一章 四節

 日差しが瞼に当たる。夜が明けたのが分かったがクチバシ医者はまだ眠りたかった。


 キッチンから音が聞こえる。物を切る音、焼く音、茹でる音。生活の音が耳に入る。優しい音に鼓膜を突かれていると今度はバターを火にかけた香りが鼻をくすぐった。クチバシ医者は薄目を開ける。すると膝に何か置かれているのが見えた。重い瞼をこじ開け腕を伸ばす。それは修理済みのペストマスクだった。昨日の柔らかくて頼りない状態とは違って革に張りと艶が戻っている。クチバシの根元にジッパーが弧を描いて縫い付けられていた。クチバシの部分が開閉出来る。これなら被ったまま食事が出来そうだ。


「防水加工もしておいたよ」隈を作ったキルケーがカウチの後ろから顔を出す。クチバシ医者の肩が瞬時に跳ね上がった。


「お……おはよう」


「おはよう」キルケーは大あくびを手で覆い、キッチンへ向かう。後を子豚が従う。


 キッチンから戻ったキルケーはコーヒーに口をつけタオルをクチバシ医者に渡した。


「顔洗って来な。革がダメだったから解いて型紙を起こして作り直した。新品に目ヤニを付けられると嫌だからね」


「ありがとう」


 クチバシ医者はバスルームで顔を洗うとマスクを被った。昨日のマスクを参考に作られているので外見は変わらないが新品の物を使うのは気持ちがいい。


 リビングに戻るとテーブルに三人分の朝食が並べられていた。まだニエは起き上がれないか、と落胆しているとキッチンからニエが現れた。新品の包帯を巻いている。朝日を受ける白いワンピースが眩しい。


「ニエ! もう大丈夫なのかい?」クチバシ医者は微笑んだ。


 ニエも微笑み返す。


「ランゲルハンスのあんたへの扱いがあんまりだったから、この子怒っちまってね。勇猛果敢に喰ってかかったんだよ」キルケーはニエに耳打ちした。


 ニエは唇の両端を高くあげて声なく笑った。


「恥ずかしい事言うなよ。でも良かった。早く元気になって」


 三人は席につくと朝食を摂った。子豚は床で皿に盛られた色とりどりの野菜を食べる。


「ランゲルハンスは?」


 ニエは微笑んだ。


「そうかい。じゃあ三人で戴いちまおう」キルケーはスプーンを口に運んだ。


「何を言っているのか分かるの?」クチバシ医者は問うた。


「付き合いが長いし、心が通っているからね」


「じゃあ今何て?」


「秘密。女同士の秘密」


 キルケーとニエは互いを見合わせて微笑んだ。食事は和やかな内に終わった。


 子豚を抱えたキルケーは術を使って消えた。ニエが食卓を片付ける。クチバシ医者は手伝おうとするが彼女に制された。片付けを終えた彼女は支度をしに二階へ上がる。手持ち無沙汰になったクチバシ医者はポケットの金貨十枚を握りしめキルケーの言葉を反芻した。


 ──やるって言うと遠慮するだろうからこの金貨は貸すよ。返すも返さないもあんた次第だ。これで服や当座の物を揃えな。街へはニエが案内するよ。今は記憶を取り戻すよりも生活の基盤を作りな。まずは仕事をお探し。この島じゃみんなそうやって生きてる。パーンみたいに雇われるのも良し、事業を起こすのも良しだ。事業を起こすなら皆がやってない事をやるといい。需要はあるだろうからね。この家の向かいに空き家があるから借りな。ニエに話を通したし大地主のランゲルハンス様も店子が見つかれば悪い気はしないさ。


 クチバシ医者が手を金貨から離すとポケットから音が響く。当座の生活は何とかなりそうだ。問題は仕事だ。キルケーの話によるとパーンはケンタウロスの宅配便やドラゴネットのケーキ屋の売り子をしているらしい。人魚は渡し守やマッチ作り、ニエはランゲルハンスの弟子兼助手、ランゲルハンスは貸家業兼魔術師、キルケーは製剤師兼魔術師。……僕は何が出来るだろう。そもそも現世で僕は何をして暮らしていたのだろう。


 深く頭を垂れたクチバシ医者の肩をニエが軽く叩いた。クチバシ医者が面を上げると薄紅をひいたニエが籐の籠を提げて佇んでいた。


 ニエは玄関のドアを指差す。


「支度終わったんだね。じゃあ案内よろしくお願いします」


 家を出ると雲一つ無い青空が二人を迎えた。昨日と同じく光の玉が飛んでいるがそれよりも数多く飛ぶのは何かを咥えたハーピー達だ。ハーピー達は四方八方に飛んでいた。


 広大な荒れ地に挟まれた長い道をクチバシ医者とニエが通り抜けると四つ角にあたった。前方には街が広がり大通りを獣の姿の住人や妖精の姿の住人達が行き交う。ケンタウロスは大量の荷物を背負って通りを常歩し店舗の周りをキキーモラが掃除する。通りの左側には屋上の風見鶏にハーピーがとまった郵便局やクリーニング屋、食料品店等、右側にはタンポポを供えられたヘカテ女神像、ケーキ屋等が並んでいた。


 ニエの案内でクチバシ医者はデュラハンの服屋で店主にジョークを聞かされつつ服を買い着替えた。そして赤い靴の女の子の靴屋で靴を買い、寡黙なドリュアスの雑貨店で生活用品を揃え、ひやかしで覗いたカモメの水兵の帽子屋でペスト帽が似合うと買わされ、処刑人の刃物屋で包丁とハサミを買った。通りのベンチに尻を着く頃には疲れを感じていた。


 ニエはパン屋へバタールを買いに行った。残されたクチバシ医者はベンチの背凭れに体を委ねて空を仰ぐ。昼休みの所為か郵便配達のハーピーの姿は無い。光の玉が空を舞う。


 あれは何だろう。


 考えに耽っていると後ろから肩を叩かれた。振り向くとパーンがいた。


「素敵な帽子だね」亜麻色の癖っ毛に日の光を受け、パーンは微笑む。


「昨日は助けてくれてありがとう」クチバシ医者は金貨三枚をパーンに返した。


「律儀だね」パーンは微笑む。


「そんな事はないさ。それよりあれは何だい?」クチバシ医者は空を舞う光の玉を指す。


「ああ、あれは魂だよ」


「魂?」


「うん。霊みたいなものさ。現世で眠ってる人間が意識だけこちらに飛ばして来たものさ。だから彼らにとってこの世界は夢なんだ。ボク達が見る夢はまた違うけれど」


「夢か」青白く光る瞳を細めたクチバシ医者は空を仰いだ。


「そんな事より君がボクの許に来るようにニエに頼んでいたんだけど来ないから探していたんだ。……でも身なりを見る限り誰かの所属者になっちゃったんだろうね」パーンはクチバシ医者の隣に座した。


「僕がパーンの許へ行くって?」


「うん。君が来たらシルフのケイプに紹介して彼の所属者になって貰おうと思ったんだ。明るいケイプは悪い奴じゃないから」


「そうだったのか」


「ボクの管理者は悪い奴だからケイプの方が良いと思ってさ」パーンは溜め息を吐いた。


「……君が海を去ってから人魚に喰われそうになってね」


 パーンは地面に落としていた視線をクチバシ医者に向けた。


「寸での所をニエに助けられて荒れ地の道を二人で歩いていたんだ。それでニエが西に……多分街の方だと思う。曲がろうとしたら急に彼女が倒れたんだ。とても苦しんでいた。もうすぐ夜になるし広い荒れ地を突っ切る自信も無いから僕はひたすら直進したんだ。そしたら家が一件現れた。今そこで世話になってるよ」


 胸中の空気を全て吐き出すのではないかと思う程、パーンは長い溜め息を吐く。


「ごめん。ボクが居なくなってから大変だったんだね。君も悪魔の所属になったのか。ニエには悪い事を頼んじゃったな。目の穴から血を流していたろう?」


「ああ」


「以前にもあってね。悪魔の仕業なんだ。あいつは千里眼や地獄耳の持ち主でね、ニエが思惑に反すると苦しみを与えるんだ。ボクはやられた事ないけどニエにはするんだ。同じ所属者だったキルケーに聞いたけどニエの両眼を何かの罰で取り上げたのもあいつなんだ。優しいニエがたいそうな罪を犯すようには思えない」


 クチバシ医者は頷いた。


「でもあいつは何で君を欲しがったんだろう?」パーンは溜め息を吐く。


 用事を済ませたニエが戻り、背後からクチバシ医者の肩を叩いた。


 それに気付いたパーンが振り向き立ち上がる。


「ニエ! 具合は大丈夫? 今話を聞いたんだ。悪い事頼んじゃってごめんね」


 ニエはすまなそうに微笑し、頭を下げる。


「やめてよ。ボクが謝らなくちゃならないのに。まさかこんな事になるとは思ってなかった。通りがかりの君に頼んだボクが悪かったんだ。少し探してでもケイプの所属者に頼めば良かったんだ。本当にごめんなさい」パーンは頭を深く下げた。


 ニエはパーンの背をあやすように叩くと首を横に振る。


「うん、ありがとう。ニエは優しいな」


 女の友情のやり取りをクチバシ医者が見ぬ振りをしているとパーンに声を掛けられた。


「そういえば名前を聞いてなかったけど何て名付けられたの?」


「クチバシ医者」


「ねぇ、この後予定はあるかいクチバシ医者」パーンは人懐っこい笑みを向ける。


 仕事について考えようと思っていたがパーンの誘いを断るのも気が引ける。クチバシ医者は『ないよ』と答えた。


「良かった。昨日高熱を出していたチビ助達が良くなったから一緒にお見舞いに来て欲しいんだ。君の事を話したら是非会ってみたいって騒ぐんだ。勿論ニエも一緒に」


「いいよ」


 ニエも頷いた。




 パーンに案内されたのは先程素通った街角のケーキ屋だった。木製のドアには『臨時休業』と書いた紙が貼ってある。双子の水色のドラゴンをペイントしたショーウィンドウから見える店内は薄暗い。空のショーケースには拙い字のポップが並んでいた。飾り棚には水色のドラゴンやお菓子の置物、秤が並び壁にはクレヨンで描かれたパーンの似顔絵が飾られている。パーンの隣では顔半分に傷を負った女が描かれていた。微笑を浮かべている。彼女がシュリンクスだろうか。


「こっちだよ」


 パーンは裏口へ案内した。店舗の裏が住居らしい。ポストが備え付けられ、小さな植木鉢が並んでいた。


「天井低いし、小さな家だから気を付けてね」店舗よりも小さなドアをパーンは開いた。


 腰を屈めたパーンが中に入るとそれに倣ってニエとクチバシ医者が入る。


 眼前に広がったのは全てが小さい可愛らしい家だった。フローリングには絵本や画用紙、色鉛筆が散らばっている。テーブルや椅子、食器棚、本棚等全ての家財道具は子供サイズで統一されていた。ままごと道具に見えるが日常的に使っているようで小さな傷がつき、テーブルのマグカップには茶渋がついていた。


 クチバシ医者が視線を落とすとソファでブランケットの塊が微かに上下に動いてた。


「お、偉い偉い。ちゃんと寝てたか。でもベッドで寝ようね」


 パーンはブランケットの塊を抱き上げる。安らかに眠る小さな女児の愛らしい顔が覗く。滑らかな髪の間からは翼竜の翼を思わせる耳が覗く。肌は白く髪はアクアマリンのような透き通った水色をした、長い睫毛の美しい女児だった。


「あれ? ユウしかいないね。リュウは寝室かな?」寝室に向かうパーンの腕からトカゲのような水色の尻尾が垂れた。


 ニエは子供達が散らかした玩具を片付ける。クチバシ医者は屈んで手伝った。散らばった色鉛筆を箱に記された順に収めていると背に何かがのしかかる。驚いたクチバシ医者は振り返る。肩越しに見えたのは男児だ。先程の幼女に容貌が瓜二つだが洟を垂らしていた。


「何してるの?」クチバシ医者の背に乗った男児が囁く。


 買ったばかりのベストに洟がつきそうになり、クチバシ医者は短い悲鳴を上げた。何事かと驚いて振り返ったニエは男児を引き離す。目覚めた女児を抱いたパーンが駆けつける。


 男児はニエにティッシュを充てがわれ鼻をかませられる。


「ダメだよリュウ。大人しくしてないと。熱が下がったとは言えまだ風邪引きさんなんだから」眠い目をこする女児をソファに下ろすとパーンは男児を諭した。


「ヒョロヒョロが来た!」男児がクチバシ医者を指差す。


「トリカブトだ!」先程まで寝ぼけていた女児も目を輝かせて叫んだ。


 率直な第一印象にクチバシ医者が声を失っていると小さな悪魔達の矛先はニエへ向かう。


「包帯ぐるぐる!」


「綺麗な人!」二人はニエを取り囲んだ。


 容貌どころか痩躯の容姿にさえコンプレックスを抱くクチバシ医者は深く項垂れた。


「ごめんね。ボクへの第一声もモジャモジャだったから気にしないで」声を失ったクチバシ医者をパーンが慰める。クチバシ医者は力なく頷いた。


 パーンは幼児達を紹介する。


「女の子がお姉ちゃんのユウ。男の子は弟のリュウ。双子なんだ」


 病み上がりなのにはしゃぎ倒す姉弟をソファに座らせ、パーンとニエはお茶を淹れる。ユウとリュウはソファの側のオットマンに座すクチバシ医者を見つめていた。


「何して遊ぶ?」ユウとリュウが同時に問うた。


「遊ばない」クチバシ医者は首を横に振る。


 リュウは頬を膨らませたがユウは悲しそうに俯いた。


「……治ったら遊ぼう。大人しくして早く治すんだ」


 色よい返事にユウとリュウは顔を綻ばせた。


 ティーセットを載せたトレーを持ったパーン、マカロンを盛りつけた皿を持ったニエがキッチンから戻って来た。


「気に入られたね」パーンはカップを並べポットから紅茶を注ぐ。


 ニエがマカロンの皿をテーブルに置くとユウは皿に手を伸ばしピンクのマカロンを取る。そしてクチバシ医者のクチバシに押し付けた。


「トリカブト、食べて」


 クチバシ医者は押し付けられたマカロンを取りクチバシのジッパーを開けて口へ放る。


「美味い」


 率直な感想にユウは目を輝かせた。


 パーンがカップを差し出す。


「ユウお手製のマカロン食べてからここのファンなんだ。ケーキも美味しいしババロアも最高だし、ここでアルバイト出来て幸せ」


「え」驚いたクチバシ医者がパーンを見つめる。


「驚くよね。表のケーキ屋のオーナーパティシエはこの幼い姉弟なんだ。人気店なんだよ」


 ニエも皿に手を伸ばし、チョコ色のマカロンを一口齧ると微笑んだ。


「ここで売り子してるとさ、新作を試食したり商品に出来ない物を貰ったりして体重増えちゃうんだよね。だからダイエット代わりに駿足を生かしてケンタウロスの宅配のバイトも掛け持ちしてるんだ」パーンは紅茶を口の端から垂れ流す弟竜の世話を焼く。


 自分の世話もままならない幼子が店を切り盛りしているとは到底考えられない。クチバシ医者が考えに耽っているとユウが視界を遮りマカロンを渡した。


「もっと食べて」


 マカロンを受け取るとクチバシ医者は口に放り込む。それを見つめ笑ったユウはクチバシ医者の膝に座した。


「レ、レディはそんな事しないよ」


 幼子とは言え女性の大胆な行動をクチバシ医者は声を震わせて窘める。ユウは暫く彼を見つめ、降りた。そして隣に座すとクチバシ医者に体重を預けた。クチバシ医者は子猫に体を委ねられたような懐かしい気持ちになった。


「すっかり懐かれたね、と言うか惚れられたかな? 現世では子供を相手にした仕事をしてたのかな?」ニエにリュウの相手をして貰い、紅茶にありついたパーンが微笑む。


「僕には子供がいたのかもしれないね」


「それはないだろうよ。クチバシ医者からは清い匂いしかしないもの」


「……それより仕事どうしよう」肩を落としたクチバシ医者は話題を変えた。


「代わりに売り子やる? ボク宅配便だけでも何とかなるよ」


「ダメだよ。楽しくやってる仕事を取り上げたくない」


「何かやりたい事はあるの?」


「やりたい事か……」


 クチバシ医者が思案しているとユウは立ち上がり、棚から鉛筆と画用紙を出して再び隣に座した。手慣れた手つきで何かを描く。


「何描いてるの?」パーンが問う。


「新作」ユウは自分の世界に没頭した。


 パーンとクチバシ医者はユウを見守った。ニエの隣に座し、彼女の包帯を撫でていたリュウも画用紙を覗いた。ニエも覗く。鉛筆の芯から花びら状のマカロンの絵が生まれる。マカロンの周りには雑な字が記される。


「これどう思う?」手を止めたユウが画用紙に食い入るリュウに問う。


「花のジャム?」視線も上げずにリュウは問い返した。


「うん」ユウは再び手を動かす。


「フルーツは飽きたし、花いいと思う」


「でも今手に入るのってタンポポしかないよね。ちょっとつまらないかな?」


「うん」


 互いの額をつけて新商品の相談をする双子のドラゴネットをクチバシ医者は眺める。彼は願い事が叶う包帯をくれたキルケーとのやり取りを思い出す。


 ──素敵な事を願うのさ。触れたものにいい事が起きるって。例えば……花が咲くとか。


 クチバシ医者は包帯が巻かれた右手を撫でた。

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