一章 十一節

 不思議の国のアリスに登場するウサギの穴を思い出した。


 悪魔の左眼窩を覗いてからクチバシ医者はひたすら落ち続けていた。深い穴のようだ。上にあった光は点になり消失した。被っていたペスト帽と何処かで別れた。飛行機の鼻先に括り付けられたような風圧に屈する。ペストマスクまで脱げそうになり慌てて押さえた。『大層な旅』と聞いてはいた。しかし落下する旅なんて聞いた事がない。


 クチバシ医者は悪魔を恨んだ。出発前に説明してくれよ。


「あの悪魔め!」


 悪態を吐いた瞬間、体が何かに当たる。今度は転がり落ちる。五回転してようやく地に手をつけた。目を回しつつマスクに触れると脱げかかっていた。被り直すと見回した。


 鬼火が辺りを仄暗く照らしていた。目前は灰白色のマネキンで埋め尽くされている。


 驚いたクチバシ医者は後退る。しかしそこにもマネキンが無造作に積み重ねられていた。マネキンの開いた口には鬼火が灯っている。彼は目を凝らした。前方も背後もマネキンだらけだ。悲鳴を上げそうになったが唇を噛んで堪えた。よく眺めるとマネキン各々の顔つきや髪型、体型、傷の有無、皮膚の爛れ、四肢の欠損状態は異なっている。亡骸だ。クチバシ医者は短い悲鳴を漏らした。


 しかし脳裡にパーンの寝顔が横切る。クチバシ医者は口をつぐむ。彼女を探さなくては。膨大な亡骸で築き上げられたこの丘陵の何処かに彼女は居る筈だ。説明されなかったがそれが魂を呼び戻す事だろうと合点した。


 胸中で謝りつつも亡骸を踏みしめ、クチバシ医者はパーンを探す。彼女の名前を叫びつつ歩き回ったが返事はない。亡骸の開いた口に灯る冷たい火が弱々しく揺れる。恨みがましい目をむいた者と時折視線が合うが直ぐに逸らす。浅い呼吸をしている者に会うが救いの手を差し伸べず心を鬼にして歩み続ける。悲しい広大な死の土地だった。


 亡骸を踏みしめて移動するので足許が不安定で気を緩めると転びそうになる。乱雑に積まれた岩山を昇るような要領だ。息があがって声がかすれた頃、何かがかすれる音が耳に入った。音は一定のリズムを刻むが時折外れる。機械的な音では無い。誰か居るのかもしれない。クチバシ医者は歩みを速めた。誰かいませんか、と叫ぶと脳内で耳障りな声が響く。悪魔の声だ。


 ──早く戻り給え。長時間は持ち堪えそうも無い。アレが君にトルコ石を渡したな。それが二つに割れるまでだ。


 クチバシ医者は胸ポケットからトルコ石を出した。亀裂が入っている。


「碌に説明しなかった癖に時間を切るなよ。僕より図体デカくて不死なら傷口が痛むぐらい我慢しろよ」


 ──私の問題ではない。やはり君が消えかかっている。粒子になって霧散しかけている。


「予め分かってるなら出発前に忠告してくれよ!」


 ──忠告すれば尻込みするだろう。女性の前で無粋な真似をしたくはなかろう?


「するか! 僕は貧弱だけど女性の前じゃ格好くらいつけるさ!」


 悪態を吐きつつ亡骸の丘陵を越えると大河に出くわした。此岸へ小舟が一艘近付く。クチバシ医者は一呼吸置くと苛立ちを胸に押し込み船頭に問う。


「お尋ねします。亜麻色の短髪で下半身が山羊の女性を見かけませんでしたか? パーンって名前なんです。僕、彼女を探しているんです」


 黒いローブに身を包みフードを目深に被った船頭は棹を川底に刺すと小舟を停めた。黒い手袋を嵌め、棹を握る全指には大きな宝石の指輪が輝く。背の高い船頭は舟を降りると腰を屈めクチバシ医者のマスクを覗いた。


「活きのいいのを見るのは久し振りだで。貴様、生者だな?」フードの深淵から女の声がした。言葉から察するに老女なのだろう。


「ええ。まあ」


「む。ヒョロ吉のくせにオオイヌを倒したのか?」


「オオイヌ?」


「ふん。見ておらんのか。さてはランゲルハンスの仕業だな?」


「僕は大切な友人を呼び戻しに意地の悪い悪魔に落とされてました」


「ふん。ではオオイヌや儂の責任にはならなさそうだで。儂は大河ステュクスへ続くアケロンの渡し守をしておってな。山積されておる人間を法廷へ送らねばならん。儂が女だと知ると抵抗するのが容易いと思って皆暴れるでな。以来血気盛んな奴を眠らせて運んでおる。苦労ばかりだで。眠っておる奴ばかりで舟に乗せるのが大変だで。死体の顔なんてよく見ておらんわ」溜め息を吐いた船頭は難儀そうに腰を下ろした。


 クチバシ医者は俯き唇を噛み締める。船頭は腰をさする。


「今日は女を運んでおらん。今日は男の日だでな。男しか運んでおらん。何処かで息はしてるだで。勝手に探すがいい」


「ありがとう御座います」


 船頭に背を向けたクチバシ医者は再びパーンを呼ぶ。何度か呼んでいると肩に小石が当たった。マスクにも当たる。どうやら光の見えない天から降ってきたようだ。


「おい。貴様」腕を組みクチバシ医者を眺めていた船頭が声を掛ける。


 クチバシ医者は振り向く。


「埒があかん。儂が探してやるだで」


「え」


「ただし条件がある」


 立ち上がった船頭はクチバシ医者のマスクを覗き込む。


「女は見つけてやる。その代わりだでお前は永遠に儂の仕事を手伝え」


「いえ、結構です」


「無理だで。今、儂がその女を隠したわ。返して欲しくば条件を飲むしかあるまい」


「嘘を吐くな!」


「む。嘘ではないぞ? ではお前が言っておらなんだ特徴を言おう。上半身は裸体、左胸の乳房は無く大きな傷跡がある」


 クチバシ医者は全身から血の気が引くのを感じた。


「交換条件だで。どうする?」船頭はクチバシ医者に肉薄した。


 現世に帰らねばならない。理由は想い出せないが何が何でも帰らなければならない。きっと大事な……魂よりも大事な事を成さねばならないんだ。そうじゃなければ弱っちい僕が強く想う筈はないもの。クチバシ医者は唇を噛み締め瞳を閉じる。すると島民達の顔が現れた。パーンの顔、キルケーの優しい眼差し、パーンの手を包み込むニエ、楽しそうにお茶を飲むユウとリュウ、心配そうに見つめる人魚の眼差し、キスされるシュリンクス、胸を刺された悪魔……頭で様々な顔が駆け巡る。皆、パーンの無事を祈る者ばかりだ。僕だってその一人だ。あの時パーンに救われなかったらここへ辿り着けなかった。今度は僕がパーンを救う番だ。僕は皆が笑い合って暮らすのを眺めるのが好きなんだ。


 天秤が揺れる。記憶に無い過去をとるか現在出会った者をとるか苦渋の決断を迫られる。……どちらもとりたい。僕はどちらも救わなければならない。……でも。


 瞳を開き、クチバシ医者は腹を決めた。


「分かった。条件を飲む。でも彼女が起きて自分の意志で帰るのを見届けてからだ」


「ふん。二言はないな?」


「ああ」


 船頭は難儀そうに一歩引くと腕を伸ばし、真横に振った。するとクチバシ医者と船頭の間にパーンが現れ、その場に崩れ落ちた。


「パーン! 起きてくれよ! 皆心配している」クチバシ医者はパーンを抱き起こし、頬を軽く叩いた。その様を船頭は腕を組んで眺める。


「ニエだって、人魚だって、キルケーだって皆君の無事を祈っているんだ! ここから出よう! 皆、君が大好きなんだ!」


 パーンの瞼が動く。起きるまでもう少しだ。


「お願いだ! 君が僕を救ってくれたように今度は僕が手を差し伸べる番だ! シュリンクスは生きているよ! シュリンクスの許へ帰ろうよ!」


 徐に瞼を開いたパーンはかすれ声で呟く。


「……嘘だ。シュリンクスは殺された。生きてるなら連れてきてよ。優しい嘘ならこのまま死なせて……」再び瞳を閉じたパーンは眠りについた。


 肩を激しく揺すり思い切り頬を引っ叩くが彼女は目覚めない。頬から赤みが消え、周りの亡骸同様灰白色に変わる。浅い呼吸も徐々に静かになる。頑に死を望んでいた。


 シュリンクスさえいれば。ここに彼女さえいればパーンを救えただろうに。来てくれよ。頼む。クチバシ医者は生暖かい滴が頬を伝うのを感じた。


 ──クチバシ医者よ。


 脳内で悪魔の囁きが聞こえた。


「……なんだよ。こんな時に」


 ──アクシデントが起きた。この空間へ屋敷の外に居た魂が流入した。気を付け給え。


「それがどうした」クチバシ医者は声に怒気を含ませる。


 ──私がこの空間と島への道を繋げていられるのは島民二名までだ。それ以上の者や島民以外が流入すれば道が崩落するかもしれない。


 クチバシ医者は小石が振って来た事を思い出した。崩落は始まっているのだ。胸ポケットからトルコ石を取り出すと亀裂が深くなっていた。今にも割れそうだ。


「帰るのはパーンと流入した魂だけだ」


 ──どういう事かね?


「僕は残る。これ以上道が崩落しないように気張ってくれ」


 ──どういう事だと聞いているのだ。


「黙れ! 喋る暇があるなら道を繋いでろ!」


 叫んだと同時に何かが凄まじいスピードでクチバシ医者の頭に直撃した。火花が明滅する視界で彼は落下物の軌跡を追う。仄暗い死の国には不釣り合いな生命力が溢れた光の軌跡だった。魂だ、と瞬時に理解した。魂は勢い余って亡骸の丘陵を転がり消えた。


 痛みに耐えつつもクチバシ医者は握っていた石を確認する。衝撃で握り潰したと思ったが無事だ。再び胸ポケットに仕舞った。


「む。また生者が入ってくるとはな。賑やかで良い日だで」船頭は能天気に笑う。


 悪魔や魂に気を取られていたクチバシ医者はパーンを起そうと抱きかかえた。


「や。誰か来よる」手で庇を作った船頭が丘陵地帯を眺める。光り輝く女がこちらへ来る。


「知り合いか?」船頭はクチバシ医者のマスクを覗く。


「如来様みたいに後光が射す奴なんて知り合いにいないね」


 不安定な丘陵を物ともせずに越えた女は笑顔を向けお辞儀した。青いセルフレームの眼鏡を掛け、プラチナブロンドの長髪を横に流した神々しい程に美しい女だ。しかし顔の右側に大きな手術痕があり痛々しかった。


 女の雰囲気に圧倒され、クチバシ医者と船頭はお辞儀を返した。


「あの子がこちらに居ると聞きました」女は微笑む。


 クチバシ医者と船頭は互いを見合わせた。


 女はクチバシ医者に近付くと彼が抱いているパーンを揺すった。


「起きて。ずっと貴女の側にいたのよ。お願い。起きて。お願い。生きて」


 揺すっても擦ってもパーンの瞼は上がらない。


「起きなさい!」女はパーンの頬を思い切り引っ叩いた。パーンを抱えていたクチバシ医者の鼓膜まで嫌な音が鳴り響く。


 するとパーンの瞼が微かに上がった。重たそうな瞼に覆われた瞳は自分を引っ叩いた女を捕える。瞼は瞬時にして開かれた。


「おはよう。久し振りね寝坊助さん」女は微笑んだ。


 先程まで瞼に覆われていた瞳は潤む。溢れた涙が頬を伝う。


「会いたかった!」クチバシ医者の腕を振り切ったパーンは女の腕に飛び込んだ。彼女は女の顔を両手で触れ存在を確かめると深いキスを落とした。


 恥ずかしくなったクチバシ医者は顔を背けた。しかし船頭は喰い入るように見ている。彼は彼女の袖を引っぱると明後日の方向を向かせた。


「シュリンクス、何故ここに居るの? 悪魔に殺されたよね?」唇を離したパーンが問う。


「記憶を取り戻して現世に帰っただけよ。貴女を待っていたのよ? ハンス師と鳥頭さんが導いてくれたお蔭で貴女に会えたの。島じゃ魂だから会っても話が出来ない。でも冥府なら人の形をとれるから話が出来るわ」シュリンクスはパーンの手を自分の手で包み込む。


「鳥頭?」パーンはクチバシ医者と船頭の方を見た。灰白色だった頬が瞬時に上気する。


「えへへ。恥ずかしい所を見られちゃった。皆、僕を心配してくれたの?」


「勿論。鳥頭さんが貴女を救いに来てくれたのよ」


「大変な思いさせてごめんねクチバシ医者。ありがとう」パーンは微笑んだ。


「私がハンス師に殺されたと思った貴女は復讐に夢中になっていたわね。記憶を取り戻すと現世で最後にとっていた姿に戻って帰るのよ。私は血だらけだったからハンス師に血をつけたまま帰ったの。ハンス師は真実を貴女に言えないから心配だった。私、ずっと貴女を見ていたのよ?」シュリンクスはパーンの顔を覗き込んだ。


 パーンは洟をすすり、涙で顔をぐちゃぐちゃにしてシュリンクスに泣きついた。


「ごめんなさい。ボク、皆に迷惑かけた。クチバシ医者にも悪魔にも」シュリンクスの胸で泣きわめくパーンは子供のようだった。


 シュリンクスはパーンのウェーブがかかった髪を撫でた。


「君と生きたい。でも思い出せない。賢い君は記憶を取り戻せたけどボクは頭が悪いもの」


「記憶を教える事は禁じられてるの。貴女に教えたら魂を取り上げられるし……」


 シュリンクスは思案した。すると何か閃いたようでクチバシ医者に目をつけた。


「僕はパーンが何者かなんて知らない」クチバシ医者は首を横に振る。


「違うわ。思い出したの。貴方忘れたの?」シュリンクスはクチバシ医者を見上げるといつの間にか持っていたペスト帽を被せた。


「貴方は私達を知っているし私も貴方を知っているわ。パーンも貴方を知っている筈よ」


 泣きはらしたパーンとクチバシ医者は互いを見合わせる。


「マスク取って貰ってもいいかしら?」シュリンクスは問うた。


「ダ、ダメだ」クチバシ医者は慌ててマスクに手をあてる。


「じゃあ、違う方法ね。ちょっと失礼」


 シュリンクスはクチバシ医者の手を取るとパーンへ歩み寄らせる。彼女は彼の背後に回ると腕を取りパーンを抱きしめさせた。パーンとクチバシ医者、互いから短い悲鳴が上がる。慌てたクチバシ医者は両手を離した。しかしパーンは固まって動かない。


「パーン?」クチバシ医者はパーンの顔を覗く。彼女は目を見開き虚空を見つめている。眼前で彼が手を振ると我に返った彼女は顔を覆った。


「……思い出した。ボク達、飛行機で旅行してたんだ。空港に着くってアナウンスが流れて……大きな音がした瞬間キャビンが滅茶滅茶になって燃えて真っ暗になって、それから、それから」


 船頭が口を開く。


「知っておるぞ。大人しい死者から聞いたでな。着陸中の旅客機と移動中の旅客機が覆い被さる形で衝突した事故だでな。操縦士が管制官の指示を勘違いしたのと濃霧が原因だと言っておった。……今思えばその話をした死者は関係者かもな」


 パーンの瞳から大粒の涙が流れ、その場に崩れ落ちた。背を丸め、胸を両手で押さえようとするが神経が巧く働かずに空を掴む。瞬時にして皮膚から汗が噴き上がり息を荒げた。


「痛い、痛いよ」パーンの左胸から大量の血が流れる。閉じていた傷口は大きく開き赤くぬめり肉が覗く。悪魔の傷の比ではない。白い皮膚を伝った血は灰白色の亡骸に滴る。モノクロームの世界に咲いた大輪の血の花は鮮やかで不気味だった。


 パーンを抱き起こそうとしたクチバシ医者はシュリンクスに制された。


「鳥頭さん、お世話になりました。この子も私も共に帰り、共に生きます」シュリンクスはパーンの手を取ると両手で包み込んだ。


 クチバシ医者の頭で悪魔の言葉が甦る。帰る事を選択すると現世で最後に晒していた姿で帰る、と。


「そうか……パーンは記憶を取り戻せたのか」


「島で選択して死を選んだようですが裁定前であれば冥府でも選択出来ます。ハンス師の深い配慮もありましたが貴方が居たからこそ、この子は居るんです。感謝しきれません」


 彼女とパーンの体は光の粒子になり少しずつ霧散する。


「本当にありがとう御座いました。私達、貴方がいなければ再び会う事は無かったでしょう。何故島に来たのかは分かりませんが貴方が一刻も早く記憶を取り戻し幸せに過ごせますよう、二人で祈ってますね」シュリンクスは微笑んだ。


「ん。僕は二人が幸せなら満足だから幸せになってね」船頭との約束を思い出したクチバシ医者は苦い思いを押し殺し、笑顔で彼女達を見送る。


 シュリンクスは頷くとパーンと共に霧散した。光の粒子が妖精の粉のように宙を舞う。


 この先何があろうとも彼女達が互いを愛し過ごせますように。クチバシ医者は祈りを捧げると悪魔に報告しようと暗い天へ呼びかけた。


「おい。記憶を取り戻して帰ったぞ。僕は残るから道を閉じろ」


 しかし返事がない。クチバシ医者は胸ポケットから石を取り出す。二つに割れていた。


「道は断たれたようだな」船頭がクチバシ医者の手許を覗く。


「あの二人は帰れたのか?」


「ああ大丈夫だ。気配はここにはない」


「なら良かった。……で、仕事を手伝うって何をすればいいんだ? 仕事仲間なら船頭さん、なんて呼ぶのもよそよそしいな。何て呼べばいいんだい?」


 船頭は目深に被ったフードを脱ぐ。ブロンドの髪を高い位置でシニヨンに結った若い女が顔を覗かせる。美しい青い瞳が吊り気味なのが、意志が強い雰囲気を漂わせていた。


「我が名はカロン。我が夫となる者に拝謁を許す」


 背の高い老女だと思っていたクチバシ医者は声を失った。


「なんだ? ノッポなババアだと思ったでな?」美貌に似合わずカロンは豪快に笑う。


「手伝うと約束したけど夫婦になるとは言ってない」


「夫が顔を晒さんとはエロスに勝る愚かしさよ! 脱げい!」カロンは手を真横に振る。


 帽子とマスクが落ちる。慌てて顔を隠したクチバシ医者はそれを拾う。顔を覆った指の隙間から彼女を窺うと驚愕してその場に立ち尽くしていた。


「分かっただろ! だから僕はマスクを被ってるんだ! こんな顔を晒して生活するなんてごめんだね!」クチバシ医者は背を向けマスクと帽子を被った。


「……すまん。少し驚いただけだで」しおらしい声がクチバシ医者の背に突き刺さる。


「……気を使われると余計に傷つくよ」マスク姿に戻ったクチバシ医者は振り返る。


 カロンは高い背を屈めてクチバシ医者を窺い、謝った。


「すまん」


「……いいって」


「すまん」


「……もういいって。僕も怒鳴って悪かった。それより仕事を教えてくれよ。死者が山積しているんだろ?」


 しかしカロンは首を横に振る。


「なんでさ?」


「この仕事は儂と夫となる者しか出来ん。貴様には資格はない」


 じゃあここに残った僕は無駄じゃないか。頭に血が昇り罵声を浴びせたくなるがクチバシ医者は言葉を飲み込んだ。……こんな暗い場所で亡骸を独りで運ばなければならないなら誰だって寂しくなる。カロンは文句を垂れても独りで続けてきた。許される事ではないけど捕えた魂を美醜にこだわって放る程に我がままになっても仕方が無いかもしれない。


 出口を探すべくクチバシ医者は背を向けると亡骸の丘陵に踏み出す。とにかく出よう。天の道は断たれたが他に出口はある筈だ。帰らなければならない。島へ、そして現世へ。


「待て。何処へ行くんだ?」カロンが問うた。


「何処って、出口を探すんだよ」振り向きもせずクチバシ医者は歩む。


「ここは入り口があっても出口は無いに等しい」


「どういう事だ?」歩みを止めたクチバシ医者は振り返る。


「入り口ではオオイヌが見張りをしておる。オオイヌはここから出る者に襲いかかる。ヒョロ吉なんか一発で噛み砕かれるだで」


 クチバシ医者は長い溜め息を吐いた。


「貴様、帰れないのか?」カロンはクチバシ医者を不思議そうに見つめる。


「見てりゃ分かるだろう」


「……儂が貴様を島に帰してやる」


 思いがけない一言にクチバシ医者はカロンを見上げた。カロンは大粒のアクアマリンの指輪を外すと彼に渡した。


「やる。こいつを持っていれば島に帰れるだで」


「こんな高価な指輪なんて貰えないよ。大切な物だろう?」クチバシ医者は指輪を返す。


 しかしカロンは彼の左手を取ると小指に指輪を嵌めた。


「だからこそ譲る。貴様は帰らねばならん。この指輪が貴様を導く。引き止めて悪かった」


「どういう事だ?」


「さて。水脈を繋げてやる。少しそこら辺の亡骸を退かせ」カロンは川底に刺していた棹を引き抜くと杖のように構える。


「僕が帰ったらカロンはどうなるんだ?」


「や。変わらずにここで渡しをしてるだで」


「こんな悲しい場所でこれからも?」


「気が遠くなる程昔からやっておる。もう慣れたで。『誰かがこの仕事をやらねば皆が困る』と昔、大事な友人が言っておった。儂も同じ事をしておるだけだでな」


 カロンは笑う。寂しそうな笑顔だ。


 クチバシ医者は足許の亡骸を退かす。そして顔を出した黒い死の土に右手を押し当てる。土から緑が芽生え一帯へと広がる。山積した亡骸は霧散し、跡には大輪の花々が季節を問わずして咲き誇った。ポピー、バラ、ダリア、シャクナゲ、ラナンキュラス、トルコキキョウ、ユリ、シンンビジウム……天は高く青く輝き花々を光で包む。


 目を見開きその様を驚きつつもカロンは眺めていた。クチバシ医者が土から手を離すと彼女は棹を放り花畑を駆け出した。


「素晴らしい! 素晴らしいぞ! 貴様の力なのか!? まるでエリュシオンの野だ!」花に囲まれたカロンは黒いローブを翻して自転する。回り飽きると両腕を広げ花畑に背から倒れ、豪快な笑い声をあげた。


 歩み寄ったクチバシ医者は隣に座した。


「礼を言うぞ! 独りで渡しを続けても寂しくならんように計らったでな?」


「まあね。大粒の宝石のお返しには足りないけど」


「謙遜するでない。その価値は充分あるぞ。亡骸もこんなに美しい花に変えてくれたお蔭で随分と運び易くなった。これなら沢山小舟に積めるだで」


 クチバシ医者は胸ポケットからトルコ石の片割れを取り出すとカロンに渡した。


「なんじゃい」カロンはクチバシ医者を見つめる。


「トルコ石。友情の石だって。大切な友達から貰ったんだ。半分に割れてるけど一つカロンにあげる。僕はカロンと友達でいたい。そうすれば君は一人じゃない」


「くさいのう。だが……感謝する」カロンは微笑む。


「名残惜しいけどそろそろ帰るよ。早く帰らないと悪魔やキルケーが僕の葬式始めちゃうからね」眼を細めて微笑むとクチバシ医者は立ち上がった。


 豪快に笑い立ち上がったカロンは放り出した棹を拾い、陣を描いた。


「そこに入れ」


 促されるままクチバシ医者は陣に入った。その刹那、宝石と陣がリンクして輝く。陣を踏んだ足が光の粒になり霧散する。


「また会えるかな?」


「会ったら、貴様を彼岸へ渡してやる」


「……そうじゃなくて友達として」クチバシ医者の膝が光になり霧散する。


「ああ。また悪魔に落とされたらいい。帰りは儂が送ってやるだで」


 二人は互いを見つめ握手を交わす。光はクチバシ医者の腹部を飲み込む。


「……貴様の名を聞いておらなんだな」


「僕はクチバシ医者」


 胸を飲み込んだ光は頭部を浸食する。


「クチバシ医者よ……ありがとう」


 クチバシ医者の意識は途絶えた。カロンは散り行く光の粒子を満足そうに眺めた。

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