二章 一節

 私は生前の名前を知らない。


 生まれた時から神への供物だったので名付けられなかった。


 しかし大人達は不便なようで私を『赤毛の子』や『太陽の子』と呼んでいた。私の容姿は周りの子供や大人達とは違った。彼らの髪は黒かった。皮膚も浅黒く顔の彫りが浅く、瞳の色は暗い。赤毛で白い肌で緑色の瞳の私とは違った。そして私は大人達のように口をきく事が出来なかった。物心つく頃にはこの土地の人間ではないのだと悟った。


 私は石造りの神殿の一室に住んでいた。部屋には白糸と金糸で織られた太陽のタペストリーが飾られていた。両親は死んだか殺されたか分からないが既に居なく、世話係のおばさんと共に住んでいた。周りの大人達とは違って気のいいおばさんだった。歌ってくれたり遊んでくれたり、太陽の神の事を話してくれたり字や算術を教えてくれたり……彼女と過ごした日々は気が遠くなる程に時が経った今でも忘れられない。物心つくまでは彼女を実の母親だと信じていた。


 神殿の他の部屋には年が同じくらいの子供が何人か住んでいた。皆、各々部屋を充てがわれて神事以外は顔を合わさず暮らしていた。同じ年頃の子供と遊んでみたかった私はおばさんの目を盗んで、自室を抜け出した。しかし阻む者がいた。冷たい鈍色の瞳をした神官の補佐役だ。白い肌に白い髪の彼も皆と違う外見だった。白い神事の衣装を纏う時には神々しく幽玄で清廉だと巫女達は溜息を漏らす。そんな眼光鋭い彼に捕まっては首根っこを掴まれ部屋に戻された。その度におばさんは補佐役に雷を落とされる。私はおばさんが大好きだったので補佐役の向こう脛を蹴り飛ばした。補佐役は冷たい瞳で睨むけど決して私を叱らなかった。私は神官や王と同じくこの国で一番偉い『太陽神の花嫁』だったのだから。この国で一番偉い私にとって大事な物はおばさんだった。しかしおばさんが叱られるのを見るのが辛いので脱走する事はしなくなった。


 おばさんは枕許でいつか私が死んで嫁ぐ太陽神の事を話してくれた。太陽神は全ての人を分け隔てなく愛し、全ての生き物を愛し大地に恵みをもたらして下さる。昼間天にいらっしゃる時は金色の清らかな光を降り注いで下さる。朝や夕方、山の端にいらっしゃる時は燃え上がるように目を腫らして泣いていらっしゃる。泣いておいでなのは愛する妻を地に落としてしまい、朝夕、地の近くで探しても見つからないから。貴女は赤い髪の太陽の子。太陽神の妻。太陽神の御許に帰らなければならない。おばさんは毎晩そう囁いた。


 おばさんや神官の話によると太陽神は風の神、火の神、水の神、土の神の四柱を従えていらっしゃる。体躯は逞しく容貌は美しく、心は情け深い。御身は全ての善にして全ての悪を許さぬ者だと聞いた。神殿は巫女ばかりで神官や補佐役しか男はいない。巫女やおばさんと変わらない体型の男しか見た事がない。太陽神がどんな姿でいらっしゃるか今一つ想像がつかなかった。


 ある夜目醒めた私は神殿を探検した。夜なら皆眠っているし補佐役も部屋に引っ込んでいるだろう。寝間着のまま部屋を飛び出した私は裸足で月明かりが差し込む回廊を渡り歩いた。冷え込んでいた。白い息を吐きつつ柱の影を跳んで歩いた。


 魚を捕まえて遊ぶ池の前を通りかかると畔に誰かが佇んでいた。咄嗟に柱の影に隠れ、その人を眺めた。清廉とした月明かりに照らされ背を向けていたのは補佐役だった。足音を忍ばせ踵を返したが補佐役に見つかった。おばさんがまた叱られる。部屋へ駆け戻ろうとしたけど首根っこを掴まれた。


 溜め息を吐いた補佐役は私を地に下ろすと羽織っていた赤いショールを掛けた。そして『お前も月を眺めに来たのか?』と問うた。初めて声を掛けられたので私は返答に困った。補佐役は鼻を鳴らすと『あまり夜更かしするな』と踵を返した。


 以来部屋を抜けて共に月を眺めるのが習慣になった。初めの内は月を眺めるだけだったがその内補佐役がぽつぽつと身の上話をした。彼は敗戦国の子供だった。容姿が美しいと生贄として供されそうになったが男だったので神官の補佐役として生かされた。彼の故国は月の神を崇めていた。捕われてから太陽神を崇める一方で、故国を想い出しては毎晩池の畔に佇み月を眺めているらしい。神官に見つかれば死罪だろうな、と補佐役は笑った。


 私も男の身であれば彼のような人生を歩んでいたのだろうか。もし戦が起こらなければ、もし心から同じ神を信仰していたなら、もし違う国で彼と会っていたなら、と生まれて初めて仮定の話が浮かび上がる。しかし深く考えるのは止めた。考えれば考える程に恐ろしい事に気付いてしまう。悲しそうに月を眺める補佐役の冷たい手を私は握った。


 背が伸び、服の裾も短くなるに連れて神殿から子供達は次々と姿を消した。おばさんの話によると四柱神の怒りや悲しみで起こる嵐や腐れ病、干ばつ、地震を鎮める為に神々の許へ嫁いで行ったそうだ。四柱のお心が乱れているので神官や補佐役は心配していた。一方でおばさんは私の嫁入りを楽しみにしていた。この頃からおばさんは巫女と共に花嫁衣装作りをする為に別室に籠るようになった。残された私は神官に太陽神に仕える為の心得を毎日聞かされた。


 その年は日照りが続いた。庭の花が枯れ、地もひび割れ、魚を捕まえて遊んでいた池も干上がり、街から人を焼く臭いが絶えず風に乗って運ばれてきた。おばさんはその嫌な臭いを嗅ぐ度に悲しそうに眉根を寄せる。しかし『太陽神が貴女を強く呼んでいる』と微笑んだ。花嫁衣装が完成し儀式の道具が揃ったのはその年の事だった。


 ある朝目覚めた私は枕許に控えるおばさんに顔を向けようとした。しかしそこには巫女達が佇んでいた。巫女に寝間着をはぎ取られる。煌びやかな衣装を着せられツタの冠を冠らされつつも辺りを見回す。すると部屋の入り口におばさんが平伏していたのが見えた。巫女の腕を振り切った私はおばさんの許へ駆け寄った。おばさんに触れようとすると『なりません』と巫女に強く制された。


 おばさんは顔を伏せたまま『おめでとう御座います。今までお世話出来て幸せでした。どうかお幸せに』と囁いた。その時が来た事を知ったと同時におばさんに触れられずに別れなければならない事を知った。死ぬ事は恐くなかった。しかしおばさんと別れなければならない事は胸が裂ける程辛かった。


 椅子に座らされ生まれて初めて化粧を施される。止めどなく涙が頬を伝い化粧が進まない。化粧を施す巫女の眉が下がる。補佐役が部屋に入る。忙しい時にダラダラ支度するなと補佐役は文句を垂れる。私は涙を見せまいとそっぽを向いた。


 私の横顔を眺めて全てを察した補佐役は溜め息を吐いた。世話係にも禊をさせ儀式の場まで同行させるように、と指示を出し補佐役は部屋を去った。おばさんは別の巫女に付き添われ部屋を出た。


 禊を済ませたおばさんが部屋に戻る。唇に紅を差されていたが椅子から駆け出した私はおばさんに抱きついた。おばさんは微笑み礼を述べた。口紅がひん曲がった私は首を横に振る。声が出るなら育ててくれた感謝を言いたかったし、おばさんの同行を許した補佐役にも礼を述べたかった。


 化粧を直され神殿での神事を終え、入り口に付けられた輿に乗る。今まで暮らした神殿とは最後の別れだったが外へ出た事がない私にとって重要ではなかった。外の世界を見たい。輿の直ぐ下にはおばさんが居るし太陽神が私を待っている。期待に胸を踊らせた。


 輿を見ては平伏する人々がいる街を抜けひび割れた畑を通り過ぎ、神山の麓に入る。目新しい物がなくなったので輿を担ぐ人足の背を眺めていた。浅黒い背から汗が噴き出て分厚い筋肉は忙しなく動く。同じ男でも神官や補佐役とは違った。逞しい体躯とはこのようなものなのか。太陽神はこのような姿でいらっしゃるのか。


 背を見つめていると人足は振り返った。目つきの悪い、唇が歪んだ意地の悪そうな男だった。恐ろしくなり私は顔を背けた。震えていると輿の下を歩くおばさんが声を掛けた。私は首を横に振り微笑した。再び前を見ると人足は前を向き黙々と歩いていた。


 山の斜面が急になると神官の声と共に輿は止まる。輿は徐に地に着けられ私は降りた。ここから山頂の祭壇までは斜面が急なので歩かなければならない。輿を担いでいた人足二人は貢ぎ物を担ぐ。革靴を履かされた私は神官や補佐役、おばさんと共に生まれてから最初で最後の山登りを始めた。巫女達は輿が降ろされた場所に佇み一同が山頂へ登るのを見届けた。


 悪路に息を弾ませる。多少は緑がある街とは違い、岩石だらけの山では足を捕われる。転びそうになる度におばさんに助けられる。


 幾度か休憩を挟んで登山を続けた。山頂に着いたのは夕方だった。


 私はおばさんと手を繋ぎ、山頂から麓を見下ろした。燃え上がった太陽が地平線に体を沈ませ私を探しているのが見えた。切なくなる。同時に死への不安も湧き起こる。今まで恐いと思った事がないのに何故だろう。


 杖を置いた神官は石で築いた祭壇に黒曜石のナイフを納めて祈りを捧げた。補佐役は人足に下がるように命じた。その場に貢ぎ物を置くと人足は背を向けて山を下った。


 神官は納めたナイフを手に取り天高く掲げると私の髪を一房取り、ナイフで切り取った。髪は補佐役が起した火にくべられ煙を上げる。おばさんは私の手を離し、下がった。


 いよいよお別れだ。太陽神の御許へ参らなければならない。これ以上何も考えずにおばさんに笑顔を向けると祭壇の前に跪き、頭を垂れた。


 神官が祈りの言葉を詠唱する。


 補佐役の衣擦れの音が近付く。


 祭壇に貢ぎ物を納める音、神官が補佐役からナイフを受取る音が聞こえる。


 頭は純白で曇りやシミなど一つもない。


 瞼を堅く閉じて頭に夕日の光を浴び、その時を待つ。


 神を称える言葉だけが響く静かな世界が広がる。


 しかし静寂は破られた。斜面から人が駆け寄る荒々しい音が響き渡る。神官が詠唱を止めた刹那、鈍い音と共に何かが膝元に落ちた。


 驚き瞼を開けた。目の前に飛び込んで来たのは頭から血を流して倒れた神官だった。駆け寄ったおばさんが『見ては穢れる』と急いで私の目を手で覆う。少し離れた所で再び鈍い音がして何かが地に落ちる音がした。


 身に迫る危険を悟り、逃げて、と袖を引っ張るがおばさんは恐怖に足をすくませる。やがて荒々しい足音が近付いたかと思えば、鈍い音と共に嫌な振動が背に伝わった。


 目を覆っていたおばさんの手は力なく落ちる。視界が広がる。目の前には頭から血を流して倒れた神官を踏む足が見える。酷く乱れた呼吸が聞こえる。見上げると先程輿を担いでいた目つきの悪い、唇が歪んで意地が悪そうな男だった。肩を激しく上下に揺らし荒々しい呼吸をしていた。


 誰かに助けを求めようと辺りを見回す。しかし神官は息絶え、貢ぎ物が入った大きな箱の前では黒曜石のナイフで腹を刺された補佐役が倒れていた。足がすくみ、逃げる事すら出来なくなってしまった。

 男は私の首根っこを掴むと持ち上げて放り投げた。固い地面に腰が当たって痺れる。男は動かなくなったおばさんを足蹴にし、私に近付く。鋭い眼光をした男は動けない私に覆い被さり、上衣に手をかける。


 恐怖心に精一杯抗い、男を睨みつけ唾を吐いた。男は頬を殴り飛ばす。口の中が切れ、頭が鐘を突いたように響く。男は上衣を引き裂く。『この国はもう終わりだ。病や餓えが生贄で収まるものか。どうせ終わりなら宝を盗って、こんないい女抱いてやる』と、男が一人ごちるのが意識の遠くで聞こえる。


 涙が出た。ただ受け入れるしかない自分に憤りを感じた。儀式を土足で踏みにじられ神官や補佐役を殺され、母とも頼むおばさんを殺されても何も出来ない自分が悔しかった。


 男は私の下着に手をかける。私は目を瞑って舌を噛み、乱暴されるくらいなら今直ぐ太陽神の御許へ逝こうと顎に力をかけた。


 その刹那、男は力なく体を私に預けた。恐る恐る瞼を上げると、肩を上下に揺らし呼吸を乱し、男を睨みつける補佐役が仁王立ちしていた。彼の腹から大量の血が流れる。倒れた男の首には黒曜石のナイフが生え、大量の血が流れ出ていた。


 補佐役は立てと命じた。しかし私は足がすくんでいたので容易に立てない。補佐役は右の顔を苦痛で歪ませると嫌みを言った。こんな時にまでも嫌みを言うのかと腹が立った私は睨み返し、補佐役の向こう脛を蹴ってやろうと立ち上がる。


 その瞬間すんなりと立ち上がれた事に驚いた。補佐役は初めて『いい子だ』と褒めた。


 夜の池以外では話しかけない補佐役が苦痛に顔を歪ませ話しかける。『傷つけられたか?』『死ぬのが恐くなったか?』と。私は首を横に振った。補佐役は『そうか』とぶっきらぼうに言った。彼が話しかける度に腹から勢い良く血が流れる。私は打ち捨てられた上衣を傷口に巻いた。補佐役は目を丸くしたが苦しそうに微笑み『太陽神の御前には私とお前の異国の者二人だけになってしまったな』と声を掛けた。私は布の結び目を縛った。


 補佐役は問いかけた。『日が沈めば太陽神や神官、お前を咎められる者はこの場にいない。私と共にこの地を離れ生きる道だって残されている。共に生きるか?』


 額から大粒の汗を流す補佐役の瞳を見つめた。冷たい鈍色の瞳はこんな時にでも美しい。この冷たくも優しい男と逃げ、共に生きる道は確かにある。身を寄せ笑い合い愛し合い、生を謳歌する。彼に愛を伝え、手を取り合って生きていければどんなに幸せだろうか。


 しかし首を横に振る。私は死んで民や王を救わなければならない。


 目尻から一筋の涙を流す私を見つめ補佐役は『お前はいい女だな』と微笑んだ。


 補佐役は私に重心を預けつつ共に祭壇へと歩む。途中おばさんや神官の亡骸の瞳を閉じて祈りを捧げた。涙を流す私に補佐役は『お前と共に天に昇り太陽神に仕えるのだから泣くな』と諭した。


 祭壇の前に跪き、頭を垂れ、もう一度太陽神に祈りを捧げる。


 夕日は地に隠れかけていた。もう猶予がない。急いで逝かねばならない。


 心を清らかに近付く死の音に耳を済ます。


 死者に安息を。


 この国に平安を。


 そして残された者に太陽神の祝福を。


 ナイフが振り下ろされる音がした瞬間、何かが割れる音と痛みと共に視界は暗転した。


 薄ぼやけた意識の中、瞼を少し開けると黒い翼が見えた。誰かの手が私に触れる。優しい手だ。誰だか確認したいけど巧く瞼が上がらない。その内とても眠くなって瞳を閉じた。

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