝顔を眺める。
「そうか」
話を気にとめずにニエはキルケーの手を握り寝顔を見つめる。枕許にはポプリと手紙が一昨日と同じ状態で置かれている。
「起きてないのか?」クチバシ医者は眉を下げる。
「そのようだな」
「フォスフォロの話じゃ一度も起きて無いようなんだ。起こして何か食べさせた方がいいんじゃないか? 体力も戻らないだろうし」
「寝かせてやれ。眠る方が重要だ」
ニエは立ち上がると部屋を出た。
「……何か隠しているだろう? それか嘘を吐いているか」
「何も」ランゲルハンスは小さな溜め息を吐く。
「顔色が一向に良くならない」
「眠っているだけだからな」
「……パーンの時みたいに言いたい事を言えないんだろ。考えるからヒントをくれよ」
「キルケーとの約束でね。心臓に縛り付けた貴奴の所為ではない」
「力になりたいんだ。このままじゃキルケーは勿論、ニエや人魚、ユウ、皆が可哀想だ」
「……口に出した所で誰かが幸せになるものでは無い。それどころか皆、不幸になる」
「僕がそうさせない。不幸になんかさせない」
「山で穴に落ちて震えていたのに大した自信だな」ランゲルハンスは鼻を鳴らす。
「何とでも言え。怒らせて誤摩化す気なのは承知だ。僕はお前の何でも隠し通そうとする所が大嫌いだ」
「大した勘違いをするのだな君は」
ランゲルハンスが喉を小さく鳴らし笑っているとドアが開く。白い布を持ったニエが戻った。彼女はキルケーの唇に水分を含んだ布を押し当てた。滲み出た水滴は口内へ消える。布から仄かに甘い香りが漂う。
「砂糖水かね?」ランゲルハンスは問う。
ニエは頷いた。
ノックの音が聞こえた。クチバシ医者は入室を促す。ドアが開き部屋に入ったのはユウとリュウだった。
「キルケーの具合はどう?」ユウがクチバシ医者に問う。
「案ずるな。深く眠っている」クチバシ医者が答える間もなくランゲルハンスが答える。
ユウはニエの隣に座る。リュウは『手伝いして来る』と階下へ向かった。
世話を焼くニエの顔を覗いたユウは心配した。ニエもキルケー程ではないが青ざめていた。ユウはニエの肩に手を置くと優しく撫でた。
二人の男は女達を眺める。すると遣い魔が現れ、調剤の客が来た旨を主人に伝えた。ランゲルハンスは一人で戻ろうとするが、ニエはユウに布を持たせ夫へ駆け寄った。二人は屋敷を後にした。
ユウはニエから預かった布をキルケーの唇に当て砂糖水を吸わせる。
「何度か来たの?」ユウは問う。
「うん」クチバシ医者はユウの隣に座すとキルケーを見つめる。
「お話し出来た?」
「ずっと眠ったままだよ」
「……そう。早く元気になって欲しい」ユウは眉根を下げる。
「大丈夫だよ。きっと直ぐに元気になるよ」
言葉とは裏腹にクチバシ医者は心を痛めた。心配を掛けまいと嘘を吐いたりだんまりを決めたりする所がランゲルハンスと一緒だったからだ。
「ニエねーちゃん、辛そう。花嫁さんが苦しんでるなんて私も悲しい。リュウも人魚もフォスフォロさんも、ケイプもプワソンも皆キルケーを心配してる」
「……うん。僕だって悪魔だって心配してる」
「元気になるよね? またお話出来るよね?」ユウは瞳を潤ませクチバシ医者を見上げる。
クチバシ医者は返事の代わりにユウの頭に片手を乗せた。
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