二章 三節

 街の畑で小麦の収穫が終わった。クチバシ医者の広大な花畑のヒマワリも枯れ、ワイナリーでは茜ブドウの収穫を控えた頃、ランゲルハンスとニエは多忙を極めていた。井戸の管理者達が家に集まり所属者達の記憶の本を引き取りに来る。その準備に追われていた。


 記憶の本は地下書斎に収蔵されている。しかし収まり切らなくなった。ランゲルハンスは各管理者に配本しようと提案した。すると賑やか師のケイプの提案により本を引き取る際に集まるのだからと数百年振りに懇親会を開く運びになった。人嫌いのランゲルハンスは渋ったが普段顔を合わさない管理者もいるので承諾した。五日前から料理の仕込み、椅子や酒器及び食器の調達、本の整理等に追われていた。


 そんな折クチバシ医者は花の搬出の為にリヤカーを借りようとランゲルハンスの家に顔を出した。リビングを覗くとテーブルに仕込み半ばの食材が所狭しと並べられていた。


 ソミューズ液のボウルを持って急ぎ足でリビングを通るニエに声を掛ける。


「忙しい所悪いんだけど、またリヤカー借りていいかな? ユウとリュウの店に行くんだ」


 ニエは微笑むとクチバシ医者にボウルを持たせ、キッチンへ消えた。


「え、あ、あのー」リビングにクチバシ医者の声が虚しく響く。


 するとキッチンからランゲルハンスが姿を現した。


「ケーキ屋に行くのだな。丁度良い。三日後の晩にケーキが届くように手配し給え」


 ランゲルハンスはボウルと引き換えに金貨一枚を持たせた。最も会いたくない相手に会ったクチバシ医者は鼻を鳴らした。


「余った金は双子へのチップだ。君にはリヤカーを無料で貸すから案ずるな」


 クチバシ医者は舌打ちする。ニエなら気持ちよくリヤカーを貸してくれるのに。


 キッチンから顔を覗かせたニエがすまなそうに会釈する。


 ニエの願いなら仕方がない。忙しくて手を借りたいのだろう。クチバシ医者は『分かったよ』とポケットに金貨を仕舞い、庭先に停まっているリヤカーを借りた。


 キキョウやリンドウ、ガーベラ、ダリアをリヤカーに積んで双子の店を訪れる。売り子のバステトに取り次いで貰い、厨房の勝手口の前で弟のリュウに花を見せた。クチバシ医者が島に来た春から夏にかけてリュウは男児から青年へと急成長した。可愛らしい容貌はそのままに青年特有の筋骨張って無駄のない体躯になったリュウは花を気に入ったようだ。地面に垂れた水色のドラゴンの尻尾を機嫌良く振っている。


「暫く全種類卸して貰ってもいい? ウェディングケーキの注文を受けて入り用なんだ」


「勿論。毎度ありがとう御座います。結婚式か。僕の店にも花の注文が来ているよ」クチバシ医者はリヤカーから花器を下ろすと領収書を記す。


「華やかなのがいいらしいな。デザインが凝ってるから俺とねーちゃんでケーキ作ってる」

 花器を下ろしたクチバシ医者にリュウは金貨の袋を渡す。


「先月の支払い分」


「ありがとう。……そう言えばユウを見かけないけど元気かい?」


「元気元気。毎朝ギャアギャアうるさいよ。衣装持ちの癖に着る服がないだの、寝癖が直らないだの、どうせコックシャツと帽子を着るんだから分からないっての」


「そんな事言ったら可哀想だよ。お洒落したいんじゃないかい?」


「お洒落ねぇ……家じゃボロ着で涎垂らして寝てるんだぜ?」リュウは悪戯っぽく笑った。


 突如、厨房のドアが開く。怒りを露わにした乙女のユウが麺棒を弟の鼻先に突きつけた。


「わ……悪ぃ。悪かったって」リュウは表情を強ばらせる。


 麺棒を収めて頬を膨らませたユウは琥珀色の瞳でリュウを睨み、ドアを閉めようとした。すると呆気にとられたクチバシ医者と眼が合う。彼女は頬を紅潮させ慌ててドアを閉めた。


「な? 元気だろ?」リュウは溜め息を吐く。


「何よりだよ。あ。悪魔からケーキを頼まれたんだけど受けてくれるかな? ケンタウロスの配達に任せるのは心配だから僕が持って行こうか? 三日後の夜だけど大丈夫そう?」


「まいど。三日後って管理者の懇親会だろ? 美味い物たらふく喰えるってケイプが浮かれて踊ってたぜ」


「容易に頭に浮かぶよ。これ代金。余った分はチップだって」クチバシ医者はポケットに仕舞っていた金貨を渡す。


「相変わらずハンスさんは気っ風がいいな。なあ、俺たちも懇親会やろうぜ。この家じゃ狭いからトリカブトの家でやろうぜ。配達ついでに差し入れのケーキ持って行くよ」


「うーん……楽しそうだけど僕料理出来ないし家も広くないからなぁ」


 腰が重いトリカブトなら言うと思った。リュウは瞳をぐるりと動かすと呟く。


「……ニエねーちゃん、パーティーしたがってたってユウが話してたなぁ」


「やる!」クチバシ医者は即答した。


「おし。じゃあ三日後、日が沈んだらトリカブトの家に集合な?」


 クチバシ医者は深く頷いた。




 三日後ランゲルハンスの家に管理者が集まった。風の井戸の管理者であるシルフのケイプはチャコエビのアヒージョを摘まみ熱さに眼を白黒させ、元水の井戸の管理者であるオンディーヌのプワソンはニエの手伝いをし、ワイナリーの側に火の井戸を有するサラマンダーのフォスフォロはランゲルハンスと共にピザ釜の火の具合を見ていた。


 テーブルセッティングを終えたニエは、背を向けて釜の調子を見るランゲルハンスの肩を叩いた。ランゲルハンスは振り返る。ニエが食卓を指差していた。準備が整ったようだ。


「楽しんで来給え」ランゲルハンスはニエにバスケットを持たせ玄関へ送る。


「えー、つまんないなぁ。折角美女に育ったニエと会えたのに何処か行っちゃうなんてさ。オニーサンとお話ししよう。一組の男女として」燃えるような赤い髪で無精髭面のフォスフォロはニエにウィンクを送る。


 ニエは困ったように微笑むと会釈した。


「友達とパーティーするんだって。楽しんで来てね」プワソンは舌を火傷したケイプにコップを差し出しつつ微笑む。舌を火傷して喋れないケイプは手を振る。


 プワソンとケイプに微笑み返したニエは家を出た。


「綺麗になったなぁ。あんな娘と朝日を迎えたら幸せだろうな。お義父さん、ボクに娘さんを下さい!」ランゲルハンスに頭を下げたフォスフォロは合わせた手を掲げる。


「アレは君には絶対にやらん」


 花冷えブドウのスパークリングワインを開栓したランゲルハンスは各グラスに注いで回る。しかし最後のグラスが置かれた席には誰も座していない。


「来なかったわね」プワソンは眉を下げる。


「俺は初めて会うのに挨拶出来ないのは残念だな」フォスフォロは小さな溜め息を吐く。


「招待はしたがね。後で遣いをやって本を渡そう」


 カウチに座したランゲルハンスがグラスを掲げると三人もグラスを掲げ乾杯する。ケイプは席を立つとランゲルハンスのグラスに幾度となくグラスを当てた。ガラスとガラスが当たる音が響く。


「酒に宿るガラスの音嫌いの悪魔を追い払っているのかね?」ランゲルハンスは問う。


 ケイプは嫌な笑みを浮かべると『お前を追い払っている』とばかりにランゲルハンスを指した。ランゲルハンスとフォスフォロは失笑した。


「君は話せなくとも賑やかな奴だな」ランゲルハンスは鼻を鳴らす。


「ごめんなさいね。これでもハンスに戯れてるのよ」プワソンはケイプを席に着かせる。


「ああ構わない。口だけ静かなら今日は良い日だ」


 ランゲルハンスとプワソンは料理の話に花を咲かせ、ケイプは火傷の痛みを堪えて皿にがっつき、フォスフォロは釜から出したピザをカッターで切ってテーブルに並べた。


 一息ついたフォスフォロはテーブルやキッチンを見渡す。すると視界の端で何かが動くのが見えた。ドアの隣の汚れで曇った窓の外からだ。


「……ちょっと吸って来るよ」椅子の背に掛けていたジャケットを羽織り、フォスフォロは胸ポケットに手を突っ込むと玄関へ向かった。


「あら。煙草なんて吸ってたの?」眼を丸くしたプワソンが訊ねる。


「君が結婚する前からね。ハンスに払い下げて貰った物を細々と吸うだけさ。高いし数少ないからあまり吸えないけれどね」


 ケイプは手を止め眉間に皺を寄せる。


「貴方がハンスに払い下げた煙草が、高額で転売されてるなんてね」苦笑したプワソンはケイプを見遣る。ケイプはランゲルハンスを睨む。


「私は煙草を吸わない。お察しの通りだよ」ランゲルハンスは喉を小さく鳴らし笑った。


 無言で怒りを体現するケイプを尻目にフォスフォロは家を出た。ドアを後ろ手で閉め、明かりが灯る向かいの家を眺める。二階の窓は少し開いていた。人影が動き、陶器を重ねる音が聞こえる。天を仰げば夜を司るニュクス女神が敷いた夜空に星が輝き、それをめがけてランゲルハンスの家から煙が昇る。


「やあ、良い夜だ」フォスフォロはジャケットの胸ポケットから銀のシガーケースとマッチ箱を取り出し、言葉を続ける。


「……そう思わないかい? プラチナブロンドのお嬢さん」


 全裸の人魚が両肩を跳ね上げる。窓の側に屈んでランゲルハンスの家を覗いていた。


「誰よアンタ」人魚は血色の瞳で睨む。


「俺はフォスフォロ。井戸の管理者のサラマンダーさ」


「そう大トカゲって訳ね。それで尻尾を隠した大トカゲが何の用よ?」


「そんな格好してたら寒いだろう。中で愛を語り合わないかい?」フォスフォロは水色の瞳でウィンクを投げた。


「構わないで頂戴。カマキリのメスみたいに喰らうわよ?」


「君に喰われるなら本望だね。それも事後なら尚更さ。でも喰らうのは名無しの魂だけだろう。君は噂に名高い水の井戸の二代目管理者だろう、お魚ちゃん」


「……よく知っているわね。でも絶対に入ってやらないわよ。私のご飯を取り上げる憎い悪魔の巣なんて嫌よ」人魚は舌打ちする。


「そうか。それは残念だ……それじゃあ」フォスフォロはジャケットを脱ぐと人魚に羽織らせる。


「素直じゃない唇から本音を聴こうかな」フォスフォロは人魚の顎を持ち上げ、キスを落とそうとする。人魚はすかさず頬をつねり上げた。


「馬鹿にしないでよ! アタシは商売女じゃないわよ!」


 激高した人魚は立ち上がった。頬に光の粒が流れ落ちる。背を向け早足で道を渡る。尻が忙しなく揺れる。彼女は向かいの家のドアを勢い良く開き、閉めた。


 残されたフォスフォロは立ち上がるとシガーケースから紙巻きタバコを取り出す。トカゲ印の箱からマッチを取り出すと煙草に火を点け、マッチを飲み込む。


 香りを肺に満たして夜空を見上げ、腫れた頬を撫でた。

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