一章 九節
先程から頬を叩いているのにも関わらずパーンは起きない。諦めたクチバシ医者はリヤカーの荷台に彼女を乗せ、アームを握って思案していた。
これからどうしよう。パーンを送りたいが家を知らない。しかし彼女の宿敵である悪魔宅に面する自宅で介抱するのは頂けない。彼女の雇い主であるユウとリュウの家も避けたい。錯乱した状態を幼子達に見せたくない。何処で介抱したらいいのだろうか。アームを握った手を動かしていると眼前に一匹の黒猫が現れ、地面に座した。
「屋敷に来い。ニエから俺の主人のキルケーに連絡が届いた。大まかな事情は知っている。案内するから付いて来い」嗄れ声を発した黒猫は背を向け歩き始めた。
クチバシ医者はリヤカーを牽引して黒猫の後に従った。街を抜け右に荒れ地、左に田園地帯に挟まれた道を通り海岸へ出る。以前彼がパーンに助けられた所とは逆の方向だった。砂浜には白木の十字架が刺さっている。浜辺には一艘の小舟が打ち上げられていた。
黒猫は小舟に駆け寄ると飛び乗った。
「乗れ」
クチバシ医者はリヤカーの荷台からパーンを下ろし、背負う。
「グズグズするな。早くしろ」黒猫は大欠伸をする。
「話せる癖に手伝わないのか」パーンを背負ったクチバシ医者は細い脚を小刻みに震わせて黒猫を睨む。
「遣い魔が無償で手伝いをするとでも? 俺はキルケーから対価を受取って仕事しているだけだ。『案内しろ』と言われたが『手伝え』とは言われてない」
「ああ、そうかい」
クチバシ医者はパーンを乗せると引いては押し寄せる波に抗い小舟を海へ押し進めた。浜に筋を描いた小舟は海に浸ると浮力で砂地を離れる。クチバシ医者は腰が海水に浸かる所まで小舟を押し進め、目指す離れ小島に背を向け飛び乗った。櫂を握る。少しでも早く小島に着くようにと上半身の筋肉を駆使し小舟を漕ぐ。
「なんだ。ヒョロ吉の癖に頑張るんだな」黙々と櫂を動かす彼を黒猫は眺める。
「頼りない僕だって頑張る時はあるんだよ」
普段運動しない所為かクチバシ医者の息は直ぐに上がる。小島への距離は長い。
「もうへばったのか。根性無しのヘッポコめ」
「黙れ」疲れていたがクチバシ医者は休まない。しかし漕げども一向に進まない。
「クソがっ」
クチバシ医者が悪態を吐いて顔を上げると、船尾で人魚が胸を乗り出し血色の瞳でパーンの顔を眺めていた。驚いた彼は櫂で小突いて追い払おうとした。
「ちょっとやめなさいよ。まだ喰おうともしてないでしょ」
人魚は突き出された櫂をかわすとパーンの顔を覗く。
「……死んでいるみたいね」
「縁起でもない。悪魔を刺して気を失っただけだ」クチバシ医者は人魚を窘めた。
「そう。不味いわね」
「そりゃ自分の管理者を刺したら不味いよ」
「違うわよ。もうパーンは目覚めないかもしれない」
「え」
「……アンタ名前は?」溜め息を吐いた人魚はクチバシ医者を見上げる。
「クチバシ医者」
「ねえクチバシ医者、アンタこの島で目的はある?」
「目的って……記憶を取り戻す事だろ」
「大抵はそうよね。でもパーンは違う。悪魔を刺す事なの。……所属者は記憶を取り戻すとこの島に残るか現世に戻るか、死ぬか選択しなければならないのは知ってるわよね? でも記憶を取り戻す事が必ずしも選択する条件じゃないのよ。記憶を取り戻す事は手段の一つであってそれよりも強い目的があればそれが選択の条件になるの」
「つまり……悪魔を刺したパーンは目的を果たし選択をしたと言う事か?」
「御名答。シュリンクスを失ったパーンは記憶を取り戻す事よりも彼女を殺した悪魔に復讐を遂げる事を望んだ。シュリンクス亡き今、パーンに生きる意味は無い」
「そんな」クチバシ医者は櫂を握る手を震わせた。
「とにかくアイアイエ島まで運ぶんでしょ? 頭がきれるキルケーなら打開策を考えてくれるかも。こんな小舟くらい曳いてやるから大人しくしなさい」
海に潜った人魚は船首から顔を出して小舟を引っぱる。
「お前が漕ぐよりも断然速いな」黒猫が呟く。
「うるさい。……でも人魚って案外良い奴なんだな」
「言い忘れたけど代金しっかり払って貰うからね」人魚は振り返る。
「クソッ! 営業かよ!」クチバシ医者は彼女が良い奴だと思った事を後悔した。
数分で小舟はアイアイエ島の海岸に着いた。人魚に代金を支払ったクチバシ医者はパーンを背負うと先を急かす黒猫の後に従おうとした。
「ちょっと待ちなさいよ」波打ち際で俯せる人魚が声を掛ける。
「何だよ。チップなら渡さないぞ」
「アタシも行くわ。薬を買わなきゃ」
人魚は胸の谷間に収めていた丸薬を取り出し飲み込む。すると尾が二つに割れて脚になり鱗が皮膚に変わる。人魚は両足で立ち上がった。
「頼むから隠してくれ! 特に下半身!」クチバシ医者は顔を背け叫ぶ。
「金貨くれるなら隠してやってもいいわよ」
クチバシ医者はパーンから借りていた布と金貨一枚を懐から出すと人魚に投げつけた。
「まいど」受け止めた人魚は胸の谷間に金貨を挟むと布を開いて腰に巻き付けた。
「愚図愚図するな。早く行くぞ」二人を待っていた黒猫は鼻を鳴らすと先を行く。
「早く行くわよ、童貞」豊かな胸を揺らした人魚は彼を追い越し、黒猫を追いかけた。
クチバシ医者は舌打ちをした。
木漏れ日が落ちる森を歩くとアメリカン・ビクトリア様式のクリーム色の屋敷が現れた。周囲には多くのハーブが植えられポーチへと導く階段には長毛の猫や大型犬が寝そべる。踏まないように乗り越えると独りで開いた黒い一枚板のドアから玄関に入る。ステンドグラスのドアを開けると奥まで動線が真っ直ぐに走っていた。その中を極彩色の大型インコやカラスが飛び交う。ドアを数えきれない程に広い。天井が高い。正に屋敷だった。
「ぼさっとするな」呆然と眺めるクチバシ医者を黒猫が咎めた。
黒猫は玄関ホールを左に曲がり、ドアと同じ素材の重厚な階段を駆け上がる。その後を人魚とクチバシ医者は付いていった。コの字型の階段を昇り切ると既に黒猫を見失っていた。何処に行ったのか見当つかない。辺りを見回すクチバシ医者をよそに人魚は歩き出し、階段からすぐ右手の部屋のドアノブをひねった。クチバシ医者は後を追った。
人魚がドアを開けるとクチバシ医者は風の流れを感じた。天井まで届きそうな程に高い窓は上方にスライドして開放されている。穏やかな海風が室内を吹き抜ける。白鳩を肩に止まらせたキルケーが背を向け、ピューロに置いた黒い革カバンを漁っていた。
「キルケー」クチバシ医者は声を掛けた。
キルケーが振り向くと白鳩は飛び立った。白鳩は窓を潜ると空の彼方へと消えた。
「ニエの白鳩から大体の事は聞いてるよ。そこのベッドに寝かしておあげ」
クチバシ医者は頷くとパーンを下ろしダブルベッドに寝かせた。キルケーはパーンの胸に手を翳したり親指で瞼を上げて瞳に光を当てたり、革カバンから出した道具で診察した。一通り診終わるとキルケーは溜め息を吐いた。
クチバシ医者はキルケーの顔を覗いた。キルケーは首を横に振った。クチバシ医者は俯き拳を握り、人魚は胸許で組んでいた腕を震わせた。
「でも」キルケーが沈黙を割く。
クチバシ医者と人魚はキルケーを見つめる。
「一つだけパーンを救う手立てはある」
「救えるって?」クチバシ医者は問うた。
「一から説明した方がいいね。今のパーンは記憶を取り戻すよりも大事な目的『ランゲルハンスへの復讐を遂げる事』を果たしちまった。その場合選択しなければならない事は知っておいでかい?」キルケーはベッドの端に腰を掛けた。
「ああ」
「復讐を遂げたパーンにとってシュリンクスのいない世界は意味が無い。よってこの娘は死を選んだ。だからこの肉体は死んでいる。ここまでいいね?」
「ああ」クチバシ医者は声に苛立ちを混ぜた。
「この島でも現世でも死ぬと魂が体から抜けて浮き上がり尾を引く。やがて尾が糸のように細くなると切れて世界から消える。多くは冥府で裁定を受け、悩みの無い国のエリュシオンへ行ったり消滅したりする。しかし尾が太い魂も居る。そいつは魂の尾を切る神でなければ断てない。強い心残りがあると尾が太い。しかしパーンの魂の尾は切れた」
「生きてるのか、死んでるのかどっちなんだ?」
「魂の水脈の血液を循環させる心臓が動いてない。現世の定義じゃ『死んでる』状態さ。だけどこの島では体は硬直しないし腐敗しない。この肉体は魂本来の姿だからね。裁定を受けたらこの世界では『死ぬ』けどね」
「どうすればパーンの魂を肉体に戻せるんだ?」
「肉体から離れた魂を戻せるのは『ヒュプノス(眠り)』か『タナトス(死)』の神々しか出来ないよ。管轄は現世だけさ。それに禁忌事項だから無理だね。しかし方法はある。オルフェウスのように冥府へ行って裁定にかけられる前のパーンを呼び戻す事さ。だけどそんな大層な魔術を使えるのはランゲルハンスだけさ」キルケーは溜め息を吐いた。
クチバシ医者は唇を噛んだ。自分を刺した奴の魂を救うなんて考えられない。
「それにね。魂を呼び戻せるのは選択してない者だけだ。失敗すれば二度と戻れない。この場に所属者なんてあんたしかいないからその役回りはあんただよ。それでも行くかい?」
ベッドから立ち上がったキルケーは窓辺の椅子に座し背を向けた。彼女は溜め息を吐く。
「このまま瞳を閉じている方がこの娘にとって幸せかもしれない。魂が肉体に戻れば復讐を胸に生き続けるだろうよ。もう二度と選択出来ないから永遠に地獄は続くんだよ。……まあこれは私の独り言だけれどね」
風が室内を吹き抜ける。
「どうするか考えておあげ。そうだね、明朝までに結論を出して欲しいね。パーンを見る限りそれが許された猶予だ。『あとは何とかし給え』ってランゲルハンスに一任されたんだろ?」キルケーは振り向いた。
「ああ」クチバシ医者は顔を上げる。
「嫌な奴だけどあいつは小さな男じゃない。物事を任せたら力は貸すけど口出ししない。パーンの状態はランゲルハンスに報せるから今日は泊まって考えな」
先日キルケーに抱えられていた子豚が何処からとも無く現れ、クチバシ医者のスラックスの裾を口で引っ張った。クチバシ医者を優しいまなざしで見上げると子豚は口を開く。
「お部屋にご案内するよ」
クチバシ医者は頷くと部屋を出る子豚の後に従った。
「……アイツはどっちに落ち着くのかしらね」
「どうなんだろうね。頼りないから心配だけど元管理者様が後を頼んだくらいだから信じてやる他ないね」キルケーは窓の外を眺める。
「悪魔を信用してるのね」
「あいつは生前の私が契約を結んだ悪魔だからね。それより、いつもは岸辺から呼び立てるのに屋敷にまで来て何の用なのさ?」
「何って、脚が生える丸薬のおかわりを買いに」
「あんたも素直じゃないね。この間沢山買っただろ?」
「うるさいわね」人魚は眉根を寄せた。
「あの娘を心配してくれて嬉しいよ」
「違うったら!」頬を膨らませた人魚は部屋を出ようとする。
「何処に行くつもりだい? 薬を買いに来たんだろ?」キルケーはポケットから丸薬の小瓶を出し、振る。
「気が変わったわ! 帰るの!」人魚は足音を踏みならし階段を下った。
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