一章 二節

 最初に感じたのは痛みだ。一発強烈に引っ叩かれた。僕は意識を呼び戻された。全ての感覚が瞬時に脳と繋がり、気道に詰まりかけた海水が堰を切り口から飛び出す。上体を起こして全ての水を吐き出せ、と目覚めたばかりの脳が生きる為に命令を下す。それに従い楽な体勢をとろうと横向きになる。僕は水を吐き出した。しかし吐き出した筈の水が頬や唇に触れ逆流しかかる。焦ったが吐き出す他無かった。


 先程とは打って変わって優しい手が背を労るように擦るのを感じた。


 海水を吐き出すと右手を顔にあてた。顔は革袋か何かで覆われているようだ。革袋の所為で水が逆流しかけたのだろう。何故革袋を被っているのだろうか。


 革袋を両手で触れた。マスクのようだ。目許には突起のようなレンズがついている。レンズにしては自然な視界の広さが不思議だ。触れるまでその存在に気付かなかった。生まれてからずっと被っていたような心地だ。安心して溜め息を吐くと両手を下ろす。右手には二の腕に掛けて包帯が巻かれていた。


「ちょっと!」女に声を掛けられた。


 両肩を跳ね上げ振り向くと二人の女がいた。半裸だった。僕は直ぐ様顔を背けた。


「失礼な奴ねぇ。起こしてあげたのに礼の一言もないなんて」


「君が強く叩いた所為で嫌われたんじゃないのかい?」


 女達は議論する。


 穏やかな波が足許の砂をさらう。その様を眺めつつ状況の整理を試みた。しかし脳細胞は異常な視覚情報と情報の乏しさに処理しきれないと騒ぎだす。顔を逸らし続けても仕方が無い。恐る恐る二人を見遣った。


 やはり女達は半裸だった。一人は僕の足許で腹這いになり豊かな胸の上体を起こし、赤く腫れた右手を振る。白銀の豊かな髪を頬に張り付かせ血色の瞳で僕を睨む彼女の下肢はない。銀色の鱗を光らせた人魚だ。もう一人はウェーブがかかった亜麻色の短髪から短い角と獣の耳を覗かせた胡座をかいた半獣人だ。彼女は頭を掻いていた。座した彼女は山羊の脚よりも目立つ、左胸に大きな傷跡がある。一方慎ましい右胸はツンと天を仰いでいた。


 処理しきれない情報を得ただけだった。


「……君達は一体」


「ボクはパーン。そこの人魚は」


「名前言ったら殺すわよ」パーンの言葉を人魚は遮った。


「そこの人魚の背に乗って海を渡ってたら君が海を漂っているのを見つけたんだ。それで島まで君を引っ張ってきたんだ」


「アタシは助けるつもりなかったわ」人魚は尾を海水に叩き付けた。水飛沫が飛び散る。


「うん。君はまた食べようとしてたもんね」


「そうよ、この海に落ちている物は全てアタシのご飯なの。だけどパーンがアンタの命を金貨三枚でアタシから買ったのよ」人魚は歯を鳴らす。


 人魚にパーンなんて馬鹿げているが明晰夢なら二人の調子に乗ってみよう。


「助けてくれてありがとう」


「どういたしまして。ところで君は海の水脈の出口から出てきたの?」礼を言われたパーンはくすぐったそうに鼻の頭を掻いた。


「水脈の出口? ……さぁ?」


 問われても答えられる筈が無い。今目にしている事が記憶の全てだ。想い出そうにも記憶の糸を引っ張れない。どうやら記憶を失っているようだ。それに半裸の半獣人がいる島なんて理解出来る筈が無い。これは欲求不満で見る淫夢の類いなのだろうか。また瞳を閉じれば夢から醒めるのだろうか。砂浜に横たわり瞳を閉じた。


「あのさ。言いにくいんだけどさ」パーンの声が邪魔をする。


「君、スッポンポンだよ。その、丸出し」


 声にならない悲鳴を上げ急いで局部を大腿に挟んで隠した。


 人魚は子供のように笑った。パーンは腰に巻いていたラクダ色の腹巻きから布を取り出すと恥じらう内股の僕に差し出した。


「これ使いなよ。ボクのお古で悪いけど」


「あ……ありがとう」布を取り広げ腰に巻く。腰を隠すのには充分な大きさだ。


「いい柄でしょ? オリンピアの絵だって。貰ったんだ、キルケーに」


「キルケー?」


「うん。あの離れ小島に住んでる気のいい魔女さ」パーンは海の彼方を指差す。指先には木々が生い茂りその上をカモメ達が飛ぶ小さな島があった。


「キルケーは動物が大好きなんだ。彼女のお屋敷には動物が沢山いて楽しいんだ。偶に遊びに行くんだけど今日は彼女から薬を貰って来て……」パーンの顔色が急に青ざめた。


「どうしたんだい?」


「ボク、チビ助達に薬を持って行く途中だったんだ」俯いたパーンは緩くウェーブが掛かった髪を両手で引っ掻き回した。


「この前から高熱が下がらないんだ。だけど君を放って置けないし……あ。代わりの人に頼めば大丈夫だよね?」パーンは青年を見遣った。


「行ってあげなよ。君を待っているよ」


 パーンは眉を下げるとごめんね、と別れを告げ走り去った。彼女の脚は落雷のように速かった。一陣の風が吹いたかと思えばその姿は目を凝らしても確認出来ない。


 溜め息を吐くと悪夢から醒める為に波打ち際に体を横たえ瞳を閉じる。眠って目覚めるイメージをすればいい。目覚めた時には居るべき場所に戻っている筈だ。


 しかし突如静寂は破られた。脚を掴まれた。驚いて瞼を開けると先程から歯を鳴らしていた人魚が両脚を捉え海に引きずり込もうと満身の力を込めている。すました表情から一転、彼女は化け物と化す。口は裂け粘ついた涎を絡ませつつ二日月のような牙を剥く。血走った白眼に浮かぶ血色の瞳孔は針の先と等しく縮む。しなやかな指からは黄ばんで血糊がついた堅牢な鋭い爪を覗かせた。


「お人好しの馬鹿が居なくなったのが運の尽きよ。アンタは海であの馬鹿に買われた。もう一度海に引きずりこめば今度はアタシのモンよ」


「やめろ!」


 喰われまいと上体を起こし何かに縋ろうとする。しかしそこは海水に濡れた砂だ。厚い板のように固い砂に指をかけようとするが人魚の強大な力によって虚しく抜けた。体を横転させて振り払おうとすれば下肢を引っ張る人魚の鋭い爪が脹ら脛に食い込む。海に引き込まれる度に砂と体がこすれシャリシャリと音がたつ。人魚の力は化け物じみていた。


 攻防する内に胸が海水に浸かる。夢なら一刻も早く目覚めてくれ。瞼を固く閉じ念じるが心体は変わらず海に浸かっていた。胴と首筋に人魚の爪が食い込みマスクのレンズに彼女の涎が滴り落ちる。いよいよ喰われると覚悟を決めた瞬間、砂が鳴いた。すると人魚の力が一瞬にして抜けた。恐る恐る瞼を開く。


 僕の腰に手を回した人魚が砂浜を睨みつけていた。砂が鳴いた場所を見遣ると、頭から指一本分離れた位置に鍔の無い短剣が突き刺さっている。


「また邪魔するのね、ニエ。パーンの差し金ね」人魚は怒気を含んだ声を振り絞る。


 砂浜から誰かが近付く。その人は波打ち際に突き刺さった短剣を引き抜く。白くて綺麗な細腕が視界に入る。女性だろうか。


 彼女には短剣を鞘へ納める気配はなかった。人魚は舌打ちをし『悪魔の手先が』と一人ごちると僕を離し海へ潜って行った。


 僕は深く息を吐き立ち上がると振り返った。そこにはニエと呼ばれた女がいた。ツタの冠を頂き茜色の髪をゆるく三つ編みにして胸まで下げている。スラブ風の白いワンピースを纏った彼女は短剣を握りしめている。姿が目立つのは美しい髪でもなく纏っている凛とした雰囲気でもない。目許に巻いている包帯だ。包帯は両の眼窩をなぞるように窪んでいた。眼球がないようだ。


 ニエは溜め息を吐くと短剣を鞘に納め、砂浜に置いたバタールの袋を片手に抱えた。茫然と眺める僕に微笑み手を差し出した。見えているかのような身振りだ。笑顔を表すのは口許だけだが愛らしい。ニエは僕の腕をすくい上げると手で包み込んだ。そして二度引っぱり、パーンが走り去った方向を指差した。


 危害を加える気はなさそうだ。また命を救われた。麻痺していた頭が活動を始めた。先程から言葉を発しないニエは声を出せないのか。不自由なく振る舞っているが何も見えないのだろうか。夢のような世界に放り込まれ二度も命の危機に瀕し、もう驚く事はないだろうと思っていたが期待は裏切られた。明晰夢ではないようだ。ならばこの愛らしい恩人の言う事を聞くのも一興だ。僕が頷くとニエも徐に頷き、手をとったまま海岸を後にした。


 海岸を抜け先の見えない道を歩くニエの後を従う。傾いた日が道の右側に広がる荒地を茜色に照らす。カラスが鳴き叫ぶ。それだけの風景なら不安を感じただろう。しかし命を救ってくれた愛らしい女に手を引かれ温かいと感じた。朧げに光る玉が尾を引いて空をふらつくのを眼で追った。玉は渦を巻いて他の玉と戯れたと思えば消える。


 暫くすると道が二手に分かれた。荒れ地を横断する道が分岐していた。しかし道とは名ばかりで轍が付いただけの地面だ。


 荒れ地を横断しようとニエは一歩踏み出す。僕の手も引っ張られ我に返る。しかしその刹那、僕の手からニエの手が滑り落ちた。地面に崩れ落ちたニエは頭を両手で抱える。手の甲は骨の筋と血管が浮き出て小刻みに震える。俯いていた彼女は天を仰ぐと思い切り歯を食いしばる。嫌な音が辺りに響く。僕は言葉を失い、呆然と立ち尽くした。


 ニエは倒れた。僕は彼女の背を抱えた。額が汗ばんでいた。大きな玉の汗が流れ落ちる。血が眼窩の形に包帯を湿らせる。


「一体どうなってるんだ!?」


 落ち着いたと思ったのも束の間、ニエの口が裂ける程大きく開いた。そして激しく首を横に振る。彼女の冠からツタの葉が一枚落ちた。苦痛を叫べず泣く事も許されない彼女は自らの腕に噛み付く。腕が小刻みに震える。腕から顎を引き離そうと試みたが徒労に終わり、その様を見守る他なかった。


 やがてニエは腕を解放した。白い細腕には前歯の痕が刻まれ犬歯が刺さって空いた穴から血が流れ落ちた。彼女は体を僕に委ねた。穴が空いた腕が力なく上がり僕の手を捕える。ニエは掌に字を綴り何か伝えようとしたが気を失った。


 何を伝えようとしたのか僕には分からない。しかし一刻も早く彼女を休ませる場所を探さなければならない。闇が空を覆い夕日の残照に包まれた西の地を飲み込もうとしていた。もうすぐ夜だ。彼女が進もうとしていた果てしない荒れ地を突っ切るなんてとても出来ない。ニエを背負うと杖のような痩躯を引きずり真っ直ぐ進んだ。海から引き上げられた時は混乱してパーンに冷たい態度をとってしまった。しかし二度目に命を救ってくれたこの恩人には今、礼を返そうと誓った。


 人を背負った経験などないのだろう。背が引きつる。歩みを止めると上体を屈め、落ちてきたニエを背負い直した。彼女の額が肩に当たる。髪から樹皮と草を思わせる良い香りが漂う。思いがけない香りに鼓動を跳ね上がらせたが唇を強く噛み、自分を戒め歩んだ。


 四つ角にぶつかると右対岸の角に明かりの灯った家が見えた。静謐な空気の中、屋根では風見鶏が金属音を響かせる。急いで歩みを進めた。


 背高の一軒家の窓は汚れで曇っていた。そこから光が漏れる。食べ物を煮込んだいい香りも漂う。家主に助けを求めるべく木のドアをノックしようとした。しかしニエを背負っているのでそれが出来ない。ドアを軽く蹴ろうか頭部を打ち付けようか悩んでいるとドアは独りで開いた。予期せぬ展開に声を失う。中から『入り給え』と男の低い声が僕を招いた。唾を飲み込むと家に入った。


 頭に軽い物が当たる。乾燥したホオズキを連ねたモビールだった。避けつつ進むと視界を大男が遮った。彼は白いカッターシャツに黒いタイを締めている。闇色の短髪の端正な顔立ちの男だ。美しい鈍色の瞳をしていたが左眼窩を黒い眼帯で遮蔽している。


「コレが世話になった。ここまで運ぶのは大変だったろう。受取る」ニエを『コレ』と物呼ばわりしたのは低い声の主である頬が痩けた大男だった。


 いやに落ち着いている。失神したニエを大男が気にしているようには見えない。それどころか雪が舞う厳冬の空のような隻眼は全てを見透かしているようだ。


「医者を呼んで下さい」僕はニエを下ろした。


「医者なぞ居ない。偶に起こる些細なアクシデントだ」大男は僕の背後に回りニエを軽々と抱き上げると奥の階段を昇った。


 二階へ上がる逆二等辺三角形の引き締まった体躯を見送った。所在無げに辺りを見回す。ガラクタに埋もれかけた赤いトルコ絨毯にはテーブルが鎮座していた。テーブルには夕食が所狭しと並んでいる。あの大男が用意したのだろうか。しかし幸せなテーブルの中央には不釣り合いな物が乗っていた。一輪の赤いガーベラを支えるビーカー、その容器の底にはエメラルド色の虹彩を輝かせた二つの眼球が沈んでいた。僕は腕に立った粟を撫でた。


 早々と介抱を終えた大男が階段を降りる。


「用意した食事が無駄になる。礼もしたい。食べ給え」


 僕は後退ったが細やかな抵抗で大男の目を見つめた。冷たい隻眼が僕を見下ろす。


「……あの」


「ランゲルハンス」大男は僕の声に自分の声を被せた。


「え」


「私の名だ」


「……ランゲルハンスさん。彼女の容態は」


「敬語は抜きでいい。椅子に掛け給え、クチバシ医者よ」


 勝手な名前で呼ばれ不愉快になったが、抗えぬ雰囲気に木の椅子を引くと腰を掛けた。


「君も飲むかね?」


「ああ」語気に少し苛立ちを混ぜた。


 ランゲルハンスは麻紐で吊るしていたビーカーを外すとワインを注ぐ。汚れで曇ったビーカーにワインが満たされると自分のグラスにも注ぎ、引っ掛けた。僕はビーカーを手にすると顔を近づけ香りを確かめた。


「それはアレが作ったものだ」ランゲルハンスは天井を見遣る。二階では気絶したニエが休んでいる。僕は顔を上げた。


「古い友人がワイナリーを営んでいてね。収穫と茜ブドウ踏みを手伝わせにアレを貸す」


「彼女の……彼女の具合はどうなんだ? 血が包帯から滲んでいた。気を失うまでとても苦しそうだった」


「一晩眠れば治る。アレは倒れても一人で戻って来られる。便利な道具だ」


 怒りで瞳を細め俯くと白い取り皿に唐突に赤い液体が現れた。血だ。僕は眼を見開く。血痕の広がりから察するに真上から垂れてきたようだ。まじない道具が揺れる天井には赤い染みが広がり、テーブルへ血が滴る。碌な治療も施さない。物呼ばわりして眼球を取り上げる。ランゲルハンスがニエにした仕打ちを思うと体の芯から怒りが湧き上がった。


「彼女を物呼ばわりするな!」痩躯中の勇気の欠片を集め、隻眼を睨む。


「おお、おお、勇ましいものだな。恐い恐い」ランゲルハンスは喉を小さく鳴らし笑った。


「治療せずに放っておくのか!? 死ぬぞ! ビーカーの眼球は彼女の物だろう!? 何故眼を取り上げた!?」怒りを露わに立ち上がる。


 ランゲルハンスは滑稽だとばかりにテーブルに肘をつき鼻で笑った。


「返せとでもいうのかね。焼こうが煮ようがアレは私の道具だ」


 足音を荒げて近寄ると左手でランゲルハンスのタイを掴み肉薄した。


「お前は悪魔だ」

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