一章 五節
クチバシ医者は瞳を閉じた。
ここは夢の島、と聞いたけど夢なんて見るのだろうか。胡散臭い程に大きな悪魔に、元気なパーン、無邪気なドラゴネットの双子、心優しい眼無しのニエ……全てが懐疑的だが居心地の悪い世界ではない。しかし気疲れの所為かベッドに横たわると睡魔に襲われる。
悪魔から借りた家には予め家具が設えてあった。ベッドをはじめテーブル、椅子、ピューロ、食器棚、小さな本棚等生活必需品や文化的な物は揃っていた。酔狂な者以外誰も住まない荒れ地にこれだけの家具が揃う空き家があるなんて変な話だ。
しかしこれ以上考えまい。どうせあの悪魔が設えたんだ。深く考えると気持ち悪いだけだ。愛らしいニエや無邪気なユウを想っているとクチバシ医者は夢へと誘われた。
沢山の花に囲まれた空間にクチバシ医者は居た。ユリやバラ、ガーベラを始めスイートピー、アネモネ、フリージア、ラナンキュラスが一面を彩る。花々の茎は冷たく光るステンレス缶に身を埋め、冷えた空間で互いの美しさを競うように咲く。
鼻先が冷たい。どうやらマスクをつけていないようだ。クチバシ医者は自身を見下ろした。黒いエプロンを着ている。胸許には『ギルロイ』と白い字が記されていた。
周囲を見渡すと花々の他には作業台やレジカウンター、水場がある。花屋のようだ。そしてレジ側にはクリーム色のインコが居た。頬をオレンジ色に染めた長い鶏冠のインコだ。スタンドから吊るされた黒い鳥かごにインコは居た。スタンドの足許ではヒーターが温風を吐く。冷えた店内でインコが寒がらないようにと店主が気遣ったようだ。
クチバシ医者がインコを眺めるとインコは鶏冠を立て紅い瞳で見つめ返す。瞳の奥に人が映る。自分では無い。……しかし誰なのか想い出せない。
背後で鼻歌が聴こえた。いつもなら咄嗟に顔を伏せようと思うが不思議とそんな気持ちにならない。振り返ると女が居た。女は小さな鉢植えに霧吹きを掛けていた。燃えるような茜色の髪を一つに纏め、エメラルド色の瞳が美しい女だ。彼女もクチバシ医者と同じエプロンをしている。店内には女しか居ない。
するとこの女性は店員なのだろうか。クチバシ医者が赤毛の女を眺めていると視線に気付いた女が顔を上げた。
「疲れた? 休む? お客さん居ないし紅茶淹れようか?」女は霧吹きを作業台に置く。
「……え、あ、うん」
間の抜けた答えに女はクスクスと笑うとエプロンを外す。それを丸めて作業台に置きバックヤードへ向かった。
「え、あ……僕が淹れるよ!」クチバシ医者は慌てて女の後に従った。
振り返った女は肩をすくめ悪戯っぽく微笑んだ。
「じゃあお願いしようかしら? 私が淹れるよりもあなたが淹れた方が美味しいから」
「う、うん」クチバシ医者は頬に熱を帯びるのを感じるとバックヤードへ姿を消した。
紅茶を淹れたクチバシ医者がマグを二つ持って店内に戻ると女は木の椅子に座し鼻歌を歌っていた。彼女の肩にはインコが乗っている。
「あれ? 出したの?」クチバシ医者は彼女にマグを渡す。
「うん。昨夜遊んであげなかったから少し寂しそうだったもの、この子」
「毎晩遊んでるの?」
「ええ。籠から出すとご機嫌なの。よく歌っているわ」女はマグに口をつける。
するとインコは歌を口ずさむ。優しい透明感のある歌だった。
クチバシ医者は耳を澄ました。聴いた事がある曲だ。
「……これ確か『精霊の踊り』じゃない? 歌劇オルフェウスで演奏される」
「歌劇なんて知ってるの? 博識ね!」
「え……いや、まあ」クチバシ医者は居心地のいい、居心地の悪さを感じた。
「歌劇は見た事ないけれども粗筋は知ってるわ。オルフェウスって確か竪琴の演奏者よね? 死に別れた奥さんを求めて地下の死者の国へ下っていくって話だっけ?」
「うん。彼はとても可哀想なんだ」
「え? 最後は愛の女神の力によって奥さんと幸せになるんじゃなかったの?」
「歌劇ではハッピーエンドだけど実際は悲劇だよ。オルフェウスは冥府の神に許しを得て背後を従う無言の奥さんを連れ帰るんだ。でも神との約束を破ってしまう。『地上に戻るまで決して振り向いてはならない』って。奥さんが付いて来ているのかって、大好きな奥さんの顔を早く見たいからって振り向いてしまった。その瞬間に奥さんは消えた」
「……悲しい話ね」女は瞳を伏せた。
「うん。とても悲しい話だ」
二人は黙り込んだ。
歌が二人の間に流れていた。しかし飽きたインコは歌を止めて女の服を齧る。
「ご、ごめん……。暗い話をして」クチバシ医者は頭を下げた。
「え? なんで謝るの? 素敵な歌だったじゃない」女は笑みを向けると服を齧るインコを引き離して籠へ戻した。
「ねぇ。あなたは神様との約束を反故にする程に人を愛した事はある?」
クチバシ医者は暫く足許を凝視していたが唇を割った。
「……あるよ」
「素敵ね。どんな人?」
クチバシ医者は甘く疼く胸に包帯を巻いた右手を添える。
「……小さな愛の塊のような人だった。こんな僕にただひたすら愛を与えてくれるんだ。あったかくていい香りでふにゃふにゃと柔らかくて……子猫のようだったよ」
「素敵な人だったのね」
「うん。とても愛していた。……今でも愛してる」
「……そう」
クチバシ医者の唇や左手が小刻みに震える。小さな溜め息を吐くと木の椅子に座して湯気が立ち昇るマグに口をつけた。悲しみに冷えた胸を紅茶が温める。落ち着きを取り戻したクチバシ医者はただひたすら愛を与えてくれた彼女に想いを馳せて瞳を閉じた。
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