第2章 第1話 堕天使の契約者

「凄い…」

巨大な高層ビルが目前に聳え立つを見て、思わずその言葉がもれた。


何車線もある道路には無数の車が、引っ切り無しに行き交い

絶え間ない騒音と熱気を生み出していた。


それに並行する歩道も無数の人で溢れかえり、田舎者の杏華はただただ圧倒された。


この辺には中学の修学旅行で一度来たことがあるのだが

その時はバスの中から覗いただけだったので、ここまでの実感は無かった。



「杏華、こっちだよ。」

間抜けな顔で立ち尽くす杏華に向かってメフィストは言った。


「あ、うん。」

気を取り直すと慌てて先を行くメフィストに駆け寄った。


「こんな人混みで逸れたら大変だからね。

 ほら、手を繋いでいこう。」


メフィストは小さな子供を持つお父さんみたいな事を言いうと

手をこちらに差し出した。


「だ、大丈夫よ! 

 しっかり着いていくから心配しないで。」


確かにこの人混みで逸れたら面倒な事になりそうだ。


だが、田舎者だと周りの人に気付かれたくない気持ちと

異性(?)と手を繋ぐという行為への拒否感がそれを上回った。


メフィストはファッションセンスはともかく

顔だけみれば外国映画に出てきてもおかしくないほどの外見だ。


まあ、悪魔なんだからきっと外見など自由に変えられるのだろう。

私だって自由に姿を変えられるなら、モデルみたいな外見に変身しているはずだ。


人を騙すにはまず外見から。

そんな昔見たTV番組のナレーションが頭の中で再生された。


悪魔と詐欺師なんて、人間かそうでないかの違いしかない。

そう思いながらも、ついまじまじとメフィストの顔に見入ってしまう自分がいた。


色素の薄い淡いグレー銀髪に、宝石の様に綺麗な濃いブルーの瞳

細身でやや彫の深い顔立ち。


常に薄い笑みを浮かべているので、軽薄な印象を受けるが

それを差し引いても十分すぎるほどイケメンだった。


その証拠に、この人混みの中でも独特の存在感で

通り過ぎる女性達の視線を集めるほどだ。


本当ならそんなイケメンと一緒だというだけで、優越感に浸れるはずなのだが…



「そうかい? まあそんなに遠くないから大丈夫か。」

メフィストはそう言って肩を竦めると、再び歩き出した。


先を行くメフィストの後をついていきながら

杏華は何故自分がこんな場所にいるのかを、改めて思い起こした。





今から数時間前、廃工場でメフィストと契約した事で杏華の全ては一変した。


「君はこの世界から消滅した。」と言ったメフィストの言葉は真実だった。


今も自分はここに居て、普通に考えたり、話したりできる。

体も五体満足で十分すぎるほど健康だ。


そう私自身は消えたりしていない

消えたのは私自身以外の私だ…


つまり、この世界が持っていた私についての情報が全て消え去ったのだ。


家族や学校の関係者、それ以外で関わりのあった全ての人達の記憶から霧崎杏華は消えた。


家族のアルバムに私の姿は無く、携帯の連絡先にもクラス名簿にも私の名前は無い。

私という存在は、私が生まれる前まで遡って消滅した。 らしい…。



私がこれまで生きてきた過去の痕跡が、綺麗さっぱり消え去って

この私自身だけが取り残されたのだ。



正直最初にメフィストからその説明を受けた時

とても本当の事だとは思えなかった。


自分の家族や友達が、私を忘れるなんて信じられなかったし

信じたくなかったのだ。


だから父や母が、私をまるで見知らぬ他人の様に扱ったとき

メフィストが言っていた事が本当なんだと理解した。


家族、友達、学校…、そんな当たり前の物が、自分にとってどんなに大事だったかを

今更ながら思い知らされた。


泣きながら母に縋りついた時に見せた、母の心底困惑した顔が

今でも頭から離れない。


早朝から見知らぬ他人が家に押しかけて、あなたの娘だと言われた時の母の顔は

今まで決して娘に向けられた事の無い顔だった。


見かねた父が警察を呼ぶと脅してきた時

メフィストの言った事が決して嘘では無かったと実感した。


家族という自分にとって掛け替えのない安住の地は

永遠に失われてしまったのだ。


最後に遼子に会ってみるかと聞かれた時、迷い無く首を横に振った。

もうこれ以上傷付きたくなかったのだ…。


私は普通の女子高生から、一夜にして身元不明のホームレスになった。


絶望に沈み死にたいと訴える私を、メフィストは止めなかった。

むしろ禍々しいナイフを私に渡し、不死身になった私でも死ねる方法を教えてくれた。


「正確には肉体的に死ぬのでは無く、今の君自身の記憶を消すだけだが

 今の君が居なくなるという意味では死と変わりない。」


その教え方はとても丁寧で、まるで私が自殺する事を望んでいるかに見えた。


震える手でナイフを握り、自分の自身に突き刺そうとしたが

それ以上は恐ろしくて何もできなかった。


絶望よりも、自分自身が消えるという恐怖が上回ったのだ。



結局私がした事は、ありったけの罵詈雑言を駆使して泣きわめく事と

疲れ果てた後、どうして良いか分からず途方に暮れる事だけだった。



詐欺紛いの契約で、私から全てを奪ったメフィストを心底憎んだが

今の自分にはその悪魔しか頼るべき相手が居ないのだ。


悔しいが、自分一人ではこの先どうして良いかまったく分からなかった。


死ぬ勇気も無く、生きた抜け殻となった私をメフィストは言葉巧みに誘導し

地元から車や電車を乗り継ぎ、この大都会まで出てきたのだ。


何故こんな都会に出てくる必要があるのか分からなかったが

とりあえず数日はこの街のホテルを拠点にして、今後の方針を決めるらしい。


暫くは自由に遊んで良いと言われたが、そんな気分にはとてもなれそうも無かった。





ここに来るまでの道中あの悪魔の神殿で見た

変わり果てた先輩についてメフィストが話してくれた。


あの悪魔は先輩を食べたが、全ては食べずに

ギリギリ存在が維持できる分だけは残していたのだ。


何故そんな事をしたかは分からないが、そのままでは消えてしまう先輩に自分の魔力を注いて首だけのあの姿のまま生かしていたらしい。


だが、あの悪魔が消えた事で魔力の供給元を失った先輩は

あの神殿と同様に消滅する運命だとも。



1年近くの間、悪魔に囚われ拷問の様な扱いをされ続けた先輩の苦しみを思うと

胸が張り裂けそうだった。


先輩に一体どんな罪があって、そんな酷い目に合わされたのかと泣いた。


「君の決断が彼女をあの悪魔の束縛から解き放ったんだ。」

泣きじゃくる杏華にメフィストは慰めるように言った。






メフィストが言う目的のホテルは、駅から少し歩いた場所にあった。


「とりあえず暫くはここに泊まるよ。」


メフィストが示したホテルは、見上げるほど高いビルで

入口にはコスプレじみた制服を着た男性達が、一部の隙も無い姿勢で立っていた。


ガラス張りのロビーは驚くほど立派で

自分達にはちょっと高級すぎるのではと尻込みした。


ホテルの高級感に腰が引けている杏華に気付かず

メフィストは先にホテルに入ろうとしていた。


「凄く高そうなんだけど、お金とか大丈夫なの?」


メフィストに追いつくと、周りに聞こえない様に小声で聞いた。

悪魔ならお金の心配はいらないと思いたいが、聞かずにはいられなかった。


「あははは、そうかその辺の説明がまだだったね。

 もちろん大丈夫さ。 僕に任せておきたまえ。」


メフィストは笑いながら軽くウインクした。

どうやらお金の心配は杞憂だったみたいだったので少し安心した。


どうせまっとうな出所のお金では無いだろうが

無銭宿泊で他の人に迷惑をかけるには回避できそうだった。


ロビーに隣接したラウンジにはモデル風の女性や、上品そうな老夫婦

恰幅のいいスーツ姿の中年男性など様々な人たちが寛いでいた。


中にはテレビで見た事のある著名人も居た。

誰も彼も高級そうな品を身に着け、別世界の人間に見えた。



「私場違いじゃないかな?」

受付を済ませたメフィストが戻ってきたので、心配になって思わず聞いてしまった。


「ん? なんの事だい?」

聞かれたメフィストは不思議そうに杏華を見た。


「だから、私このホテルで浮いていなかって聞いてるの。」

理解の悪いメフィストに少しイラつきながら言った。


「浮いてないかだって?」

メフィストはそう言うと、杏華を真剣に見つめながら黙り込んだ。


「ちょっと…」

急にメフィストにまじまじと見られて、恥ずかしくなった。


昨日(日にち的には今日だが)の戦いで着ていた服はボロボロになってしまったため

今はメフィストが用意してくれたシンプルなワンピースを着ていた。


「少し季節外れではあるが、別に変じゃないと思うけどね。

 うん、似合っていて可愛いよ。」


メフィストはどうやら服装について聞かれたと勘違いしたらしく

検討はずれな返答した。


「もう、そういう事じゃなくて…。」


明らかにお世辞だと分かったが

かわいいなどと言われ慣れていないので、照れくさくなってしまった。


「みんなお金持ちそうな人達ばかりだし

 私みたいな田舎者が居ていいのかなって…。」


消え入りそうな声でなんとかそう言った。


「ははは、誰もそんな事気にして無いよ。

 それにこんな所で気後れしていたら、今夜は大変な事になるよ。」


メフィストはさらっと気になる事を言った。


「今夜何かあるの?」

なんだか嫌な予感がした。



「ああ、僕達のチーム結成を祝って、ご同業達がお祝いのパーティーを開いてくれるのさ。」


「こじんまりとした集まりだが、出席者はそれなりの面子になるだろうね。

 だからその時にはTPOを弁えて、ドレスで参加してもらうよ。」


「え?」

なんなのそれは、そんなの聞いていない。


「人と人ならざる物の社交界って所だね。」

困惑する杏華を気にせずメフィストは独り言の様にいった。



「社交界…」


それはあまり現実味のある言葉ではなかった。

どう考えても映画や物語の世界だけの物だった。



それに私が参加する?

しかもドレスで?


ドレスなんて七五三以来着た記憶がないし

社交界に出ると言われてもどんな物かピンと来ない。


が、決して興味が無い訳ではなかった…

むしろシンデレラの様に変貌した自分を想像して少しときめいた。


「まあいいわよ、他にする事も無いし…」


なんとか平静を保とうとおざなりな返事をしたが

そういいつつも、胸が期待で膨らむのを止められなかった。


「少しあっちのお店見てくる。」


自分の気持ちをメフィストに知られたく無かったので

悟られないようにホテル内の売店の方に小走り去った。



そんな杏華をほほえましく見つめていたメフィストは


「まあ、お祝いとは建前で、彼等の目的は別の所にあるのだけどね。」

メフィストは誰に言うまでも無く呟いた。




高級ホテルでの宿泊に、ドレスを着てパーティーに参加。

こんな状況なのに、その事を考えると胸が高鳴る自分に呆れた。


大切な物を根こそぎ奪い取られた直後なのに

こんな分かりやすい餌に易々と釣られる私は一体何なのだろう…。


確かに失った物を何時までもウジウジ悩んでも仕方が無いとは分かっているが

昨日の今日でそんなに簡単に気持ちを切り替えるのは、自分が失ったな物に対する侮蔑に思えた。


自分の感情を整理しきれず、立ちどまってしまった杏華の横を

楽しそうな家族が通り過ぎた。


杏華はその家族に自分の家族の姿が重ねて見えた。


お父さん、お母さん、丈耀…


もう会えないのかな…

そう考えると涙がとめどなく溢れてきた。


もし私が契約しなければ、メフィストの言う事を無視していれば

こんな事にならなかったかもしれない…




本当に?

本当にそうなの?


ううん、違う!

違う、違う!



そうしなかった遼子ちゃんがあの悪魔に殺されていた。


その後も他の友達や、父や母もいずれ殺されていたかもしれない。

もちろん私自身も…。



それに比べれば、今の方が遥かにましだ。

杏華は首を振って自分に言い聞かせた。



遼子ちゃんを助ける事ができた。


その代償は想像以上に大きかったが、もし時が巻戻って同じ選択を迫られたら

次も同じ選択をしただろう。



それだけは自信を持って言える。

それがたとえメフィストの策略だったとしてもだ。



それに悪魔はあいつだけじゃない、他のも沢山の悪魔が

人間達の生活を命を脅かしているのだ。



私はそれを阻止できる、掛け替えの無い力を得たのだから

くよくよしてその力を無駄にするなんて許されない。


杏華は深呼吸すると、涙を拭きとった。


まだ何が出来る事は分からないが

くよくよして立ち止まってちゃだめだ。


そう決意した時、お腹がぐーっと鳴り響いた。


そういえば、昨日の夕食以降まったく食事を取っていなかった。

契約した事で食事の必要が無くなったと思ったが、単に精神的な理由だったらしい。



「身体は正直だな…」

杏華は涙を拭きながら苦笑した。

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