一章 八節

 自宅のリビングにランゲルハンスは戻った。出血が多量だった為、意識が朦朧とし足許が覚束ない。不死とはいえ心臓の近くを刺されたのだ。仕方が無かった。


「ニエ。家に着いた」ランゲルハンスは自分にしがみつくニエに囁く。


 しかし泣き続けるニエは顔を上げない。ランゲルハンスは痛む胸を引きつらせつつも腕を上げ、彼女の頭を軽く叩いた。


「もう大丈夫だ。顔を上げて床板を剥がし給え」


 気付いたニエは血に汚れた泣き顔を上げ頷いた。すると二階から滑空した白鳩が彼女の肩に止まる。ニエは白鳩にキスをするとキッチンの小窓を開けて鳩を空へ放った。そして料理道具や実験道具が突っ込まれたワインの木箱をどかし床板を剥いだ。五枚剥ぐと地下室への入り口が現れる。中は暗闇だ。ニエは枝付き燭台のロウソクに灯をともすと片手で掲げ、よろめくランゲルハンスの手を引いた。


 二人は転ばぬように階段を注意深く下り、地下の書斎に降り立つ。四方が書架になった壁を揺らめく灯火が照らす。床には書架に収まり切らない書籍や書類が山積している。強いカビの匂いがニエの鼻腔を突く。ランゲルハンスの手を離したニエは座面に書籍が積まれたカウチから急いで本を片付けようとした。


「いや、ここではない。井戸で休む」


 手を止めたニエは書架に体重を預けたランゲルハンスの方へ振り向いた。


「案ずるな。少しでも水脈の近くで休んだ方が回復は早い」


 ニエはランゲルハンスの手を引くともう一階分、階段を降りた。草木が繁茂する空間が広がる。不自然にも光が差していた。光に照らされた草木の間から割れたビーカーの欠片や錆びた水差しが覗く。細い幹の木が乱立し行く手を阻む。森のようだった。


 息があがったランゲルハンスは額から汗の玉を流す。師の手を引いたニエは木の枝を避けて彼を通らせる。地に石が転がっていたので拾って師を通らせた。ニエはランゲルハンスを井戸まで案内すると井戸の石垣に寄りかからせた。


 ランゲルハンスは浅い溜め息を吐くとニエに命じた。


「水を汲み給え」


 井戸の蓋を開けたニエは釣瓶を落とした。釣瓶が水面に当たると音が反響する。ニエはロープを引っ張り上げる。滑車が回る武骨な感触がロープから手に伝わる。彼女は釣瓶を取ると手を差し入れ、水をすくって師に飲ませた。浅い溜め息を吐いたランゲルハンスは唇の端から水を垂らす。


「ジャケットの内ポケットにナイフと針とスキットルが入っている。ナイフで私の服を破れ。針は火で溢れ。スキットルは蓋を開けて寄越せ」


 ニエはランゲルハンスのジャケットの内ポケットから道具を出すとまずはナイフで師の上衣を裂いた。ナイフなんて見たくもないが仕方が無い。裂けた上衣から分厚い胸筋に刺さったバタフライナイフと血液、汗が覗く。顔を逸らしたニエはスキットルの蓋を開けて師に持たせた。ランゲルハンスはそれを傷口に傾け、琥珀色の液体を注いだ。酒の香りが漂う。ニエは小指程の大きさの紙筒から針を出すと燭台の火であぶった。


 ニエは冷ました針を渡そうとした。するとランゲルハンスは針を持った右手首を掴むと彼女を引き寄せた。彼は左手で彼女の頬に触れた。


 予期せぬ出来事によりニエの時間が止まる。


「貰うぞ」


 ランゲルハンスはニエの紅潮した頬の側の髪を一本抜く。そして息を吹き針穴へ通すと彼女に持たせた。


「離れろ。血が出る。顔を背け給え」


 ニエは後退ったが首を振った。


「馬鹿な女だ」


 ランゲルハンスは力なく笑うとナイフのハンドルを握り、一気に引き抜いた。途端に激しい出血が始まる。ランゲルハンスはスキットルに残っている酒で傷口を清め、髪を通した針を傷口の周囲に刺した。針を持った指が止まる。遠くの一点を睨み、唇を噛み締めていたランゲルハンスは浅く溜め息を吐くと運針した。


 傷口を閉じ終えたランゲルハンスは地面に針を突き刺すと瞳を閉じた。ニエは彼の隣に座り頭を肩に預け、共に眠りについた。

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