一章 十節

 客間に通されたクチバシ医者はキルケーから犬の遣いを借り、ユウとリュウに『パーンは暫く休む』と報せた。彼は分厚いマットレスのベッドに横たわった。身も心も疲れていた。しかしパーンの魂をどうするか決めなければならない。熟考したいが脳に霧がかかったようで巧く働かない。少し眠る事にした。


 クチバシ医者は瞳を閉じた。マットレスから無数の腕が生え、体を地に引っ張られる感覚に捕われる。するとまた夢を見た。


 始めに見えたのは白いマントルピースに囲まれた暖炉だ。随分前から使われていないようだ。中には埃を被ったトランクが積まれている。マントルピースには白亜の額に収められた大鏡が飾られていた。山羊と妖精の置物や青い花が鏡に映る。しかし鏡を眺めるクチバシ医者の姿は映らない。


 マントルピースから少し離れたブルーのカウチに女が座し雑誌を読んでいた。ウェーブがかかったプラチナブロンドの長髪を一本の三つ編みにした女だ。微笑を浮かべ組んだ脚を揺らす。クチバシ医者は隠れようと後退る。しかし背後にあった花台に脚をぶつけた。

 女は彼に気付かなかった。


 キッチンから亜麻色の短髪の女が赤いマグを持って現れた。彼女はカウチの背後に回り込むと長髪の女にキスをした。


「また見てるの?」短髪の女が問う。


「うん。だって綺麗なんだもの」長髪の女が微笑む。


 短髪の女は微笑み返す。


 クチバシ医者は短髪の女に既視感を覚えた。パーンだ。この人懐っこい笑みはパーンだ。しかし目印である大きな傷を負った平らな左胸には形の良い小振りの胸が乗っていた。パーンがキスをした長髪の女はシュリンクスだろうか。クチバシ医者は双子のケーキ屋の似顔絵を思い出した。もじゃもじゃ頭のパーンの隣で笑う、顔半分に傷を負った女性に彼女は似ていた。きっと彼女がシュリンクスだろう。


 マグを置いたパーンはコーヒーテーブルに積まれたリーフレットを引っ張り出す。そしてシュリンクスが座すカウチの肘掛けに凭れ掛かった。


「一緒にこれ読もうよ。折角の休みなんだもの。早く決めて計画立てようよ」パーンはシュリンクスの膝にリーフレットを置く。


「もうちょっとこれ見ていたいけど、いいわよ」


 シュリンクスはコーヒーテーブルに雑誌を開いたまま置いた。グラビアにはデザイナーの服に身を包んだパーンが大体的に映っている。


「意地悪しないで。頁が見えるだけで恥ずかしいよ」パーンは眉を八の字に下げた。


 シュリンクスは微笑む。パーンは頬を染める。


「ねえってば」


「自慢のトップモデルさんが載っているのに残念ね」シュリンクスは雑誌を閉じた。


 パーンはシュリンクスの膝からリーフレットを一枚取ると流し読みする。


「何処に行きたい?」シュリンクスはリーフレットを取ると忙しなく視線を動かす。


「君とずっと一緒に居られるなら何処でもいいよ」


「もう。そうじゃなくて」


「だったら国外かな。遠い所」


「いいわね」シュリンクスがもう一枚リーフレットを取り上げる。続いてパーンも取る。


「ボク、食べ物が美味しい所がいい。いっぱい食べちゃダメって言われてるけど」


「賛成。歴史や文化が深くて独特な所もいいわね」シュリンクスは頷いた。


「また事前に沢山勉強して行くの? 君は仕事だけに飽き足らず本当に勉強好きだね」


「貴女は勉強嫌いだものね」


「ふんだ。頭が軽いから足も速いですよーだ」パーンは頬を膨らませた。


「あら可愛い。今度のコレクションはその顔でランウェイを歩いたら?」


「意地悪」パーンは再び頬を染めた。


 シュリンクスが新たにリーフレットを取る。すると視線が止まった。


「ねえ。ここいいんじゃない?」シュリンクスはリーフレットをパーンに渡した。


 口を尖らせていたパーンは表情を一変させる。


「うん、いいね。ここいい。すごく行きたい!」


「じゃあ決めちゃう?」


「うん!」


「本屋へ行って細かい事を調べましょう。観光地や簡単な挨拶や素敵な宿泊施設とか」


「何が美味しいとか!」


「もう」


 二人は立ち上がるとリーフレットを持ってリビングを出て行った。コーヒーテーブルには様々な国の観光情報や写真が掲載されたリーフレットが散らかっていた。


 クチバシ医者の意識が引き戻された。目覚めたと同時に寝過ごした事を確信した。窓辺のレースカーテンから朝の光が射し込んでいる。少しだけ休むつもりだった。まだ結論を出してない。しかし気持ちは傾いていた。後はパーンと皆が幸せになれるかどうかだ。


 もう一度パーンの顔を見て考えようとクチバシ医者は彼女の部屋へ入った。先客が二人居た。一人は窓側の椅子に座し枕許に顔を埋めて眠るニエ。もう一人はアールヌーボー調の低いチェストに座し気怠そうに遠くを見つめるランゲルハンスだった。


「女性の部屋だ。ノックし給え」


「おい。生殺与奪なんてバイト代に見合わないぞ」


「管理者直々に商売を手伝ったんだ。それくらい当然だ」


 鼻を鳴らしたクチバシ医者は眠ったニエと真向かいのパーンの枕許に椅子を置いて座す。


「具合はどうなんだ?」


「尾は切れたようだな。冥府まで呼び戻さなければならない」


「……パーンの具合もそうだけど、お前の、だ」クチバシ医者はランゲルハンスを見遣る。


「私に拳を喰らわせようとした君に二回も心配されるとはな。明日は雪が降るかもしれない」ランゲルハンスは喉を小さく鳴らして笑った。


「うるさい」クチバシ医者は鼻を鳴らす。


「……パーンの件を除いて大した術は使えそうもない。心臓の近くを刺されたからな。しかし水を大量に飲んだので心配は無いだろう」


「血液になるものを摂った方がいいんじゃないのか? 肉とか」


「肉よりも井戸水がいい。私にとっての血液だからな。側にあれば心強い」


「へえ。じゃあ井戸を枯らせばお前は死ぬのか?」


「井戸ばかりではない。島の水脈や海水全てだ。枯らしても死なないがね」


 開け放たれた窓から心地よい風が吹き抜ける。外で生い茂る大樹の枝では一尾の魂が踊るように回っている。


「……それよりも聞きたい事がある。何故ティールームでパーンを殺さなかった? 会えばやられると考えた筈だ」クチバシ医者はランゲルハンスを見遣る。


「さあね。咄嗟の事でね」


「じゃあお前がシュリンクスを殺したのか?」


「ノーコメントだ」


「……質問を変える。殺された所属者は裁定を受けて死ぬと遺骸はどうなるんだ?」


「死体が光の粒子になって霧散するがね」


「じゃあ自死や選択で死を選んだ場合は?」


「霧散して消える」


「じゃあ」


「まだ何かあるのかね」ランゲルハンスは鼻を鳴らした。


「選択後、現世へ帰った場合は?」クチバシ医者はランゲルハンスの隻眼を見つめた。


「現世で最後に晒していた姿で帰る」ランゲルハンスは唇の端を微かに上げた。


 窓から射し込んだ朝日がニエの茜色の髪を照らした。


「結論は出たのかね?」ランゲルハンスは問うた。


「ああ」


「して、どうするつもりかね?」


「事情は分からないけど僕は何も『言わない』んじゃなくて『言えない』お前を信じる」


 大理石の置物にはめ込まれた時計の針が七時を指す。ドアの外からノックの音がした。クチバシ医者は入室を促した。キルケーが部屋に入る。


「おや。ニエとランゲルハンスもおいでかい」


「パーンが心配だと聞かん坊でね」ランゲルハンスはニエを顎で示しチェストから降りた。


「ああ! またチェストに座っていたんだね!」キルケーは叫んだ。


「この屋敷の椅子は座面が低いので仕方無かろう」


「もう一度やってみな。胸の風通しを良くしてやるよ!」


「おお恐い恐い。恐ろしい魔女殿だ」ランゲルハンスは喉を小さく鳴らし笑った。


 枕許に顔を埋めていたニエが徐に起き上がる。ランゲルハンスの血が付いた包帯はそのままだ。クチバシ医者に気付いた彼女は会釈した。クチバシ医者は手を振る。


「さて。結論は出たのかい?」キルケーはクチバシ医者に問う。


「ああ。呼び戻しに行く」


「そうかい。頼んだよ」キルケーはパーンの頬を撫でた。


 ニエもパーンの手を両手で包むと立ち上がった。そしてワンピースのポケットから何かを取り出すとクチバシ医者に握らせた。


「え。何?」クチバシ医者は手を開く。掌には水色の小石が載っていた。


「あら。トルコ石だね。旅のお守りだけど友情や信念を貫くって意味の石でもあるよ。魂を呼び戻すのは大層な旅だからね」キルケーはクチバシ医者の肩を二度叩いた。


「友情か」クチバシ医者は青白く光る眼を細めて苦笑する。


 邪気の無い笑顔でニエはクチバシ医者を窺う。


「ありがとう。必ず呼び戻して帰るよ」クチバシ医者は石をシャツの胸ポケットに入れた。


「別れの挨拶はそろそろいいかね?」ランゲルハンスはクチバシ医者を見下ろす。


「ああ」


「忠告するが必ずしもパーンを呼び戻せる訳ではない。呼び戻せたとてこの場所へ帰れる保証もない。全てはパーン次第だからな」


「構わない。パーンにもニエにも恩を返したい。僕は皆が笑顔で暮らすのを眺めるのが好きだ。絶対にこの島に帰る」クチバシ医者はランゲルハンスを見据えた。


 ランゲルハンスは左眼を遮蔽していた黒い眼帯をずらすと顔をクチバシ医者に近付ける。クチバシ医者は眼窩に広がる深淵に見入り、気を失って崩れ落ちた。


 窓の外の大樹では一尾の魂がその様を見届けていた。

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