二章 二節

 どれくらい時が経ったのだろうか。意識が戻り、眼にしたのは暗闇だった。


 私は記憶を失っていた。何故暗闇に居るのか分からなかった。何処から来たのか、何処へ行くのか。暗闇から出ようと歩むが地に足が着かない。バランスを崩した瞬間、口に水が入る。咄嗟に上を向いて咳き込んだ。水がたゆたう。音が反響する。どうやら水を張った狭い空間に居るようだ。


 浮力に体を委ねようとするが仰向けになれない狭小空間なので巧く浮き上がれない。壁に手を伸ばす。幸いな事に凹凸があったので容易く手をかけられた。


 助けを呼ぼうとした。しかし声が出ない。精一杯声を出そうとするが喉から空気が漏れるだけだ。水中に何時間いたのか分からないが体が冷えて力が入らない。やがて声を出そうとする元気もなくなり、寒気に襲われ歯の根を合わす事すら出来なくなった。


 意識が遠のきつつも浅く呼吸をしていると天から光が射した。暗闇に慣れた眼を光が突き刺す。反射的に眼を瞑る。天から武骨な金属音と共に何かを降ろす音が響く。音は徐々に近付き、何かが水に浸かった。


「掴まり給え」天から声が響く。


 眼を開き水面に浸かった何かに手を伸ばした。掴むと体に引き寄せる。再び金属音がすると私は引き上げられた。体が水から上がると浮力から解き放たれ重たさを感じる。落ちないように渾身の力でしがみついた。


 そこは光が溢れる世界だった。眩しさに耐え切れず薄目を開けていると、大きな温かい手によって何かが引きはがされる。右胸に触れた温かい手は口の真上に庇を作り呼吸の有無を確かめた。そして温かい手は私を凹凸のある壁に委ねさせた。


 目が光に慣れ徐々に周りが見えるようになった。自分の足が見える。裸足だ。直ぐ側にはロープが付いた濡れた釣瓶が転がっている。


 視線を上げると大男が赤いストールを外し、私に掛けるのが見える。男の体温を含んだ柔らかいストールが素肌に触れる。自分が裸である事にその時気付いた。


 目の前で屈んだ男は涼しげな表情で肉薄する。痩けた頬、筋が通った鼻、品の良い唇が私の視線を捕える。中でも雪が舞う冬空を思い起こさせる鈍色の瞳は美しかった。しかし瞳を取り囲む白眼は充血している。先程まで人知れず涙を流していたようだ。


 触れたい衝動に駆られる。


 気怠い体に力を入れ、品の良い唇に自分の唇を重ねた。


 それが私と先生の出会いだった。


 先生は私にニエと名前を与えた。それから管理者と所属者として、魔術師と弟子としての生活が始まった。地下の井戸から出て来た当時は他に所属者が居なかった。先生は子供の私には記憶を思い出して選択をするなんてルールは教えなかった。しかし反論したい訳では無い。先生の側に居られればそれで満足だったのだから。


 初めに字を教わった。言葉が話せない分、読み書きは充分出来たが先生は特別な字を教えてくれた。それは先生と私にしか読めない文字だった。井戸とは階が異なるが同じ地下の書庫に収まる大切な書物の背表紙を見分け、魔導書を読む為の字だった。


 一度だけ地下に行った事がある。私を連れた先生は書庫で本を手に取り表紙を見せた。先生が書いた字と一緒で見た事がない不思議な字だった。先生は直ぐに書架に仕舞った。そして私が一人前になるまで地下室に立ち入る事を禁じた。地下室へ続く階段や入り口を潰した。先生は私に行く行くは助手をやらせたいと話した。


 一言一句を聞き逃すまいと必死に勉強した。薬草の育て方に薬の調合、簡単な魔術、術返し等々。


 家事は私が殆どこなしていた。片付け、掃除、洗濯、買い物、薬の販売は全てやった。それが家に住む条件だった。しかし料理だけは先生がした。先生にとって料理とは錬金術よりも尊い物らしい。先生は毎食それを話して聞かせた。一度言った事を二度と口にしない先生にとってそれだけは例外だった。先生の料理が私は大好きだった。特に保存食の豚のリエットは美味しくて食卓に並ぶ度に平らげた。いつも感情を顔に出さない先生はこの時ばかりは苦笑いをした。


 勉強ばかりが日課ではなかった。


 ある日、街に買い物に出ると音楽家のおじさんと仲良くなった。おじさんの家でクラブサンという楽器に触れた。初めて楽器に触れた私は綺麗な音が鳴るクラブサンを気に入った。時間を作って街に出る度に手ほどきをして貰った。少しずつ練習を重ね短い曲を弾けるようになった頃には夢中になっていた。家事や遣いもこなしていたし、その頃には字も覚えて魔術も簡単な移動術なら使えたので、先生に咎められる事はなかった。しかし音楽家のおじさんが去りクラブサンは売りに出された。おじさんが唐突に去った事も寂しかったけど、二度とクラブサンを弾けない事が悲しかった。二階の自室で鍵盤を描いた紙を弾くけれども、クラブサンに触れられないと思うと張り合いがなかった。


 ある夏の日、遣いから戻るとカウチに座って眉間に皺を寄せ、腕を組む先生が私に言った。『今日は二階に上がって絶対に降りて来ないように』と。何か失敗したかと思い巡らせたが咎められるような事はなかった。私は先生に覚えたての字で問う。しかし無駄を嫌う先生は冷たい視線で私を見遣るだけだ。何かしてしまったのならどんな罰でも受けるから言葉を掛けて欲しいと懇願するが先生は口を開いてくれなかった。


 訳が分からず涙を流しながら二階に続く階段を昇る。もう二度と先生に声を掛けて貰えないかもしれない。先生のお側に居られないのかもしれない。絶望の淵に立たされた私は自室のドアを開けた。


 出かける時にはなかった物が置かれていた。クラブサンだ。


 おじさんの家にあったクラブサンだった。泣き顔から一転、笑顔になりクラブサンに触れた。先生の言葉の意味がやっと分かった。やはり不器用だけれども優しい人だ。その日は夢中になってクラブサンを弾いた。長時間弾くとクラブサンから出た音が夜空に散らばり星になってうるさく輝く。新月の夜を余計な星で明るくするな、と先生が二階に上がって来た程だった。


 私は先生を愛している。きっと誰よりも。記憶を取り戻した今も、そして昔も。


 しかし最愛の先生を二度困らせた事がある。一度目は私が成長を始めた時だった。


 その日もいつもと同じ時間に目覚めた。カーテンの隙間から朝日が差し込む。朝食の支度をする音が一階から聞こえる。早く着替えなければ。片っ端から散らかす先生の手伝いをしないと後片付けが大変になる。


 掛け布団をずらし上体を起こそうとした。その刹那バランスを崩す。視界が湾曲する。初めて目眩を起こした。暫く横たわり、やり過ごす。視界が安定したので徐にベッドから出る。体が重い。特に下腹が重く、股がズーンと痺れた。腹痛を起こす程夕飯を食べてはいない。いつもなら朝食を楽しみに着替えるのに気持ちが暗く沈み、お腹が気持ち悪い。


 重い体を引きずりネグリジェを脱ぐ。裾に赤褐色の血が付いていた。白いシーツも同様に血が付いている。怪我してたっけ? ネグリジェと共に洗濯しようとシーツを剥がしにベッドへ近付いた。


 大腿から嫌な感触が伝わる。粘り気のある液体が肌を伝うのを感じる。大腿を見た。そこには鮮血が流れていた。下着から滲んでいる。


 声が出るなら悲鳴を上げたい程だった。心臓を掴まれたような気分になり背から冷たい汗が滲み出す。腰を抜かし床にへたり込んだ。病気なの? 死ぬの? 先生と一緒にいられないの? ただただ泣くしかなかった。


 私は階下へ降りるのを諦めた。二度と会えなくても大好きな先生に病気を移してはいけない。唇を弾き結ぶと死を覚悟した。


 なかなか一階に降りない私に痺れを切らした先生が階段を昇る。先生はドアをノックした。いつもなら私はドアを開けて先生を招じ入れる。しかし今日は入れる訳にはいかない。枕を手に取るとドアに向かって投げた。ドアの外の先生は無言だったがいつもと違う様子に疑問を抱いたようだ。


「どうした。開け給え」


 私は枕許の本を手に取るとドアに投げつけた。お願い、放っておいて。


 ドアの向こうで先生は暫く佇んでいた。しかし私の行動が心に引っかかったようで、開けるぞ、と言うと間髪も入れずにドアを開けた。


 駄目押しでもう一冊本を投げた。先生は本を手で受け、理知的な瞳で血だらけの私を見つめて部屋を見渡す。全てを理解した先生は徐に瞳を閉じるとその場に本を置き、ドアを静かに閉めて階段を下った。


 出て行ってくれた。しかし先生はドアを開けてしまった。病気が移らないといいんだけれども。涙を流しつつ、それでも最期に先生に会えた事を喜んだ。


 死について考えていると階段を軽やかに昇る足音が聞こえた。誰だろう。先生の足音とは違う。誰にしても部屋に入って欲しくはないのだけれども。


 足音は部屋の前で止まった。ドアを軽く叩く音が聞こえる。叩く回数が先生とは違う。危険を報せる為に私はお菓子の缶をドアに投げつけた。しかし無情にもドアは開かれた。ドアから顔を覗かせたのは深い緑色の長髪が美しい女性だった。


 彼女を入らせてはならないとクッションを投げつけた。クッションは女性の脚に当たり木の床に落ちた。


「大丈夫。心配しないで。貴女は死ぬ訳じゃないのよ」


 女性は微笑む。


「私はプワソン。貴女の先生に頼まれて来たの。私も貴女と同じく、毎月血が流れるのよ?」


「よく一人で頑張ったわね。貴女は一つ大人になったのよ」プワソンは私の手を取った。


 当時水の井戸の管理者だったオンディーヌのプワソンに励まされ、手当の仕方を教えられた。そして少女から女性になった事を祝われた。


「毎月大変だと思うけど気に病まないでね。貴女の体はこの作業を行うからこそ子供を身籠れるの。貴女の体はこれからどんどん大人になって、好きな人と子供を作れるの」


 プワソンは『困った事があれば遠慮なく頼ってね。私は貴女の味方よ』と部屋を去った。


 好きな人と子供を作れる。プワソンの言葉が頭をよぎる。


 先生の顔が思い浮かぶ。


 頬は紅潮して拍動が速まり、先程までの悲しみや苦しみなんて忘れてぼぉっとする。先生に抗ったから謝らなきゃならないのに。恥ずかしくてとてもじゃないけど出来ない。顔に出さないけど先生は心配してる。一秒でも早く顔を合わせなきゃいけない。私はお気に入りの子豚のぬいぐるみで半分顔を隠して部屋を出ると一階に降りた。


 先生はカウチに深く座して本を読んでいた。食卓には手をつけてない朝食が並び、信じられない事にキッチンも綺麗に片付いていた。足音に気付いた先生は顔を上げる。先生と目が合い心拍数が上がる。顔が熱くなり涙が出そうだ。私はぬいぐるみで顔を覆い隠すと瞬発的にお辞儀をして外へ駆け出した。


 後ろ手で家のドアを閉める。どうしよう。やっぱり顔を合わせられない。目が合っただけで恥ずかしくて死んじゃいそう。


 先生から離れた方がいい。心の中で詠唱し術を使って街へ移動した。


 行く当てがなく重い体を引きずりつつ彷徨っていると幸運にもプワソンに出くわした。


「あら、具合悪い筈なのにどうして街を歩いているの?」


 プワソンに抱きついた私は泣いた。彼女は何も言わず頭を撫でててくれた。ひとしきり泣いて落ち着くと彼女の手を取り、自室を出てからの経緯を綴った。


「貴女はハンスが大好きなのね。ハンスは幸せ者ね、素敵な女性に想われて。でも急に大人の女性になったなんて言われたら貴女だって困っちゃうものね。一つ提案があるんだけど聞いてくれるかしら?」


 私は頷いた。


「色々お話しましょう。気持ちの整理がつくまで泊まるといいわ。仕事を少し手伝う事になるけどいい? ハンスにはお泊まり会って伝えておくから」


 私は一もなく二もなく頷いた。


「じゃあ決まりね。……ところであのシーツとネグリジェどうしたの?」


 すっかり忘れていた。私は口を開いた。


「そう。分かったわ。今回は私が引き受けるけど、身の周りの事を出来る内は経血で汚れた物を殿方に触れさせてはダメよ」


 それから一週間程プワソンの家に滞在した。プワソンはクリーニング屋を営んでいたので日中はそれを手伝った。体が辛い時期だから服を畳むだけでいいと彼女は言った。しかしシーツとネグリジェを秘密裏に持って来てくれた恩を返したかった。可能な限り手伝った。三日目以降は心も体も落ち着いたので仕事が終わってからプワソンに様々な話を聞いた。年頃の男の子の事、体や心の成長の事、月例行事の際の入浴方法、子供の作り方……彼女は医学書を開いたり、ジュリオ・ロマーノの『ユピテルとオリュンピアス』の複製画を出したりして大真面目に講義した。彼女のお蔭で私の知識は偏りのない物になった。しかし滞在中は彼女の顔を見るのも気恥ずかしくなり一日中頬を紅潮させてた。


 一週間経ちそろそろお暇しようと思った頃、一人の男性が訪ねた。シルフのケイプだ。


「あれま。珍しいな。ハンスの野郎のお嬢ちゃんじゃねえか」玄関先でケイプは私を見つけた。ケイプは時々先生に煙草を払い下げに来るので知り合いだった。先生がその煙草をどうしているのか知らないけれども。


 私はケイプにお辞儀をした。


「っかぁー。やっぱりこの娘はいい子だねぃ。礼儀知らずのあの野郎に爪の垢煎じて飲ましてやりてえ。ところで嬢ちゃん、どうしてプーの家に居るんだい?」


 返答に困っているとプワソンが助け舟を出す。


「独身最後のお泊まり会よ」


 驚いた私は彼女の顔を見つめた。


「まだ話してなかったわね。井戸の権利を手放してケイプと結婚するの。私の井戸とケイプの井戸じゃ距離があるから、ケイプの家でクリーニング屋をやるわ。次の管理者候補が見つかったからそろそろ式も考えないとね」


 プワソンが微笑むと、ケイプは照れ臭そうに頭を掻いた。


「お泊まり会じゃあっしが邪魔しちゃ悪いね。さっさと退散するよ」


「じゃあ、また」プワソンはケイプの唇に軽くキスをした。


 ケイプもプワソンの額にキスを落とし、消えた。


 再び顔が紅潮する。プワソンがこの一週間教えてくれた事が本の中だけじゃなくて実際に起きる事なんだと実感すると鼓動が速まった。


 感謝とお祝いを伝えてプワソンの家を後にした。可愛い魚柄の袋に入ったシーツとネグリジェ、子豚のぬいぐるみを抱え一週間振りの我が家に入る。片付け係の私を待っていたかのようにキッチンもリビングも散らかし放題だった。先生の定位置の大きなカウチでは大きな体を沈めて本を膝に乗せ安らかに眠る先生が居た。寝顔を見るのは初めてだ。私が起きている時間は必ず先生は起きている。例えそれが一日中でも。


 ブランケットを先生の膝に掛けた。一週間振りに間近で見る先生の顔はやはり美しかった。痩けた頬、筋が通った鼻、品の良い形の唇、優しく閉じられた瞼の奥には鈍色の二つの瞳が夢を見ている。胸の中で愛しさが込み上げる。


 井戸から救われた時、私、先生にキスしたんだよね。恥ずかしさが込み上げると同時にある衝動に駆られる。


 規則正しく呼吸するのを確認するとそっと唇に唇を重ね、自室に戻る。ドアを閉めると同時に一階から先生が立ち上がった音が聞こえた。鼓動が跳ね上がる。朝になって気持ちが落ち着くまで一階に降りられなかったのは言うまでもない。


 先生を困らせた一度目はそんな思春期の頃だった。そして二度目は大人になってからだった。


 その頃先生のお側に居るだけは満足出来なくなっていた。医術を教えて貰っても製剤の手伝いが出来るようになっても、いつになっても先生の助手になれなかったからだ。先生の役に立ちたい。胸の中はそれだけでいっぱいだった。


 ある年の秋、島の中央地帯のワイナリーで収穫と茜ブドウ踏みが行われるので私は先生の遣いとして暫く滞在した。そこは先生の古くからの友人であるディオニュソスとクルーラホーンが営む、有名なワイナリーだった。ブドウ踏みは女の仕事。私は先生に頼まれてその仕事を毎年こなしていた。気っ風のいいワイナリーの主人達は毎年、去年のワインをお土産に沢山持たせてくれる。先生は料理とお酒をこよなく愛していた。


 その年もブドウ踏みを終えるとワインを沢山お土産に貰い、ケンタウロスの背に揺られて帰宅した。ドアに鍵が掛かっていた。いつもなら人嫌いの先生は家を空けないので鍵は掛かっていない。念の為にポケットに忍ばせている鍵を取り出すと解錠した。室内はワイナリーに行く前に片付けた状態のままだった。テーブルには悪魔文字で『暫く山に籠る。ニジマスの燻製を持って帰るのでウィスキーを用意し給え』と書かれた紙があった。


 ワインを庭のセラーに仕舞うと、横置きされたウィスキーをパントリーから取り出す。一度開栓されたウィスキーはコルクの閉まりが悪かった。瓶の口から酒が漏れ瓶と棚を汚している。濡れ布巾で瓶を拭くが誤って床に落とした。コルクが外れて酒が漏れ、床と絨毯に広がる。強い芳香が漂う。私は雑巾で絨毯と床を拭いた。もう一本ウィスキーをストックしてたかな? 買いに行かないといけないかしら。酒が染み込んだ絨毯を叩いていると床材がボコッと音を立てた。絨毯をめくると床板が割れていた。


 やってしまった。謝らないと。充て板を探そうと部屋を見渡す。すると穴から流れた空気が鼻をくすぐった。穴に顔を近づけ匂いを嗅ぐ。懐かしい匂いだ。床に手を添えると床板がカタカタと音を立てた。簡単に剥げそうだ。これは大昔先生が潰した地下室への入り口なのかもしれない。音が鳴った床板を五枚剥ぐ。すると人が通るのに充分な広さの穴が現れた。燭台を掲げて穴を覗く。直ぐ側に階段があったがそれ以上は闇が深くて見えない。


 記憶の糸を手繰った。地下は二階まであって私は最下の井戸から出て来たのよね。地下一階は確か書斎だった筈。書斎の本を読んでお手伝いする為に私は字を教えられたんだよね。まだ読めない字があるからお手伝いをさせて貰えないのかな。


 すると字を読めるか自分を試したくなり、地下室へ降りたい衝動に駆られる。


『一人前になるまでは立ち入り禁止だ』と先生の言葉が脳内に響く。先生と悪魔文字でやり取り出来る程になったし、ある程度の魔術も使える。それに医術の知識だって身につけた。背も伸びて胸も膨らんで大人になった。もっとお役に立ちたい。意を決し燭台を手に、地下室へ足を踏み入れた。


 地下一階に降り立つと書架が視界を遮った。背高の書架は壁一面を囲う。どの棚にも本が押し込められ、書架の前に山積した本が並ぶ。床には羊皮紙や山積みにするのが面倒になっただろう本が散乱していた。光を翳し散乱した本のタイトルを読む。ダナエ、ジョナサン、トビアス、ヘレネ、シノ、ジャック……黄金の悪魔文字で記された字は全て人名だ。


 書架の壁に沿って進む。隅から薬品の匂いが漂った。近付くとシンクとワークトップが在り、思いつきで先生が実験した事が窺えた。無論焦げがこびり付いた実験器具が山積している。部屋の中央に鎮座するライティングピューロには本が一冊置かれただけで整然としていた。散らかし屋の先生がそこだけ整頓しているなんて変だ。ピューロの本が気になり光を翳してタイトルを読んだ。


 ニエ。その本には私の名前が書かれていた。


 ニエなんて名前、私しか居ない。先生から貰った大切な名。タイトルの黄金の文字を撫でた。私の名前の本を大切に扱ってくれていると思うと愛しさが込み上げ、切なくなった。


 内容が気になった。耳を澄まし、先生が帰宅してない事を確認する。ピューロに燭台を置くと本を開いた。本の中表紙にも悪魔文字が記されていた。先生が書いた文字とは違い、印刷物のような字だ。私は中表紙を繰るとページを読んだ。


 一字目を読んだ途端、字が記憶となり堰を切って雪崩れ込む。脳内を様々な顔が駆け巡り人々の声が鼓膜を突き刺す。映像がコマ回しで流れる。腰を抜かしその場に尻をついた。


 私は死んでるの? 四大精霊と同じ井戸を持つ先生は太陽神だったの? これからどうなるの? 鼓動を落ち着かせる為に手を胸に押し当てようとした。


 しかし手は上がらなかった。手は黒煙を上げて燻り、指の第二関節が見えざる炎により燃え尽きていた。火を消そうと立ち上がろうとするが足も炎に喰われ動かせない。心臓や口腔、腹にまで燃え広がり体を蝕む。私は心の中で『先生』と叫んだ。


 薄れかける意識の中、先生の乱暴な足音が聞こえる。先生は階段を駆け下り、ピューロの前で手足を失って倒れる私を見つけると抱きかかえた。いつもは涼しい顔をしているのに今までに見せた事がない険しくて悲しそうな顔をしていた。


 先生は自分の左眼をくり抜きそれを燃え盛る私の胸に押し当て二言三言詠唱した。冬空を思わせる美しい左眼が潰れると、炎は消え、四肢が光の粒子と共に戻った。先生は残された右眼を充血させて私を見つめた。


 先生を見つめ返すと安堵して気を失った。


 私は両眼を失った。禁を破った罰であり、この世界に魂を安定させる為にとった処置だった。しかし光を失った訳では無い。真に見たいものを永遠に見られないと言う罰だ。友人や美しい風景を眺める事が出来ても大好きな先生の顔を二度と見られない。先生の首から上が見えなくなった。何よりも辛い罰だ。


 私が犯した罪……それは管理者に無断で記憶の本を閲覧した事だった。初めて先生からルールを教えられた。


 先生は左眼を犠牲にしてまで救ってくれた。ベッドに横たわった私は先生の大きな手を握り感謝を伝えた。しかし先生は大きな手を震わせる。


 私は首を横に振ると先生の掌に指で字を綴った。


 先生のお側に居られるだけで幸せでした。それなのにもっと役に立ちたいと思って地下へ入った私が悪いんです。先生は大切な眼を潰してまでも救ってくれました。感謝してもしきれません。私の命は先生の物です。


「……ニエ、君は勘違いをしている。確かに君は私の所有物だが、私は太陽神とやらではない。私は悪魔だ。私を慕うのは勝手だが履き違えるな。太陽神の許へ行くなら出て行き給え」手を振り解いた先生は部屋を出て行った。


 眼窩を潤ませつつベッドで思い巡らせた。私は太陽神の許へ逝かねばならなかった。太陽神の妻であるのに密かに補佐役を想い、この島へ来てしまった。それなのに何百年という長い時間を無駄にした。そして記憶を失った中、先生に恋い焦がれてまたもや太陽神や国を裏切った。故国はあれからどうなったんだろう。


 包帯から滲み出た涙が頬を伝う。


 太陽神の許へ行かねばならない。だけど最愛の先生を諦め切れない。いっそ他の女性に盗られてしまうのならば諦めがつくのかもしれない。


 補佐役の時と同様に想いを秘めて太陽神を探しに行くべきだ。でも太陽神はこんな心が汚れた女を受け入れてくれるのだろうか。私は彼を愛せるのだろうか。


 何かを判断するのには情報が足りない。階段を下ると歴史書があるリビングへ向かった。


 カウチには先生はいらっしゃらず玄関のドアが開け放たれていた。


 外を覗いたが荒れ地には誰も居なかった。溜め息を吐いてドアを閉めると本棚に向かい歴史書を開いた。何ページか繰ると故国の歴史が載っていた。年号を想い出して私が存在した時代のページを繰る。末尾だった。胸が痛んだが最後まで読んだ。生贄として手に掛けられてから直ぐに故国は滅んだようだった。


 密かに補佐役を想っていた所為だろうか、記憶を取り戻さない所為で滅んだのだろうか、それともなるべくしてなった結果なのだろうか。頭の中がぐちゃぐちゃになった私は本を閉じ、二階へ上がった。ベッドに雪崩れ込むと疲れて眠りについた。


 その日以来先生は私を名前では呼ばなくなった。私を物のように扱い、会話も最低限度で事務的な物に変わった。先生にいくら冷たくされても気持ちの整理はつかなかった。


 人嫌いだった筈の先生は頻繁に家を空けるようになった。夜も家に戻らない事が多くなった。時々思い出すように帰宅しては定位置のカウチで寝ていた。


 ある夜寝たふりを決め込む先生に近付くと私は今も尚大好きな先生の匂いを嗅いだ。知らない女性の香りが漂う。泣きそうになるが混乱しかけた頭で必死に考えた。先生は私に嫌われようとしている。私が太陽神と共に暮らすのを望んでいるんだ。


 そこまでやられて気付いた。一度生贄として捧げられたのだから誰の命でもなく自分の気持ちに従おう。太陽神の許へ嫁がなかった女として後ろ指をさされても良い。国を滅ぼした女として唾を吐かれても良い。誰にも私の先生を渡さない。


 大切な先生についた女の匂いを消す為に私は先生の膝に座すと首筋に抱きついた。先生がたてた嘘の寝息に耳を澄ます。首筋に頬を当てると心地よい温もりと共に鼓動が肌を伝わる。久し振りに先生に触れたので気持ちがよくなり、そのまま眠ってしまった。


 キルケーがこの家に来たのもそんな頃だった。彼女は先生が私にやる事なす事が気に食わない様で先生に突っかかっては小言を垂れていた。先生は喉を小さく鳴らし笑った。久し振りに先生の笑い声を聞けて嬉しくなった。


 キルケーはお母さんみたいな人だった。失礼な話だけれども生前世話を焼いてくれた大切なおばさんを思い出した程だ。彼女は先生への恋心の相談に乗ってくれた。しかしある晩カウチで寝たふりをした先生の膝に乗って寝ているのを見られた。はしたない行為は女を下げる、と笑って窘められた。彼女が来てからは家が明るくなった。


 彼女は私が先生に教えられた字を最初から使えた。記憶を取り戻すのにそう時間は掛からなかった。彼女は先生と契約を交わした魔女だった。キルケーは選択をしてこの島に残った。『これ以上あんたら悪魔夫婦の生活を邪魔しちゃ悪い』と離れ小島に引っ越した。


 キルケーが引っ越してから家は再び静かになった。しかし一つだけ良い事が起きた。先生が家に居るようになったのだ。私への物扱いは相変わらずだけれども嬉しかった。先生の体から知らない女性の匂いは消え、大好きな先生の匂いに戻った。


 現世では幾つもの国家が独立し指導者が争いを起こし幾つもの国が滅んではまた生まれた。経済危機や戦争から脱却し小康を取り戻した頃、クチバシ医者が島に来た。道で気絶した私を彼は背負って先生が居る我が家を訪ねた。そして彼は先生の所属者になった。


 先生に抱き上げられベッドに運ばれた私は大泣きした。私を物扱いする先生に対し抗議したクチバシ医者の優しさ、気が遠くなる程久し振りに私を抱き上げた先生の温もり。キルケーに遣い魔を送った私は血が混じった涙を流して床を湿らせた。


 夕食が終わると先生が術を使って部屋に入った。私は咄嗟に寝ている振りをする。地下室での事件以来先生が部屋を訪ねる事はなかった。


 先生は嘘寝を見破ると鼻を鳴らした。ベッドに腰を掛けた先生は頭を撫でる。その手は子供を撫でるようでもあったし怪我人を労るようでもあった。私はその手を取り頬に当ててキスをした。先生は手を振り払おうとする。しかし離すまいと力を込める。先生は諦めて鼻を鳴らすとベッドに横になった。


 鼓動が一気に速まる。起きている先生が私から逃げないなんて信じられない。男性と同じベッドに横たわるなんて思春期にプワソンが教えてくれた事を思い出した。私は熱を含んだ顔を背け再び寝たふりを決め込んだ。


 下手な芝居を打つ私を見て先生は喉を小さく鳴らし笑った。


 笑ってくれた。何年振りだろう。思わず先生の方を振り返る。二度と先生の顔を見る事は叶わないけれども先生が私の顔を見つめている事を感じた。優しい空気が流れているのが分かる。きっと美しい右眼に小さな私が映っているんだろう。見られないのが残念だ。


「ニエ」


 私は返事の代わりに握っていた先生の手を指でさすった。


「君は……」先生は言葉を続けようとしたが鼻を鳴らすと顔を背け眠った。


 私は厚い胸板に頬を寄せノイズが混じった鼓動を聴きつつ眠りについた。


 翌朝太陽の光が先生を照らしても尚、先生は眠り続けた。起さないように静かにベッドを抜けて着替え、上機嫌でリビングへ降り立つ。徹夜明けのキルケーが上半身をテーブルに乗り出しへたれていた。キルケーは問うた。私は先生に優しくして貰った事を伝えた。彼女は自分の事のように喜んでくれた。

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