一章 三節

 風呂を上がるとクチバシ医者は用意されていた服に着替え、右手の包帯を巻き直す。そして濡れたマスクを被りリビングへ向かった。


 椅子に座したクチバシ医者にキルケーは微笑んだ。


「さて。少しずつ説明しようかね。まずここはそこの大男が所有する大きな島でね。あんたが居た元の世界とは違う世界だ。しかし二つの世界を繋ぐ水脈があってね。あんたは記憶を失って魂だけ流されて此方に来たのさ。水脈の出口は四つ。一つは人魚が管理する海、そしてシルフの井戸、サラマンダーの井戸、最後はこの家にある悪魔の井戸さ。あんたは……」


「海を漂っていたって助けてくれたパーンが」クチバシ医者は答えた。


「そうかい。パーンが救ってくれたのかい。人魚は水脈の管理以外は仕事をこなしてるけど食に関しては貪欲だからね。喰われないで良かったよ」


 今度パーンに会ったら必ず金貨と礼を返そう、ニエが元気になったら礼を言おうとクチバシ医者は心に決めた。


「あんた名前は?」


 クチバシ医者は首を横に振る。


「クチバシ医者だ。先程名付けた」ランゲルハンスは空になったグラスにワインを満たす。


「勝手に名付けるな。僕には僕の名前がある」


「ほう。どんな名かね?」


「それは……思い出せないけど怪我人をぞんざいに扱う悪魔に決められたくない」クチバシ医者はランゲルハンスを睨みテーブルを拳で叩いた。睨んで殺せるならどんなにいいか。


「およし。気持ちは分かるが従った方がいい。ここに流された者は皆、名付けられると記憶が戻るまで管理者の所属になる。気に喰わなければ殺されるよ。それがこの世界の理だ」


 クチバシ医者は拳を握り締めつつも矛を収めた。


「いい子だね。ランゲルハンスから名前を貰ったんだね。じゃあ晴れてあんたはランゲルハンスの所属者だ。安心おし。もう海で人魚に喰われる心配はないよ」


 クチバシ医者は唇を噛み締めた。小さな溜め息を漏らしたキルケーは微笑む。


「私も昔はランゲルハンスの所属だったさ。だけど脱する手だってある。元の世界の記憶を取り戻す事さ。思い出せば魂の権限は自分に戻る。そうすれば元の世界にも戻れる。記憶は肉体の住所さ。その他にも方法はあるけど大抵は記憶を取り戻す事だね」


 目を見張ったクチバシ医者はテーブルに身を乗り出した。


「しかし自分が何者だったのか思い出したら選択しなけりゃならない。この世界に残るか元の世界に戻るか、魂を滅すか……つまり死ぬか。私はそれでここに残った」


「何故?」


「思い出した記憶がいいものじゃなかったからね。私は」キルケーは長い睫毛を伏せ、白いグラスを弄ぶ。彼女はワインを飲み干し、話を続ける。


「記憶を取り戻しても時間切れで元の世界では死んでる場合もある。絶望の縁に立たされてる事もある。残された家族に恨まれてる事もある。この世界と元の世界との時の流れは異なるからね。ここへ辿り着く者の大勢は元の世界、つまり現世で酷い思いをした奴らさ」


「……現世で酷い目に遭った僕は魂だけ逃げて来たのか。ここは醒めない夢のシェルターみたいなものなのか?」


 キルケーとランゲルハンスは頷いた。


「それでも僕は帰らなければならない。……何故だか分からないけれども」レンズから覗く青白く光る不思議な瞳を閉じクチバシ医者は独りごちた。


「パーンにしろ、キルケーにしろどのような姿であれ現世の名残がある。魂の姿である内面が外見に反映される。肉体に刻まれた傷、身につけている物等、少しは手がかりがある」ランゲルハンスは空になったキルケーのグラスにワインを満たす。


「僕ならマスクか?」クチバシ医者は問う。


「そういや濡れ煎餅になってるね。そんな状態で被って気持ち悪くないのかい?」キルケーは失笑した。


「気持ち悪いけどさ、顔を見られたくないんだ。だから被ってる」


「私が修理するよ。その間はこれを被ってな」キルケーは術を使い掌から穴が空いた紙袋を出す。


「自分で修理するよ」


「甘えておきよ。あんた、ランゲルハンスの所属になったんだろ。ランゲルハンスの元所属者の私にとってみりゃ可愛い弟分だ。大人しく貰っておきよ」


「ありがとう」クチバシ医者は微笑んだ。


 場が和み、安心感に包まれたクチバシ医者は紙袋を被りリエット付きのパンを齧る。


「どうしたのさ、それ」キルケーが指差したのは海水に浸った包帯で巻かれた右手だった。

「島に来た時から巻かれていたんだ」


「不潔にしてちゃ毒だよ。お貸し」


 立ち上がったキルケーはクチバシ医者の右手を取り包帯を外す。爛れた皮膚が覗く。クチバシ医者は思わず手を振り払った。


「あ……ごめん。僕そんなつもりは」


「ごめんよ。怪我を見られるのが嫌な人だっているね。浅はかだったよ」


「違うんだ。痛くないし爛れているけど見られても構わない。ただ触られると嫌なんだ」


「痛いのかい?」


「いや……嫌なんだ」クチバシ医者は汚れた包帯を巻き直した。


 キルケーは新品の包帯を出す。


「これをお巻き。魔術を施した。巻くと一つだけ願いが叶う。さっきニエにも渡したよ」


「……今すぐ現世に帰れるとか?」


 キルケーは苦笑いした。


「世界の原理を覆せる魔術は私には使えないよ。素敵な事を願うのさ。触れたものにいい事が起きるって。例えば……」ビーカーのガーベラをキルケーは見遣った。


「花が咲くとか」


「じゃあ、それでいい」クチバシ医者は新しい包帯を巻いた。


 食事が済むとランゲルハンスは姿を消した。キルケーとクチバシ医者は片付けを済ませた。クチバシ医者は湯を沸かしポットとカップを暖めて紅茶を淹れる。キルケーは椅子に座し濡れたペストマスクを手に取り眺める。


「直りそうかい?」クチバシ医者はキルケーの目の前にカップを置いた。


「勿論。大魔女様が手がけるんだ。色々便利にしてやるよ」


「ありがとう。何から何まで」クチバシ医者は自分のカップを持って対面に座す。


「家族だからね」


 キルケーは微笑むとマスクをテーブルに置いた。


「家族の話をしてもいいかい?」


「うん」


「ニエは……あの娘は私がここの井戸から出て来た時には既に両眼を失っていてね。でも見えないんだけど見えるんだ。面倒臭がりの悪魔の代わりにあの娘が世話を焼いてくれた訳さ。あの娘は姉貴分だけどいつまでも少女のようだから娘みたいに思えてね」


 キルケーは両手でカップを包む。


「私が記憶を取り戻して小島に引っ越した後にニエは海で二人の女を拾った。一人はパーン、もう一人はシュリンクス。二人はとても仲睦まじかった。気を失って海を漂っている時も手を繋いでいたそうさ。二人もここの所属さ」


「パーンが僕を助けてくれた時には人魚の他に女性なんていなかった」


「シュリンクスはもういない」キルケーは長い睫毛を伏せた。


「いないって……死んだのかい? この世界で死ぬとどうなるんだ?」


「この島で死ぬばかりか現世でも死ぬ。その代わり魂や今使っている肉体は成長するけど老化はしないし、選択して残れば永遠に生きられる」


「シュリンクスはどうして死んだ?」


「……死んだかどうか分からない。ただシュリンクスが消えた直後、血まみれのランゲルハンスが荒れ地を歩いていたのを郵便配達人が見かけてね。血の匂いが好きな彼女に言わせりゃ返り血だ。その上シュリンクスを最後に見かけた別の配達人がランゲルハンスと共に居た、と証言してね。それを聞いたパーンはランゲルハンスを刺した」


 クチバシ医者は目を伏せた。


「幸いかすり傷さ。管理者や元所属者は不死だ。この世界を永遠に生きなければならない」


「ランゲルハンスはシュリンクスを殺したのか?」


「分からない。本人に問い質しても鼻で笑うばかりさ。でも信じられない。あいつは何を考えているのか分からないが悪戯に魂を取り上げる奴じゃない。ニエだってあいつを信じているからこそ側に居るんだ。でもパーンはランゲルハンスがシュリンクスを殺したと思っているからここには二度と足を向けないけどね」


 キルケーは溜め息を深く吐く。


「シュリンクスを失ったパーンは深く傷ついてね。元気に振る舞うんだけど何処か寂しそうで苦しそうなんだ。だから……」


「分かった。僕はシュリンクスの代わりにはなれないけどパーンを支えればいいんだね?」


「ありがとう。あの娘を頼むよ。空元気で走り回ってもシュリンクスの墓前で寝るような娘だからね。あと悪い奴じゃないよあの男は。あんたには悪いけど少し悪戯の度が過ぎたんだ。ランゲルハンスを悪く思わないで欲しい」


 クチバシ医者は視線を伏せた。キルケーは力なく笑う。


「……さて。湿っぽい話はお終いだ。マスクを直さなきゃね」


「手伝うよ」


「気持ちだけで充分だよ。あんたにして欲しいお礼はパーンと友達になる事さ。一日でも早く生活に慣れてパーンと遊んでおあげ」


 キルケーは大きなカウチをテーブルから背けると部屋の明かりを消した。テーブルのオイルランプは火影を揺らめかせる。


「もう寝な。疲れてるだろ。お喋りはお終いだ」キルケーは大きなカウチを指差した。


 クチバシ医者は木の椅子の背凭れに掛けてあったブランケットを手に取ると大人しくカウチに凭れ掛かった。


「よくお休み」背後でキルケーの声がした。


「うん。お休み」


 クチバシ医者は天井から吊るされたまじない道具達が揺らめくのを眺めていた。やがて心地良くなりキルケーが立てる作業の微かな音を子守唄に瞳を閉じた。

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