第1章 第5話 悪魔


杏華が意識を取り戻すと、真っ暗な部屋のベットの上で寝ていた。



身体の上には、いつのまにか毛布がかかっていた。

どうやら寝ている間に母が掛けてくれたらしい。



昼間は残暑で少し暑いぐらいだが、夜は冷えるので母の気遣いに感謝した。

うっすら見える時計は午前2時を過ぎていた。



杏華は寝返りをうつと涙がほほからこぼれ落ち、自分が泣いていた事に気が付いた。

なんで涙を…そう思った時、自分が見た悪夢を鮮明に思い出した。



廃工場で行われた猟奇的な殺人に、首だけの先輩…

恐ろしい夢を見たせいか、手が汗で湿っていた。



「なんて夢…」


夢は深層心理や無意識の願望などを現す物らしいが

それを否定したくなるほどグロテスクな夢だった。



自分の中の一体何があの夢をみせたんだろうと杏華は困惑したが

同時にあの取り返しがつかない出来事が、全部夢だったという安堵感もあった。



化物が出てくる時点で夢だと気付くべきだが

悲しいかな夢を見ている時はそこまで頭が回らないものだ。



改めて夢を思いかえすと、そんな馬鹿馬鹿しささえ感じられた。

でも少し刺激的だったかも…



あんな凄惨な夢なのに、少し扇情的だった…

杏華は激しく愛し合うカップルの痴態を思い出し、はずかしくなり身を捩った。



「あれは夢じゃないよ。」


「!」


突然誰かの声が聞こえた気がして、杏華は身体を起こすと辺りを見廻した。



照明は点いていないが、目が慣れてきたためカーテンから差し込む僅かな明かりでも部屋に誰も居ない事は分かった。



杏華が怪訝な顔をした時


「やあ、聞こえるかな? 僕だよ、僕。」


今度はもっとはっきりと声が聞こえた。

聞き覚えのある男の声だが、その声の持ち主を思い出せなかった。



「丈耀?」

まだ半分夢うつつな頭で、この部屋にいる可能性の高い人間の名前を言った。



「あははは、なかなか愉快返事だね。」

声は楽しげに言った。



どうやら弟のイタズラではないらしい。

そもそも弟はまだ変声期前だから、こんなに低い声ではない。



知っている誰かが、この部屋に居るはずなのに姿はまったく見えない。

もしかしてこれってまだ夢の続きなのかも。



そう考えると、この不可解な出来事にも納得がいった。



「あなた誰なの?」

一応誰だが気になって聞いたが、まだ夢の中なら別に誰でも良いとも思った。




「ひどいな、結構長い付き合いになるのに。」

批難の割に声は楽しそうだった。



「僕だよ、僕。夢の中で何度も話だだろう。お喋り好きの気の良い悪魔さ。」



「悪魔…?」

その言葉に、過去に見てきた粘着質な悪魔の出る夢を思い出し不愉快になった。



さっき悪夢をみたばかりなのに、なんでまた悪夢を見なければならないのか!

杏華は無性に腹がたった。



「悪魔なんてまっぴらごめんよ! もうあっち行って!」

そう言うと手元にあった枕を手に取り、声が聞こえる方向に目がけ投げた。



枕は空を切り、奥の棚にぶつかった。

その衝撃で棚の上の写真立てが落下し、落ちた勢いでバラバラに砕けた。



「あ!!」

お気に入りの写真立てが壊れた事に、杏華は焦った。



急いで壊れた写真立ての元に駆け寄り手に取ったが、額のつなぎ目が砕けてしまっていて簡単には直せ無さそうだった。



「うっぅぅぅぅっ」


「もう、あんたのせいで壊れちゃったでしょ!」

自分の軽率な行為を棚に上げ、悪魔に悪態をついた。



と同時に、これが夢なら目が覚めれば元通りになっている事に気付いた。



「夢で良かった…」

杏華はその場にへたり込み、安堵のため息をついた。



しかし夢なのにすごくリアルだなと思い、手にした写真立てをまじまじと見た。



折れた額の木材からは、ささくれた木の繊維が針の様に突出し痛そうな雰囲気をだしていた。



試しに指で尖った先を触ると、かすかな痛みを感じた。



なんだろう、夢なのにどうしてこんなにリアルに感じるの…

杏華は暗い部屋を見渡した。



ここは本当に夢の中なんだろうか?

今までも明晰夢は何度もみているが、ここまでリアルに感じられる事は無かった。



先ほどみた悪夢もリアルだったが、触れることすらできなかったはずだ。

杏華は手を軽く抓った。



「痛い…」

そこまで強くは抓らなかったが、それでも明確な痛みの感覚を感じた。



「もしかして…」

そう言いながら杏華はこれが夢では無いのかと思いはじめた。



じわじわと何か恐ろしい予感が杏華を包み、杏華は恐怖で自分の身体をきつく握りしめた。



きっと気のせいだ…

寝ぼけていたに違いない…



そう自分に言い聞かせながら

耳を澄まし、幻聴であってくれと願いながら辺りの様子を窺った。



暫く沈黙の時間が流れ、杏華が気のせいだだったと安心した瞬間



「悪魔はお嫌いかい?」と声が聞こえた。



杏華は全身の血が氷付いた気がした。

幻聴じゃない!



たしかに鮮明に聞こえた。

こわごわ辺りを見るが、姿は見えなかった。



「どこにいるの?」

杏華は泣きそうな声でか細く聞いた。



「嫌だなそんなに怖がらないでくれよ。

 夢の中で何度も話をしたろう。」



まあ、ほんとは夢じゃないんだけどね…

そう付け足したが、杏華は聞いていなかった。



「夢の中!」



「そうだ夢だ!!」

杏華は鮮明に思い出した。



半年ほど前から、何度も何度も見ている夢の事を。

これまで起きると忘れてしまっていた夢での出来事を、つい昨日の事のように全て思い出せた。



最初は暗い靄の立ち込めた場所で、姿の見えない謎の声から離し掛けられたのだ。



細かい内容までは覚えていないが、夢なのだから姿の見えない相手との会話も別段気にならなかった。



軽快な口調と柔らかい物腰に好感が持てたので、むしろ楽しみにしてたと言っていい。



何度も同じ夢を見る不思議はあったが、普段接点の無い年上らしき男性との密かな逢瀬は、自分が少し大人になった気がして嬉しかったのだ。



そう、声が自分の正体を言うまでは…。



ある日声は告げた

「僕は悪魔なんだ。」と…



自分には目的があり、それには杏華が必要だと。



自分を悪魔だと告げた声を杏華は嫌悪した。

今までの事は全て自分を利用するための作戦だったのだ。



いくら夢とはいえ、悪魔と名乗る存在に心許した自分が許せなかった。

その後いくら杏華が拒んでも、何度も何度も夢に現れ恐ろしい話をして来るのだった。



声を聴くたびに裏切られたという思いと、そんな相手に好意を抱いた自分への嫌悪感に襲われた。



そんな相手がついに現実の世界にまで押し寄せてきたのだ。

これは悪夢以上の恐怖だ…。



「どうして夢じゃないのに、あなたがいるの!?」



「夢の中でしか声を掛けれないっていってたじゃない!」

杏華は恐怖よりも、自分に嘘をついた事への怒りが勝った。



「ああ、今までは君が意識を閉じている時しか、僕の声を届けることができなかった。」


「どんなに高い適正を持つ人間でも、こちらの世界にいたままでは僕達の声を届けるのは難しい。」



「そう、普通の人間にはね。」



「……」

杏華はだまって悪魔の言う事を聞いた。



「先ほどの体験で、君はもう普通ではなくなってしまった。

 現実世界で悪魔に強く関わってしまった事によってね。」



それが先ほど杏華が見た悪夢の事を言っていると直ぐに分かった。

廃工場で行われた惨劇、あの悪夢を見た事で…。



だが、あれは本当に悪夢だったのだろうか…。



「君は魂だけとはいえ、悪魔の作った神殿に入った。

 入るのは簡単だが、そこから出てこられる人間は少ない。」



「悪魔に関わった人間は、普通ではいられなくなる。

 ただでさえ素養の高い君ならなおさらだ。」



自分があの悪夢を見た事で、自称悪魔が現実まで押し掛けられるようになった?

怖い夢の見返りが、お喋り悪魔が現実に解放される事だなんて不条理すぎる。



「ようやくこの段階までこれた。

 時間はかかったけど、これからが正念場だ。」



自称悪魔が何を言っているか、杏華にはさっぱりわからなかったが

杏華には聞くべき事があった。



「あなたは一体何なの」

杏華は姿の見えない相手に強い口調で問いかけた。



「悲しいな、もう出会ってから半年近くたつのに。」

声は少しも悲しみを感じられない口調で返した。



「でもまだ正式な自己紹介はまだだったね。」



「僕の名はメフォストフィレス。

 今後とも宜しく。」



「…」

杏華はなんと言っていいかわからず沈黙した。



「今ではメフィストと言った方が通りがいいのかな?」

 反応に困っている杏華に声は続けて言った。



「メフィスト?」



「まあ君でも名前くらいなら聞いたことがあるだろ?

 世界でもっとも有名な悪魔の一人さ。」



「…はあ…」


杏華は気の無い返事で返した。

どうやら杏華はこの名前を聞いた事がないらしい…



「いやはやなんと…。」

流石の悪魔も杏華の教養ぶりに少し呆れた。



「その有名な悪魔が私に何の用なの。」



メフィストが更に何かを言いかけたが

その声を遮って杏華はいった。




「いい質問だ。話が早くて助かるよ。

 実は君にすごく大事なお願いがあるんだよ。」



声はまってましたと言わんばかりに言った。



「お願い…?」

嫌な予感に杏華が身を固くして聞き返した。



「僕と契約して、僕が天使に戻る手伝いをして欲しいんだ。」



何を言っているが理解できなかったが、契約という言葉から漂う危険な気配は感じ取れた。



「実は僕達悪魔は、神から罰を受けてある場所に幽閉されているんだ。

 気が遠くなるほど長い期間閉じ込められて、もう暇すぎて死にそうなほどだよ。」



「だが神も流石に厳しすぎたと反省したのか、罪深い僕達に挽回のチャンスをくれたんだ。心を入れ替えて働く悪魔に、再び天使に戻れるチャンスをね。」



神や悪魔に加えて天使? 


まったく現実味の無い話に頭がクラクラしたが、そんな杏華を無視してメフィストは上機嫌に語り続けた。



「そのチャンスをものにするには、君の助けが必要なんだ。

 僕が天使に戻れた暁には、君の願いを何でも叶えてあげよう。」



あまりにうん臭い話だったが、話が現実離れしすぎていたため

もう適当に頷いて、この自称悪魔を満足させてしまえばいいのではとも思えてきた。



ヤバイ!ヤバイ! ありえない事のオンパレードで感覚が麻痺してきてる。

これはそんな適当に相手をしちゃいけない相手だ! 



杏華は本能的に何か危険な物を感じ、安易な考えを振り切った。



「それに僕と契約すれば、契約特典として不老不死に加え、贅沢も思いのままだ!

 もちろん代償はあるけど、悪い取引では無いと思うよ。」



メフィストはとりあえず言いたい事は言いきったのか、暫く沈黙が流れた。



何やら色々言っていたが、杏華の心にはまったく響かなかった。

どうすればこのストーカーが諦めて居なくなるかしか関心がなかった。



「まあ、今すぐどうこうする気は無いから安心して欲しい。

 いずれ時期がくれば、君から契約を願いでてくるだろうけどね。」



沈黙したままの杏華を見かねたのか

悪魔はそう最後に言った。



そんな日は絶対来ないと思ったが

得体のしれない相手に無暗に逆らうのは得策ではないと思い、杏華は無視した。



「悪魔って本当にいるの?」

自称悪魔にする質問では無いと思いつつも、言わずはいられなかった。



「君の考える悪魔とは乖離があるかもしれないが

 君達人間から見たらその言葉に相応しい存在は実在すると言っていい。」



妙に奥歯にものがつかえた言い方だが、杏華に説明しようという意志は感じた。



「あなたは天使に戻りたいの?」



神に罰を受けた天使が悪魔になった話は聞いた事があるが

悪魔が天使戻るなんて話は初めて聞いた。



何故そこが気になるかは分からなかったが、つい聞いてしまった。



悪しき存在がその働きにより救われるというのは

希望のある話に思えたのかもしれない。



「もちろん。

 長い幽閉を経て、改めて神の偉大さと尊さに気づいたからね。」



「再び彼の従僕となれるのは、とても素晴らしい事だ。」



嘲笑的なニュアンスを感じとれる言い回しに違和感を覚えたが

天使になりたいという意志があるなら悪い人?ではないのかもとも思った。



「それで天使になるには、実際には何をするの?」

手伝う気は更々無いが、そこには興味があった。



たとえそれが嘘でも、この状況を改善するための手がかりがあるかもしれない。



「それだよ。この話をするに辺り一番大事な所だ。」

悪魔は少し演技がかった声でいった。



「僕の様に天使に戻る事を望む善良な悪魔もいれば

 地上で享楽を貪る事を望む、邪悪な悪魔もいるんだよ。」



「さっき君も見ただろ、あれこそまさに悪魔の名に相応しい存在だ。」



「さっき夢で見た化物のこと?」



杏華は思い出した、夢で見た醜悪な化物の事を。

あれは悪魔というより、怪物と言う方が相応しい気がした。



「いいや、あれは夢じゃない。まぎれもない現実だ。」

悪魔は諭すように杏華に言った。



「夢じゃない?」 



「ああそうだ。」

悪魔は断定する様にいった。



「ちょっといいかげんな事言わないで!」

杏華は怒って叫んだ。



人間を嬉々として殺す化物、そして首だけになった先輩。

そんなものが現実のはずがない!



もしあんなのが現実にあるとしたら…

それ以上は怖くて考えられなかった。



「嘘じゃない。

 あれは夢などではなく、あの場所で実際に起こった事だ。」



「やめて…」




「君は精神、いや魂と言ったほうがいいかな?

 魂の存在のみで、僕に導かれてあの場所に行った。」



「あの悪魔の神殿にね。」



「やめて…」

そんな話は聞きたくない!



杏華は自分の世界が壊れそうになるのを防ごうと、必死に抵抗した。



「君も見ただろ。

 あれが悪魔だよ。人を喰らう化物さ。」



「醜悪で無慈悲な欲望の権化さ。

 あれの前では速やかな死だけが最後の希望さ。」



「やめて…」

杏華は消え入りそうな声で喘ぐように言った。



「そして君の友達、彼女はあの状態でまだ生きている。」



「やめてえええええええええええ」

杏華は悪魔の声を遮るように絶叫した。




嫌だ嫌だ嫌だ!そんな話は聞きたくない!

そんな話は嘘に決まっている!



あれが現実であるはずが無い!

杏華は目をつぶり、耳を塞ぎベットの上で縮こまった。



もう悪魔は何も言わなかった。



部屋に静寂が戻り、窓の外から救急車のサイレンが遠ざかる音が薄らと聞こえた。

杏華は嗚咽を響かせながら泣き続けた。

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